李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1990年のみ言、「自分に勝とう」の〆です。
☆
戦いの対象は自分
「何の条件もないのに鞭打たれた」と言って、
悔しく思ってはならないのです。
善なる人は、心がすべてを
分かるようになっているのです。
最初、自分が失敗したように、
負けたように、
無視されたように思えるのですが、
心は強くなるのです。
☆
お父様は迫害された時に、
「よし、あとで見よう。
時間の問題である」と思われながら、
ずっと耐えてこられたのです。
「善を行ったなら落胆してはならない」
と聖書では証しています。
善とは何でしょうか。
物事に誠を尽くし、すぐに良い結果が
出ないといっても慌てずに、
与えられた環境を立派に勝利することも
善なる行為の一つなのです。
☆
人には忍耐心がなければなりません。
マラソン選手が競技中に息が苦しいといって
休んだのでは、勝つことはできません。
マラソンは自分との限りない戦いなのです。
ですから、他人と競い合って勝つのではなく、
自分と戦って勝たなければならないのです。
信仰生活も同じです。
お父様は、「天宙を主管する前に自己主管」
と言われました。
自己主管ができれば、天宙主管ができる
というのがお父様の生活信条です。
☆
自分に勝つことです。
自分自身に負けると、すべては失敗です。
ゆえに、このような生活信条をもって
私たちは、信仰生活に臨まなければなりません。
自分に勝とう、眠ることに勝とう、
食欲に勝とう。
情欲の奴隷になってはいけません。
精神力をもって肉身を克服しなければなりません。
このように日常の小さなことまで
勝利しなければなりません。
☆
人の一生とは、考えてみれは短いものです。
あっという間に三十歳、四十歳になるのです。
そのような人生なのに、
この肉身の欲望に負けていては、
本然の価値を取り戻すことはできません。
それゆえに私たちは、自分と戦って
勝利しなければなりません。
☆
このように考えると、戦いの対象とは
回りの環境や他人ではなく、
正に自分であるということができます。
そして、本心(良心)に順従すれば、
愛の実体となり、
本心に逆らって生きれば、怨讐となるのです。
私たちの肉身は、「眠りたい、遊びたい、
自分勝手にやりたい」と思うのです。
しかし、秩序を守ってこそ
自由が得られるのです。
秩序を守らなければ、私たちは
不自由に苦しむようになるのです。
そればかりではありません。
秩序を守らなければ、私たちは、
拘束されるようになるのです。
秩序を守らない人は、一生、
福とは縁がなくなるのです。
☆
父親よりも優れた子供になるには、
父親の姿を見て子供が感動し、
子供の姿を見て父親が感動するように
ならなければなりません。
父親の社会的身分が低いといって、
後ろ指を指すことは、子たる者のすることでしょうか。
「私がお父さんのような歳になった時には、
お父さんのような貧しい生活はしたくない」
と思うとしましょう。
しかし、その父親は貧しい人生が
好きでそのようにしているのでしょうか。
父親が世の中の環境にぶつかってみると
そのようになったのに、
それを子供が讒訴すれば、
父親にとってそれは刃物で胸を突くことよりも
ひどいことになるのです。
父親の胸から血の流れる音がするようになるのです。
子供が父母に対して、どうして
後ろ指を指すことなどできるでしょうか。
☆
今日の世の中のことは、すべて霊界が引っ張っていくために、
悪なるものはすべて断ち切られ、
より善主権を中心として動くようになっています。
歴史を振り返ってみると、
神様の一貫した摂理歴史であることが分かります。
歴史の背後に、神様がおられる
ということを否定することはできません。
トインビーは、人類歴史を顧みながら、
神様がこの世の歴史を導いてこられたことを知りました。
歴史学者たちは、歴史を研究しながら、
人類の背後には、
神様の働きがあることを知ったというのです。
私たちは、秩序の中で
主従関係をよく守らなければなりません。
そして、自分に勝って、
神様の前に褒められる
信仰者にならなければなりません。
(『統一世界』一九九〇年六月号より翻訳転載)
19.自分に勝とう
「戦いの対象は自分」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
19.自分に勝とう
「戦いの対象は自分」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
「天宙主管の前に自己主管」
私自身を正しく主管(自制、コントロール)することが
私の内的な成長につながります。
しかもこれが世界の平和のため
天の「摂理」に貢献することにもなる。。。
このことは何よりも、
真のお父様、お母様が
成してこられた歩みに表れています。
いつも私とともにおられる
神様の声を聴く、つまり私たち一人ひとりの
良心に、神は働きかけてこられるので
良心に基づいた歩みを心掛けつつ
取り組んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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