2023年01月14日

統一教会に来なければ、両足がなかったかもしれない?! 《蝶野部長*精誠篇2》D

「ゆるします!」言葉一つですべて越えてしまうことがある




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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」より

みんながよく眠くなるという
4本線のお話の続きです。


(人間は堕落によって4本線の下に落ちたので)
ここ(原理圏外)なんだから、
ここからこっち(原理圏内)に行きたいんでしょ。

我々が、原理軌道に乗るためにはどうしたらいいでしょうか。
それは、私たちが復帰の道を行くようになると
いろんな体験があるのです。

この道にきても、蕩減復帰のための体験をします。
ですから、み言を聞いてからの体験が、
ものすごく大事です。

皆さんが(生まれ変わりはありませんが、)
たとえば何回も生まれ変わってようやく蕩減できることを、
一代で蕩減できるぐらいの体験が、
実はいっぱいあるのです。

お父様が草創期に、一番前に座っていた教会員に向かって、
お前足を怪我したどうしたんだと言ったら
「ちょっとぶつけてあざをつくりました」
「あんた教会に来てよかったね。
もしあなたが伝道されてなければ、両足がないよ」
と言われました。
それが、青あざで済んでるわけですよ。

だからこの道に来て感じることというのは、
例えば100万円の借金が、
1万で終わるぐらいのものです。

右足を骨折したら、多分両足なかったという事です。


それでも感謝できなかったらどうしますか。
実はほんとのこというと、
何が起こっても全部感謝なのです。

でも、私たちの試練は自分の罪じゃないようなことを、
自分の罪のように言われるときとか、
相手が100%悪そうなのに自分の責任として
降りかかってくるような時が、
もう耐えられないのではないでしょうか。

ところが皆さん見てください。
私の責任として成長するのを、
失敗した人類始祖ですよ。

だから、自分の責任じゃないようなことも、
自分の責任として捉える時に復帰が起こるわけです。
というのは、逆の経路をたどらないといけないから。

ですから、起こってくることが
偶然ではないのです。


だから「摂理で一生懸命頑張ったけど、
事故した」といって、文句言う人がいるのですが、
それはもしも、摂理をやってなかったら
多分死んでるよってことです。

ものすごい「減償法」(ほんの少しの償いで、
とても大きな罪を赦されること)ですから、
何があっても全部感謝ですよ。

蕩減復帰を完了した御父母様を慕って、
その傘下に入る時には、蕩減は
ものすごい減償法が働きます。

だから皆さん私たち食口はすべてのことを
感謝したら、ほぼ100点です。
ほんと、そうです。

そして、我々は何を蕩減するのか
わかりません。
だから「思い」で体験するようになっているのです。


最初からずっと同じことを、
繰り返し言っているのですが、
なぜかというとわからなくなるからです。

『なんで謝るんだったっけ?』となるんですよ。

私はいつも自分のビデオを何回も何回も見ます。
そうやって、やっていくと忘れません。

しかし、そのままだと、だいたい忘れるんです。
「なんで感謝しないといけないの」って、
「なんだ謝るのって。私悪くないよね」
と、また話しているんですね。

だから、この復帰原理観が分からないから、
忘れていしまうということでしょう。

どのぐらいの確率で忘れると思いますか、みなさん?
そう、100%なんです。
99%ではなく、絶対100%忘れるのです。

なぜそれを言うかというと、忘れてもいいよ、
ということです。
思い出してくださいということなんですよ。

忘れたらまた落ち込む人がいる、
「私何回聞いても忘れるの、
年だから」とかって言うんですね。

いや忘れていたということが分かったということは、
覚えてたということですから、
おめでとうございます、ということなんですよね。

たびたび思い出したらいいんです。
皆さんの記憶力の範疇で、頑張ったらいいわけですね。


ですから、【体験するすべての問題】これを、
私の責任としていく】というのが、
これが、必要な原理観です。

原理って、諸刃の剣です。
自分に適用したら完成する。
人に適用したら、自分が悪霊化していくのです。

(それをまず聞いて知ることは必要ですから、
こういう教会とか教育の場はしかたがありませんが、)
私たちの私生活でこれをやると、
それはみ言を武器にして、
もっと悪霊化してしまいます。

人類始祖は堕落後も責任転嫁をし、
蕩減復帰を困難に
】してきました。

だから【私たちが体験する全ての事は
「私の責任」として受け止めるのが、復帰原理
】です。


これでわかったという人は「私の責任」
という言葉でいいと思いますが、
この「私の責任」という言葉がね、
日本語的にはちょっと重たいかもしれません。

「いやそれはわかるんですけど、
この『私の責任』というのが、人間的にどうしても
頭ではわかるんですが、心がついていかない」
っていう人もいるかもしれません。

その場合もいいんです。
その場合も、言葉でさっきの例だったら
「赦してください」と、
言葉でも言えばいいのです。

言わないよりかは、はるかにいいです。
それを繰り返していくと言えるようになってきます。

そして言葉一つで越えてしまうものもあるのです。
もう一回言います、実体が一切なくても、
言葉一つで越えられるような軽いやつもあります。


で、内容によっては、
言葉だけで実体蕩減がなされるものもあるんです。

例えばですね、自分の子供を、中東で
テロにあって殺されて、
その犯人を許しますと言った
クリスチャンの夫婦がいます。

イエス様も人類を許したんだから、
自分の息子を殺した犯人も許しますって、
記者会見した父母がいました。

すごい基準でしょう。
それは(これ以上)実体基台が必要でしょうか?

犯人を一生恨んでもいいような父母の立場で、
でもそれを、神の御前に
私は犯人を許しますと。

もう実体なんですよ。
「許します」恨んでもいい人が、
「許します」って言った、
これは、実体でしょう。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


クリスチャンのご夫婦の証し、
素晴らしいですね。。。

許す、という基準は、
イエス様の基準であることを思うと、
イエス様の人を愛し、許す、という基準は、
本当に高いものである、と改めて思います。

すべてが感謝である、ということも
言われてみれば、そうだな、と思いますが、
痛みとか苦しみを味わったときに、
その瞬間に感謝する、という心がけが必要だと思います。





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posted by ten1ko2 at 11:20 | Comment(2) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする