「ゆるします!」言葉一つですべて越えてしまうことがある
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」より
みんながよく眠くなるという
4本線のお話の続きです。
☆
(人間は堕落によって4本線の下に落ちたので)
ここ(原理圏外)なんだから、
ここからこっち(原理圏内)に行きたいんでしょ。
我々が、原理軌道に乗るためにはどうしたらいいでしょうか。
それは、私たちが復帰の道を行くようになると
いろんな体験があるのです。
この道にきても、蕩減復帰のための体験をします。
ですから、み言を聞いてからの体験が、
ものすごく大事です。
皆さんが(生まれ変わりはありませんが、)
たとえば何回も生まれ変わってようやく蕩減できることを、
一代で蕩減できるぐらいの体験が、
実はいっぱいあるのです。
お父様が草創期に、一番前に座っていた教会員に向かって、
お前足を怪我したどうしたんだと言ったら
「ちょっとぶつけてあざをつくりました」
「あんた教会に来てよかったね。
もしあなたが伝道されてなければ、両足がないよ」
と言われました。
それが、青あざで済んでるわけですよ。
だからこの道に来て感じることというのは、
例えば100万円の借金が、
1万で終わるぐらいのものです。
右足を骨折したら、多分両足なかったという事です。
☆
それでも感謝できなかったらどうしますか。
実はほんとのこというと、
何が起こっても全部感謝なのです。
でも、私たちの試練は自分の罪じゃないようなことを、
自分の罪のように言われるときとか、
相手が100%悪そうなのに自分の責任として
降りかかってくるような時が、
もう耐えられないのではないでしょうか。
ところが皆さん見てください。
私の責任として成長するのを、
失敗した人類始祖ですよ。
だから、自分の責任じゃないようなことも、
自分の責任として捉える時に復帰が起こるわけです。
というのは、逆の経路をたどらないといけないから。
ですから、起こってくることが
偶然ではないのです。
☆
だから「摂理で一生懸命頑張ったけど、
事故した」といって、文句言う人がいるのですが、
それはもしも、摂理をやってなかったら
多分死んでるよってことです。
ものすごい「減償法」(ほんの少しの償いで、
とても大きな罪を赦されること)ですから、
何があっても全部感謝ですよ。
蕩減復帰を完了した御父母様を慕って、
その傘下に入る時には、蕩減は
ものすごい減償法が働きます。
だから皆さん私たち食口はすべてのことを
感謝したら、ほぼ100点です。
ほんと、そうです。
そして、我々は何を蕩減するのか
わかりません。
だから「思い」で体験するようになっているのです。
☆
最初からずっと同じことを、
繰り返し言っているのですが、
なぜかというとわからなくなるからです。
『なんで謝るんだったっけ?』となるんですよ。
私はいつも自分のビデオを何回も何回も見ます。
そうやって、やっていくと忘れません。
しかし、そのままだと、だいたい忘れるんです。
「なんで感謝しないといけないの」って、
「なんだ謝るのって。私悪くないよね」
と、また話しているんですね。
だから、この復帰原理観が分からないから、
忘れていしまうということでしょう。
どのぐらいの確率で忘れると思いますか、みなさん?
そう、100%なんです。
99%ではなく、絶対100%忘れるのです。
なぜそれを言うかというと、忘れてもいいよ、
ということです。
思い出してくださいということなんですよ。
忘れたらまた落ち込む人がいる、
「私何回聞いても忘れるの、
年だから」とかって言うんですね。
いや忘れていたということが分かったということは、
覚えてたということですから、
おめでとうございます、ということなんですよね。
たびたび思い出したらいいんです。
皆さんの記憶力の範疇で、頑張ったらいいわけですね。
☆
ですから、【体験するすべての問題】これを、
【私の責任としていく】というのが、
これが、必要な原理観です。
原理って、諸刃の剣です。
自分に適用したら完成する。
人に適用したら、自分が悪霊化していくのです。
(それをまず聞いて知ることは必要ですから、
こういう教会とか教育の場はしかたがありませんが、)
私たちの私生活でこれをやると、
それはみ言を武器にして、
もっと悪霊化してしまいます。
【人類始祖は堕落後も責任転嫁をし、
蕩減復帰を困難に】してきました。
だから【私たちが体験する全ての事は
「私の責任」として受け止めるのが、復帰原理】です。
☆
これでわかったという人は「私の責任」
という言葉でいいと思いますが、
この「私の責任」という言葉がね、
日本語的にはちょっと重たいかもしれません。
「いやそれはわかるんですけど、
この『私の責任』というのが、人間的にどうしても
頭ではわかるんですが、心がついていかない」
っていう人もいるかもしれません。
その場合もいいんです。
その場合も、言葉でさっきの例だったら
「赦してください」と、
言葉でも言えばいいのです。
言わないよりかは、はるかにいいです。
それを繰り返していくと言えるようになってきます。
そして言葉一つで越えてしまうものもあるのです。
もう一回言います、実体が一切なくても、
言葉一つで越えられるような軽いやつもあります。
☆
で、内容によっては、
言葉だけで実体蕩減がなされるものもあるんです。
例えばですね、自分の子供を、中東で
テロにあって殺されて、
その犯人を許しますと言った
クリスチャンの夫婦がいます。
イエス様も人類を許したんだから、
自分の息子を殺した犯人も許しますって、
記者会見した父母がいました。
すごい基準でしょう。
それは(これ以上)実体基台が必要でしょうか?
犯人を一生恨んでもいいような父母の立場で、
でもそれを、神の御前に
私は犯人を許しますと。
もう実体なんですよ。
「許します」恨んでもいい人が、
「許します」って言った、
これは、実体でしょう。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
クリスチャンのご夫婦の証し、
素晴らしいですね。。。
許す、という基準は、
イエス様の基準であることを思うと、
イエス様の人を愛し、許す、という基準は、
本当に高いものである、と改めて思います。
すべてが感謝である、ということも
言われてみれば、そうだな、と思いますが、
痛みとか苦しみを味わったときに、
その瞬間に感謝する、という心がけが必要だと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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