2023年01月29日

痛い時は、もっと痛く、嬉しい時は、最高に嬉しい メシヤの感覚は、天宙的 《金元弼先生》




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メシヤを少し喜ばせたら、
それは天宙的な喜びを
与えたことになるのです



金元弼(ウォンピル)先生のみ言、続編です。

メシヤに侍るということ

避難の路程の時には、先生と距離をおいた心は全然なくなりました。
先生と一緒にいるような生活に変わったからです。
朝起きる時から、何事も一緒にするようになったのでした。

私は一緒に歩きながら、自分の信仰を次のように打ち明けたことがあります。

「もし、2000年前に生まれたならば、
私はイエス様を飢え死にさせたでしょう」と。
メシヤは、食べなくてもひもじさが分からないお方である、
と信じていたからです。

私のような者ばかりがいて、食べる物も飲む物も
何も差し上げないならば、どうなりますか。

先生も私たちと同じく、ひもじい時にはひもじさを感じ、
暑い時には暑さを、寒い時には寒さを感じるお方であるとはっきり分かったのです。
私は先生を通じて、2000年前のイエス様の事情、心情を理解できました。

同時に、私たちがもう一つ分からなければいけないことは、
メシヤの立場から見ると私たちよりもっともっと敏感だということです。
私たちより、何倍もひもじさを感じる方だということです。

なぜでしょうか。


それはちょうど親と子のことを考えてみれば、もっとはっきりします。
母と子が二人で住んでいたとしましょう。
とても貧しい家庭です。

子供は幼いので、母親が稼いで子供に食べさせなければいけません。
何とかしてやっと稼いで、牛乳を買いました。
ひもじいからといって、親が先に飲むことはできません。
まず子供に飲ませます。
残した物があれば、その次に母親が飲みます。

子供がひもじいと言うのと、親がひもじいと言うのとは、
同じ言葉ですが、内容は違うのです。

子供は自分のひもじさばかり考えて、ひもじいと言います。
しかし母親は、子供に食べ物があって、
自分にない時は、ひもじいとは言わないのです。
母親がひもじいという時は、子供のひもじさと
自分のひもじさが合わさって含まれているということを忘れてはいけません。


このことを通じて、はっきりしておきたいことは、
子供がひもじい、親がひもじい、その次に国を治める人がひもじい、
世界を治める人がひもじいという時、ひもじいという言葉は同じですが、
ひもじさを感じる度合いは、次元が全然違うということです。

個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙
というふうにレベルが変わってくると、
喜びも個人的喜び、家庭的、民族的、世界的、天宙的喜び
というふうに違ってくるということです。

ですから、国を心配する人を悩ませたならば、
それは国家を悩ませたことになります。


死にかかっている人を救ってあげたというのと、
国を治める責任をもっている人が死にかかっているところを助けたのとは、
同じように一人の人間ですけれども、その内容は違うのです。

一人の人を救ってあげますと、その家では、
「自分の子を救ってくれた」と言って、いろいろなご褒美を与えるでしょう。

ところが、ある人を救ってみたら、それが王子様だった場合、
王様は「私の子を助けた者は誰だろう」と探し回って、
その人を見付けたら、どういうご褒美を与えるでしょうか。
「お前は私の宮殿で一緒に暮らそう」ということになるのです。

反対に、王子様を殺したら、その人はどういう罰を受けるでしょうか。
個人を殺した場合は、個人の罰を受けるでしょう。
しかし、王子様を殺してしまったならば、国家的な罰を受けるのです。
王子様が死んだ時、王様はどれくらいの痛みを受けるかといえば、
国家的な寂しさを感じるのです。


メシヤはどういうお方ですか。

メシヤを少し喜ばせたら、それは天宙的な喜びを与えたことになるのです。
もし反対のことが起こったらどうでしょうか。
イスラエル民族は、たった一人のイエス様を殺害したのですけれども、
その罰がどんなに大きかったか考えてみてください。

ですから、メシヤに侍るということは、
どれほど注意深くしなければいけないかが理解できます。

ところが、神は愛なるがゆえに、罰は二、三代で終わるようにし、
いいことは何千代にも及ぶようになさいます。


リーダーとメンバーのことを考えてみてください。
私自身がほかのメンバーに心配かけたとしましょう。
またリーダーである皆様を悩ませたとしましょう。
心配をかけたのは同じですが、内容が違います。

十名のメンバーを担当した皆様は、十の悩みを担っています。
私がリーダー一人を心配させたことは、十の悩みを与えたのと同じです。
100名のリーダーならば、100名分の悩みを与えたことになるのです。

ですから、自分のアベルに当たるポジションの人に対しては、
訴えるな、批判するなと教えたのです。
それはたくさんのメンバーの悩みを抱えている人であるからです。
十人のリーダーであるならば、十人の悩みに責任をもっている人なのです。

全人類の悩みを率いているメシヤの心を少し痛めたら、大変なことになります。
その代わり、少しの慰めを与えるならば、
大変な喜びをもって私たちを迎えるでしょう。


ですから、メシヤは私たちの感情よりも、
はるかに敏感であるということを分かってほしいのです。

たまたまメンバーが少し良いことをしたら、
先生は大げさに話してあげることがあります。
褒められた人は、「私はそんなによくできなかったのに、
先生はとてもよく見てくださいますね」と感ずるのです。

一人でいる時には大きな悩みであっても、先生のところに行くと、
小さく見えるのはなぜでしょうか。
それは、私にはとても大きく見えることも、
先生があまりにも大きいがゆえに、小さく見えてしまうと考えるのです。

皆様にもそういう経験がありますか。
とても心配して、リーダーに何か聞こうとしたら、
小さく感じて聞く必要がなかったことが。
皆様がどんどん成長していくと、メンバーが皆様に対してそう感じるのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「メシヤに侍るということ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題



本当に元弼先生のおっしゃる通り、
人を喜ばせる、ということは貴いことですけれど、
真の父母様に喜んでいただく、ということは、
どれほどの価値のあることか知れません。

真の父母様は、私たちが幸せにならない限り、
ご自身も喜び、幸せを感じることができないお方である、
そのことを改めて感じました。

孝情の心情を持って、
神様・父母様に喜んでいただく歩みをすること、
今がその最頂点にいることを思いつつ、
さらに精誠を捧げていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 08:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする