2023年01月27日

献金して、それを惜しめば神が嘆く 摂理はお金ではなく、愛(内面)が問題 《蝶野部長*精誠篇2》F

み旨を頑張った人は、神と世界を愛した条件が立つ




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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)

家庭連合の信仰を熱心にしている信徒あるいは
活動に関わっている方たち向けの
信仰的なガイダンスです。

※教理(統一原理)を学んだ基礎がないと
理解しにくい表現となっています。


(先回紹介したテロで息子を亡くして、
犯人を許すと言った
クリスチャンのご両親の場合のように)
内的蕩減と実体蕩減が、同時に
なるようなものもあるんですよ。

まずは内的蕩減が大切なんですが。

【神の御心を知り、環境に対して
責任を持とうとするのが中心人物。
神様は中心人物に信仰基台において
外的に命令された時も、実際の摂理の目的は、
その人間の内面にあった!】



(アベルに)「羊を供えよ」というのは、神様は
羊の肉が食べたいわけじゃないんです。
私を愛してるのか、どうなのかという
内面を見るためです。

だったら神様が(アベルに)聞いたら
いいじゃないか、と思うかもしれませんね。

でも、そうしたらアベルは、
「愛してます、愛してます、愛してますから
羊は供えなくていいでしょう、
愛してますから」と、こうなるでしょう。


皆さんが、神様と世界を愛してるのか
というのは、皆さんが摂理で頑張って
こられたのを見て、この人間は家庭よりも
世界を愛してるという条件が立っているのです。

でもその本人は、いや摂理、世界というよりは、
実は自分の孫の受験を変えるために
献金したんだという動機だとしても、
神様はそういうふうに取らないのです。

だって教会に献金してるじゃないかと、
これは神を愛したということなんだと、
神様がサタンの讒訴圏を、
パッと切ることができるんですよ。

ですから、信仰基台というのは
内面を表現するものなんです、実は。

だから、すべての食口たちは
私を、家庭を、犠牲にして、
神様を愛してきたという、喜びを
もってほしいんです。

頑張ったら頑張ったぶんだけ
もちろん万物は、手元から減っていくとしても
神様がどれほど感動するか。

でも、「ああ、あれがあったら助かるのに」
とか、ぶつぶつ言ってると、神様は耳を塞いで、
「ああ、ああ、聞かない、聞かない」と
言うというのです。


母の日のプレゼントをもらったのですが、
『うわぁ、うちの息子からもらった、
今日はこの息子が好きな美味しいとんかつ作ろう』
とね、苦労して、もう一生懸命料理をしてたと。

そしたら隣の部屋から、息子の舌打ちが聞こえると。
チッチってね。

「もうオカンの母の日のアレで
もう小遣い減ったー」と、文句を言っているのが
聞こえたといいます。

これは、実話です。
料理してたら息子が、弟と話している。

お母さんとしたら、自分を愛してくれてるから
プレゼントくれたんだと、喜んで
ロースカツでも一番いいのを買ってきて
料理作っているのに、こうやって(耳を塞いで)、
『もう、聞きたくない』と、こうなるじゃないですか。

神様を愛するため、御父母様を愛するために
(献金)したのに、あれがあったら助かるのにと言ってる、
神様は「ああ聞かない、この者は
私を愛するためにやったんだ」と、
こういうふうに(耳を塞ぐ)。

これは親の心なので、わかるでしょう、皆さん。


愛したというとき、これが信仰基台ですよ。

そして、その愛と一つとなった立場から
カインを見た時に、神様の心が分かって、
出てきて愛するっていうのが、実は実体基台です。

この信仰基台、アブラハムのイサク献祭で、
(息子のイサクを)「殺せ」と言ったのは神様ですよね。
でも、最後「殺すな」と止めたのも神様です。
神様どっちなの?ってことなんですよ。

殺せというのが、信仰基台の命令です。
今の時代には、ありえないけどですね。

殺せと言いながら、最後「殺すな」ということは
つまり、「殺せ」という外的命令は、
目的ではなかった、ということです。

内面が見れたので、もういいってことでしょう。
信仰基台は、内面を見させるために、
外的命令するのです。

だから、親子が一体化して、
完全に神様の命令の前に、
親の情、子供の情を越えた、
それが見れたので、「もういい」と言ったのです。


ノアの箱舟もそうです。

動物をいっぱい入れて、村の人をいっぱい入れるために
大きくしただけではないんですね。
まぁ実際、(村の人々は)入りませんでしたが。

それは、ノアがどれぐらい神を愛しているのかを、
神様が見るために、船を大きく作らせたという、
お父様のみ言があります。
1960年代のみ言です。

ちっちゃい船だったら、惰性で作れるんですね。
あんなにデカいのを、ほぼ一人で作った。
最初は子供が手伝ってたけど、途中から
手伝わなくなったという話もありますけど。

(これも)どれだけ神様を愛してるのか、
というのを見るためだった、というのです。


ですから、信仰基台を、本当に理想的にやったら、
実体基台というのは実は自動的なんです。
自動的と言ったら、ちょっと語弊がありますが、
ほぼ導かれるんですよ。

ところが、なぜ実体基台を失敗してきたか。
信仰基台が、外的なものだと
勘違いしてきたからなんです。

自分をつくることができなかった、ということですよ。

実体基台って、自分がいるでしょう。
人を愛しに行く話ですよ。
自分をつくってないから、
「愛せません!」ってなるのです。

信仰基台は、本当は、自分をつくることです。


だからよく考えると、信仰基台というのは、
成長期間の蕩減復帰なんですね。

そこに成長する要素がないと、
本当は信仰基台ではないのです。

創造原理においては、これは普通の成長期間です。
復帰原理においては、
成長期間を果たせなかったので、
信仰基台があるんですね。

成長期間は、外的蕩減条件ではない、
内的蕩減条件です。
だから信仰基台は、外的献祭で、内的蕩減条件なんです。
実体基台は反対です。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


信仰基台の根本は、神様を愛する、ということです。
神様のために、万物を捧げていく時に
神様はどれほど喜んでおられるでしょうか。

その動機と心情は貴いものです。
その聖なる思いを持続させていくことは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう。

外的環境が変わったとしても、
変わらない内的な心情、
心の姿勢が重要であると思います。




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posted by ten1ko2 at 09:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする