2023年03月31日

秘書官が見た、「平和の母」の素顔 ──他者に尽くした人生 《鄭元周秘書室長》



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韓鶴子(ハン・ハㇰチャ)総裁(真のお母様)の
最も側におられる鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長が
20年前に書かれた証しを紹介します。


 真のお父様と最終一体をなし、天宙の母として立たれた真のお母様とはいかなるおかたであるのか。真のお父様が霊界から「あなたは神様が摂理のために私に下さった最愛の妻であったばかりでなく、最も誠実で身近な弟子だった」と語られた、そんなお母様のお姿の一端に触れることのできる証しです。
 この証しは2003年、真のお母様の還暦を祝って韓国で刊行された「韓鶴子(ハン・ハㇰチャ)総裁還暦記念文集」の第2巻に掲載されたものを翻訳し、整理したものです。(編集部)

真のお母様の人生 1
「お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生」


「愛は一人では成されないのです。
 愛はどこから出てくるのですか。 
『私』から出てくるのではなく対象から来るのです。
 対象から出てくるので、
『私』が頭を低くして
 対象のために尽くさなければならないのです。
『為に生きる』という天理が、
ここから生まれるのです。

 ……愛の根拠地は『私』にあるのではなく、
 相対にあるので、
 その愛を『私』が見つけるためには、
 その愛の前で犠牲にならなければなりません」

『祝福家庭と理想天国(T)』「祝福と理想家庭」から


ある朝の訓読会の時間、真の父母様の前で
このみ言を訓読した私は、
心の深淵(しんえん)から湧き上がる感動を覚えました。

ある意味ではあまりにも平凡なこの内容が、
その日、私の心を揺さぶったのです。

その理由は、生涯を「対象」のために生きてこられた
父母様の生きざまが、正にこのみ言そのものだったからです。


厳しい天のみ言に従い、
歴史的な蕩減(とうげん)復帰の路程を勝利的に完結しようと、
犠牲的な真の愛の道を自ら歩まれた真のお父様。

そのようなお父様の傍らで、
夫と子女と統一家の食口(シック)のために、
利他的で犠牲的な人生を生きてこられた真のお母様。

み言を語られ、それで終わるのではなく、
そのみ言の実体となって生きてこられたお父様、
お母様であられることを、
私はあえて証しの冒頭で強調したいのです。

お父様の海のような広く深い愛の前で
犠牲的に生きながら、お父様と一心一体を成された
お母様の還暦を迎えた今(2003年当時)、
21年間、お母様に侍(はべ)ってきた一食口の立場で、
その所懐を時間の流れに沿って記してみようと思います。

【イーストガーデン】
「不足な私を明るいほほえみで迎えてくださる」

1978年10月に約婚を受けた私は、
アメリカ・カリフォルニアの
CARP(大学原理研究会)で3年間活動しました。

そして1982年7月、アメリカ人の
マイケル・マクデービッドさんと2075双の祝福を受け、
同年10月、イーストガーデン(ニューヨーク)に
呼ばれることとなりました。

夫のマイケルは1973年からイーストガーデンの警護に
責任を持ち、現在に至るまで
変わらない信仰で最善を尽くしています。


夢にまで見たイーストガーデンに到着し、
いざキッチンに入ろうとした瞬間、
スタッフにさまざまな指示を与えながら
お母様が出てこられました。

私は非常に戸惑い、思わず床に
そのままひれ伏して敬拝をささげたのです。

「来たのね。これから一緒に働きましょう」
と言いながら笑顔で迎えてくださる
お母様の美しく慈愛に満ちたお声に、
私は涙を片手でぬぐいながらうなずきました。

明るいほほえみで、不足なことこの上ない私を
喜んで迎えてくださるお母様を拝見した瞬間、
「韓国の娘として私の体と心を全てささげて、
変わらない心情で父母様に侍ろう」
と固く決意しました。

その時から今に至るまで、もう21年の
歳月が流れましたが、その間の父母様、
特にお母様のご苦労の路程を
ここでどのように表現することができるか、
不安が先立ちます。

「韓鶴子総裁還暦記念文集」
第2巻に掲載(2003年刊)

(『TODAY'S WORLD JAPAN』2013年12月号
「証し お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生」より)

Blessed Life
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=18966
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


真の父母様の前に、
もっとも近くで侍ってこられた、
鄭元周秘書室長です。

今も、毎日、毎朝、
お母様の前で訓読をされながら、
侍っておられるのだと思います。

こういう方のお陰で、
真の父母様がご健康に
歩んでおられることを思うと、
本当に貴い方であると思います。

今後の証しが楽しみです。




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posted by ten1ko2 at 07:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月30日

「弱み」のメリットを考える 誰もがNo.1になれる世界のために 《阿部先生》



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阿部先生の「家族の絆づくり」より、
今回は、『「弱さ」というメリット』です。

「強さ」「弱さ」の両方に価値がある!

多くの人は強い人になりたいと願います。
「世界最強のアスリート」
「史上最強の頭脳」などのように、
華々しく注目されるのは「強さ」です。

しかしもっと強い人が出てきたら、
たちまち「弱い存在」になってしまいます。

強さとは絶対的なものではなく
「相対的概念」だからです。

そして比較対照して
能力や価値を評価することを続けていくなら、
常に「勝者と敗者」を生み出すことになります。

それよりも、誰もがナンバーワンという
「勝者」になれる世の中であれば、
みんなが幸せになることができることでしょう。


そこで、注目したいのは「弱さ」です。

強さと弱さというと、「善悪」や「優劣」で
捉える傾向がありますがそうではありません。

これは光と影のように「陽陰」の関係です。
光が善で、影が悪ではないでしょう。

光は「明るさ」や「温かさ」があるので
多くの人から好まれます。
反対に、影は「暗さ」や「冷たさ」があるので
多くの人から嫌われる傾向があります。

しかし環境が変わり真夏になったら影が好まれ、
光は避けられる存在になります。
ですから、強さと弱さは両方に価値があるということです。

弱みを受け入れ克服した有名人

本来、「強さと弱さは補完し合う関係」です。

強くなりたいのであれば、
強さについて考えるのと同じくらい
弱さについて考えることが大切です。

弱さを認識すれば、
自然と強さが浮かび上がってくるからです。

 
「バスケットボールの神様」といわれた
マイケル・ジョーダンというスーパースターがいます。

彼は4歳まで言葉が話せず、
7歳まで文字が読めないという発達障害がありました。

そのような自分の弱さを受け入れて、
弱さを克服するために「心の耳で音を聴く」
努力をし、真の強さを手に入れました。


このように、「弱さをばねに強さを手に入れる」
という人が他にも多くいます。

「目が見えない」という弱さを、
鋭敏な耳の感性を高める努力をすることによって、
健常者以上に社会で活躍する人がいます。

「人付き合いができない」という弱さがある人は、
人間関係の難しさを人一倍悩み、考えることでしょう。

しかし人間関係に悩んだという経験を通して、
人の悩みを理解することができる
「優秀なカウンセラー」になれるかもしれません。


金銭的な不安、病気や事故への不安、
将来への不安など、「不安を感じやすい」
という弱みはない方が良いと考えられがちです。

しかしその不安を強く感じる人ほど、
それを克服する方法を考え、行動することでしょう。

そのようにして、社会の便利さ、
安心・安全を高める発明や発見がなされてきました。


ですから、「弱み」を否定的に捉えたり、
なくそうとしたりするよりも、
その「メリット」を考えることが大事です。

「弱み」はやがて「強み」に変わる可能性があるのです。

家族の絆づくり 261
「弱さ」というメリット
ナビゲーター:阿部 美樹
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


マイケルジョーダンが幼少のころ、
言葉が話せず、文字も読めなかったなんて
初めて知りました。

彼は、もともと身体能力が高いのでしょうが、
やはり、弱さを克服したからこそ、
天才的な、神と言われるプレイヤーになったのだと思います。

私も本当に弱い人間だ、と思うことがよくあります。
こんなブログを書いていても、
何もわかっていないのに、
なんでも知っているように見せかける
弱さを隠す、自分自身がいます。

