家庭連合では、文鮮明先生夫妻のことを、
親のように慕い、
人類の「真の父母」ということで、
「真のお父様」「真のお母様」と
お呼びしています。
しかし、教会の草創期(初期の頃)には、
真のお父様を、「大先生」と
呼んでいた頃があったといいます。
そして、真のお父様、真のお母様、
そう呼び始めた頃──
12双のお姉さんの貴重な証しを
紹介します。
(今から10数年前に語られたものです。)
☆
私は教会に来て、もう50年になります。
1963年に修練会に出て、
み言を聞いて復活(≒感動、復興)して、
すぐに献身の道を行きました。
それから、様々な責任分担を与えられましたが、
真の父母様ご一行の食当をする
責任を担当したことがありました。
お父様が日本を巡回する約2ヶ月間です。
私はお父様のことを再臨主・メシヤとして信じてきましたが、
どうしても真の父母、私の親である
そのような感覚を持つことは出来ませんでした。
どうしても「大、大、大先生」
という意識になるのです。
食当をしながら、お父様に侍ると、
台所を通る真のお父様がいらっしゃいます。
その時も頭を下げている自分の姿があるのです。
☆
あるとき、食事を作りながら、
本部の集会でお父様が
こんなことを語られているのを聞きました。
「みんな、お父様、お父様って呼ぶけど、
お父様って言われて、先生気持ちが悪いや」
これは、私のことを言っている。。。
本当に申し訳ない思いになりました。
☆
そんなある日のこと。
その当時、まだ5歳だったか、
孝進様が部屋におられるお父様を見て、
飛び込んで抱きつく姿を見ました。
また、誉進様がお父様のおひざに乗られ、
またお母様のおひざに乗られ、
本当に喜んでおられるのを見ました。
「真の子女様は違うな、
私はこのように出来ないな」と思いました。
また、ある同胞(在日韓国・朝鮮人)の姉妹が祝福を受け、
お父様の元に行くことになったとき、
彼女は、本当に嬉しそうに、
お父様に感謝の手紙を書いていました。
私は思いました。
「この人は、韓国の血統を持っている。
だからお父様にすぐに情が行くんだ。
私は日本人だから駄目なんだ」
そんなことを思っていると、
集会でお父様がこんなことを語られたのです。
☆
「日本の情は忠孝の源」なんだ。
主君に忠誠を誓う姿が本当に素晴らしい。
主人を愛する姿が日本人のいいところだ。
武士が生命をかけて主君を守っていく。
日本人は桜が好きだろう。
ぱっと咲いて、ぱっと散る、
これは日本の精神なんだよ。
また、昔の日本の女たちは、
お嫁になって結婚するとき、
みんな白無垢の衣装を着て、嫁いでいく。
白い着物であるというのは、
「私は夫の色に染まります」
そういうことを表しているんだよ。
主に侍り、従っていく姿。
日本人はそういうところが素晴らしい。
☆
お父様は、日本人でもないのに、
日本人以上に日本のことをわかっていらっしゃる。
本当に日本人の私を
こんなにも愛してくださっているんだ。。。
そう思ったとき、本当に泣きました。
泣いて、感謝して祈ったとき、
突然、霊的に引き上げられた感じがしました。
そして、お写真のお父様ではなく、
生身のお父様を感じました。
また、いつもどんな時にも24時間、
お父様を感じるようになりました。
それで、私にとって「大先生」から、
「私のお父様」という風に変わることができたのです。
(文責 ten1ko2)
*この証しにあるご父母一行のご来日は
1967年6月から8月のことだと思われます。
翌年、3月14日、韓国で
久保木会長が、上に掲載した
「日本乃情忠孝乃源」の揮毫を頂いたといいます。
*この証しにあるご父母一行のご来日は
1967年6月から8月のことだと思われます。
翌年、3月14日、韓国で
久保木会長が、上に掲載した
「日本乃情忠孝乃源」の揮毫を頂いたといいます。
☆
10数年前、証しをされながら、
涙が止まらなかったお姉さんの姿を、
今でも印象的に覚えています。
日本人である私たち以上に、
日本のことを良く知っておられるお父様。
日本を愛しておられるからなのではないでしょうか。
日本を、そして日本人である私たちを
心から愛してくださる真のお父様。
それはお姉さんや当時の先輩方に対してだけではく、
今の私たちにも同じ思いを持ってくださっていることでしょう。
今は、真のお父様も聖和されましたが、
変わらず霊界から
私たちを見つめてくださっているでしょうし、
真のお母様が、そのようなお父様の遺志を
受け継いで、この地上で必ず果たそうと
尽くしておられます。
私たちの、お父様、お母様
心から感謝申し上げます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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