今日は、blessed lifeの新企画、
統一原理について語られた
お父様(文鮮明 ムン・ソンミョン先生)のみ言を
まとめた書籍の紹介です。
☆
文鮮明先生の『み言に学ぶ統一原理【前編】』
本書は文鮮明(ムン・ソンミョン)先生が統一原理について
語られた内容を『原理講論』と同じ章構成でまとめたみ言集です。
※本文中、各文章の末尾にある( )内の数字は、
原典『文鮮明先生み言選集』の巻数とそのページ、
またはみ言を語られた日付を示しています。(光言社blessed lifeより)
☆
序にかえて−「原理講義」について
『原理講論』に対する姿勢@
『原理講論』に対する姿勢@
今までは、講義をしながら、自分勝手にやってきました。
それではいけません。
原理のみ言(ことば)をすべて、
本を読みながら講義するのです。
『原理講論』は、劉孝元(ユ・ヒョウォン)協会長が
書いたのではありません。
1ページ、1ページ、すべて鑑定を受けたのです。
私が許諾しなければ、それに手を出すことはできません。
本以上の先生はいません。
本を無視してしまって、
宝の持ち腐れにしてはいけないのです。
本で原理講義をやりなさい。
その教えは、お父様のオリジナルの教えです。
お父様の真(まこと)の道です。
勝利の覇権が原理のみ言に記録されているのです。
(266−268、1995.1.1)
劉協会長は先生よりも6歳年上でした。
洗礼ヨハネはイエス様よりも6カ月年上でした。
ですから、劉協会長は洗礼ヨハネの立場にいました。
彼は洗礼ヨハネの立場で原理を解説しなければなりませんでした。
劉協会長が書いた本は、劉協会長の本ではありません。
劉協会長がその本を書く時、先生は、彼に
「このように、またあのように書きなさい」
と指示しました。
今後、皆さんは、その本を詳細に
勉強しなければなりません。
(52−156、1971.12.27)
原理の本は恐ろしい本です。
原理の本を劉協会長が書いたといって
軽視する人がたくさんいます。
もし、この本を私が書いたとしたらどうなりますか。
みな引っ掛かります。
言うまでもなく一遍に引っ掛かってしまうのです。
霊界に行ってみなさい。
もし間違って書かれていたとしても、
軽視すれば引っ掛かります。
何のためにそのように書いたのかを
知らなければなりません。
経典は絶対視しなければならないのです。
「確かに間違っているようだが、
なぜそのように書いたのか」と言う人がいます。
それは全体を通して見るとき、
そのように書くようになっているためです。
そのように書くべきほかの事情があり、
飛躍せざるを得ない内容があったことを
知らなければなりません。
そのように考えなければならないのです。
それを理解できずに、自分が分からないことは
間違っていると考えています。
しかし、原理は千年たっても変わりません。
(266−268、1995.1.1)
皆さんは、原理のみ言を読んだとき、
夜眠れずに涙を流してみたことがありますか。
劉協会長の素晴らしいところは、
原理をすべてノートしながら、
1ページごとに数百回も涙を流したということです。
自分は知識人として、大学に通った頭の良い人間として、
真理を探究して疲れ果てていたのに、
どうしてかこんなにも深い世界を知るようになったので、
涙を1滴2滴ではなく滝のように流したのです。
それに接するとき、その真理の前に恍惚(こうこつ)を感じ、
涙なしに記録できなかったというのです。
1ページを記録するのに一週間かかった
ということを、私は聞きました。
ですから涙をどれほど流したか分かりません。
本然の心情と通じることができる真理のみ言は、
愛を爆発させても再爆発させる力をもち、
その作用は歴史を通して成就されたのです。
(141−70、1986.2.16)
ユダヤ教の『旧約聖書』とキリスト教の『新約聖書』をもって、
統一教会の『原理講論』に勝ることはできないのです。
統一教会は何時代だというのですか。
成約時代です。
成約時代というのは完成時代であり、
蘇生(そせい)時代の旧約時代、
長成時代の新約時代に未完成の内容を含めて、
すべてのことを完成させる時代なのです。
ユダヤ教の若者たちが、彼らのシナゴーグ(ユダヤ教の教会)の
門をぱっと開けて、原理講義を一週間だけ聞けば、
彼らは完全に溶けて180度ひっくり返るのです。
このような現象は、キリスト教の若い青年たちにも
同じように現れます。
また、他の宗教でも同じです。
それでは、問題は何ですか。
問題は原理講義を聞かない人たちにあるのです。
全世界の人たちが原理講義を一度だけ聞けば、
彼らの思想は崩れてしまいます。
それほど強力な力を『原理講論』はもっているのです。
(1998.9.21)
光言社・文鮮明先生の『み言に学ぶ統一原理【前編】』より
(blessed life)
(blessed life)
☆
今、「原点回帰」ということが願われています。
そのうちの一つが「み言に帰る」ということです。
昨年末も40日の原理講義を
各教会の牧会者がされました。
私たち一人一人が原理に立ち返っていく、
もう一度、み言から出発していく、
そのような時を迎えています。
何よりもこのみ言を解かれたお父様が
どれほどの地と汗と涙を流されたでしょうか。
さらには、劉孝元先生が
原理を語られるために
どれほどの精誠を捧げられたでしょうか。
原理の貴さを再確認して、
再出発していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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