偽善者であってはいけないでしょう。
「正直の頭(こうべ)に神宿る」
ということわざがあるように、
自分に正直にありたい。。。

弱点があるからこそ、勉強をするし、
謙虚なることができます。
そうやって、神様の働く者、神様の愛に
満たされる者となりたいと思うのです。





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2023年03月29日

小さな子供に「神様っているの?」と聞かれたら、「いるよ!」と答えたい



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世界家庭 編集部員のブログから、人気の記事の一つ
「『神様っているの?』と聞かれて」を紹介します。
 

今から10年以上前の、独身時代の話です。

二世の友達が知人を招いてホームパーティーをするというので、
私は子守役として参加し、4歳から10歳くらいの
子供たち8人と風船やしゃぼん玉で遊んでいました。

やがて探検ごっこをすることになり、
子供たちは家の中をあちこち見て回って、
最後に2階の祈祷室にたどり着きました。

すると、中に入るやいなや、友達の子供(三世)たちが
真の父母様の真尊影を指さして、
「見て! 神様の写真だよ!」と、
他の子供たちに説明し始めたのです。

そして、「神様が僕たちをいつも見ているんだよ!」
と、喜々として語りだしました。

しかし、真の父母様を知らない子供たちは、
急な展開に戸惑い、困惑しているようでした。

そして、その中の一人の女の子が、
「神様っているの?」
と、真剣な顔で私に聞いてきたのです。

曇りなき目で見詰められ、
私は一瞬言葉に詰まってしまいました。

なぜなら、彼女の父親は妻子に手を上げる人で、
家庭に非常に難しい事情を抱えていたからです。

「神様がいるのなら、なんで私とママのことを
助けてくれないの?」と、言われたらどうしよう
と思ってしまいました。

かろうじて、「うん。神様はいるよ!」
と言った瞬間、

「みんな、ケーキを食べましょう!」
という声がキッチンから聞こえてきました。

わーっと子供たちが祈祷室を出ていき、
この話はおしまいになりました。

しかし、私は、彼女への返答に詰まった自分が悔しくて、
何と言えばよかったのかをずっと考えていました。

 
あれから時は流れ、現在、
2人の息子の子育てに奮闘中です。

先日、長男(5歳)に、
「(お父様は)天国にいるんだったら、
目には見えないの?」と聞かれました。

「そうだね。でも、
『会いたいです』ってお祈りしたら、
きっと夢で会えるし、
ずっと見守ってくれているよ」と言うと、
「じゃあ、いつも一緒にいるのと同じだね」
という言葉が返ってきました。

息子が純粋に、そう思ったことが伝わってきました。

きっと、あのときの女の子も、純粋に、
「神様はいるのか」について
知りたかっただけだったのでしょう。

なのに私は、彼女がどう思うかをかってに想像して、
伝えるのをちゅうちょしてしまったのです。

今考えると、私の中に、
神様のことを深く聞かれたらどうしよう
という戸惑いがあったのかもしれません。
思い込みが強すぎたと反省しています。


今、み言を伝えたい友人がいます。

あの女の子に神様のことを十分説明できなかった分、
その友人には、
怖がらずにまっすぐ伝えたいと思います。

「神様っているの?」と聞かれて
世界家庭 編集部員のブログ(光言社)
わかりやすく読んでいただくため、
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文責:ten1ko2


子供は本当に純粋で素直です。

うちの子供たちも
小学生になる時まで、
サンタクロースを信じていました。

いつの間にか、友達からの
「サンタなんていないんだ」
という言葉に影響を受け、
信じないようになりましたが。。

神様に対しても、親から
神様の存在を教えられ、信じていても、
教育の問題、ネットの影響などで、
いつの間にか、教会を否定し、
神様を否定する場合もあるでしょう。

それでも、幼い頃に信じた思いは残っているので、
実感はないからわからないけれど
いるのだろうと思っているようです。

子供の前には、私自身が正直で、
素直な思いで接しなければ、と思うのです。





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