み旨を頑張った人は、神と世界を愛した条件が立つ
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長
「精誠篇(せいせいへん)」
家庭連合の信仰を熱心にしている信徒あるいは
活動に関わっている方たち向けの
信仰的なガイダンスです。
※教理(統一原理)を学んだ基礎がないと
理解しにくい表現となっています。
☆
(先回紹介したテロで息子を亡くして、
犯人を許すと言った
クリスチャンのご両親の場合のように)
内的蕩減と実体蕩減が、同時に
なるようなものもあるんですよ。
まずは内的蕩減が大切なんですが。
【神の御心を知り、環境に対して
責任を持とうとするのが中心人物。
神様は中心人物に信仰基台において
外的に命令された時も、実際の摂理の目的は、
その人間の内面にあった!】
☆
(アベルに)「羊を供えよ」というのは、神様は
羊の肉が食べたいわけじゃないんです。
私を愛してるのか、どうなのかという
内面を見るためです。
だったら神様が(アベルに)聞いたら
いいじゃないか、と思うかもしれませんね。
でも、そうしたらアベルは、
「愛してます、愛してます、愛してますから
羊は供えなくていいでしょう、
愛してますから」と、こうなるでしょう。
☆
皆さんが、神様と世界を愛してるのか
というのは、皆さんが摂理で頑張って
こられたのを見て、この人間は家庭よりも
世界を愛してるという条件が立っているのです。
でもその本人は、いや摂理、世界というよりは、
実は自分の孫の受験を変えるために
献金したんだという動機だとしても、
神様はそういうふうに取らないのです。
だって教会に献金してるじゃないかと、
これは神を愛したということなんだと、
神様がサタンの讒訴圏を、
パッと切ることができるんですよ。
ですから、信仰基台というのは
内面を表現するものなんです、実は。
だから、すべての食口たちは
私を、家庭を、犠牲にして、
神様を愛してきたという、喜びを
もってほしいんです。
頑張ったら頑張ったぶんだけ
もちろん万物は、手元から減っていくとしても
神様がどれほど感動するか。
でも、「ああ、あれがあったら助かるのに」
とか、ぶつぶつ言ってると、神様は耳を塞いで、
「ああ、ああ、聞かない、聞かない」と
言うというのです。
☆
母の日のプレゼントをもらったのですが、
『うわぁ、うちの息子からもらった、
今日はこの息子が好きな美味しいとんかつ作ろう』
とね、苦労して、もう一生懸命料理をしてたと。
そしたら隣の部屋から、息子の舌打ちが聞こえると。
チッチってね。
「もうオカンの母の日のアレで
もう小遣い減ったー」と、文句を言っているのが
聞こえたといいます。
これは、実話です。
料理してたら息子が、弟と話している。
お母さんとしたら、自分を愛してくれてるから
プレゼントくれたんだと、喜んで
ロースカツでも一番いいのを買ってきて
料理作っているのに、こうやって(耳を塞いで)、
『もう、聞きたくない』と、こうなるじゃないですか。
神様を愛するため、御父母様を愛するために
(献金)したのに、あれがあったら助かるのにと言ってる、
神様は「ああ聞かない、この者は
私を愛するためにやったんだ」と、
こういうふうに(耳を塞ぐ)。
これは親の心なので、わかるでしょう、皆さん。
☆
愛したというとき、これが信仰基台ですよ。
そして、その愛と一つとなった立場から
カインを見た時に、神様の心が分かって、
出てきて愛するっていうのが、実は実体基台です。
この信仰基台、アブラハムのイサク献祭で、
(息子のイサクを)「殺せ」と言ったのは神様ですよね。
でも、最後「殺すな」と止めたのも神様です。
神様どっちなの?ってことなんですよ。
殺せというのが、信仰基台の命令です。
今の時代には、ありえないけどですね。
殺せと言いながら、最後「殺すな」ということは
つまり、「殺せ」という外的命令は、
目的ではなかった、ということです。
内面が見れたので、もういいってことでしょう。
信仰基台は、内面を見させるために、
外的命令するのです。
だから、親子が一体化して、
完全に神様の命令の前に、
親の情、子供の情を越えた、
それが見れたので、「もういい」と言ったのです。
☆
ノアの箱舟もそうです。
動物をいっぱい入れて、村の人をいっぱい入れるために
大きくしただけではないんですね。
まぁ実際、(村の人々は)入りませんでしたが。
それは、ノアがどれぐらい神を愛しているのかを、
神様が見るために、船を大きく作らせたという、
お父様のみ言があります。
1960年代のみ言です。
ちっちゃい船だったら、惰性で作れるんですね。
あんなにデカいのを、ほぼ一人で作った。
最初は子供が手伝ってたけど、途中から
手伝わなくなったという話もありますけど。
(これも)どれだけ神様を愛してるのか、
というのを見るためだった、というのです。
☆
ですから、信仰基台を、本当に理想的にやったら、
実体基台というのは実は自動的なんです。
自動的と言ったら、ちょっと語弊がありますが、
ほぼ導かれるんですよ。
ところが、なぜ実体基台を失敗してきたか。
信仰基台が、外的なものだと
勘違いしてきたからなんです。
自分をつくることができなかった、ということですよ。
実体基台って、自分がいるでしょう。
人を愛しに行く話ですよ。
自分をつくってないから、
「愛せません!」ってなるのです。
信仰基台は、本当は、自分をつくることです。
☆
だからよく考えると、信仰基台というのは、
成長期間の蕩減復帰なんですね。
そこに成長する要素がないと、
本当は信仰基台ではないのです。
創造原理においては、これは普通の成長期間です。
復帰原理においては、
成長期間を果たせなかったので、
信仰基台があるんですね。
成長期間は、外的蕩減条件ではない、
内的蕩減条件です。
だから信仰基台は、外的献祭で、内的蕩減条件なんです。
実体基台は反対です。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
信仰基台の根本は、神様を愛する、ということです。
神様のために、万物を捧げていく時に
神様はどれほど喜んでおられるでしょうか。
その動機と心情は貴いものです。
その聖なる思いを持続させていくことは、
口で言うほど簡単なことではないでしょう。
外的環境が変わったとしても、
変わらない内的な心情、
心の姿勢が重要であると思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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