2023年03月25日

山に登りながら築いた心の絆、一人ひとりの問題が解かれたワケ 《金元弼先生》



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金元弼先生のお話。
「何よりも神のものを愛す」より
『勝利基盤の上で語られるみ言』の2回目です。


(文鮮明先生は)説教では、
「神の心情とはいかなるものか」とか
「イエス様はみ言を伝えようとこの世に来たが、
人々が信じてくれない時のイエス様の心情は、
どんなにつらかったことだろうか」
ということをよく教えてくださいました。

ところがその受け入れ方は、
個人個人によって違うわけです。

その時に起こりうる問題を
どのように処理するかは、先生が平常、
一緒に生活しながら、個人的にふさわしい
牧会をしてくださいました。


私たちは先生のお陰で、
たくさんの有名な山に登ることができました。

そのころはお若かったので、誰も
先生より先に登ることができませんでした。

そして、山に登っては、
いろいろなお話をしてくださいました。
そういう中で、兄弟が抱えている問題が
一つ一つ解かれていったのです。


先生はまず、食口たちの証を聞いたり、
どんどん歌わせました。
それで全員に歌わせました。

人の前で歌ったことのない兄弟たちが、
たくさんの人の前で歌う訓練ができました。
好きな歌がありますと、
先生がそれを歌ってくださいました。

ところが、指名されて兄弟が歌う時には、
毎日同じ歌を歌うわけにもいかないので、
何を歌おうかと迷っていると、先生が
「この歌を歌いなさい」と言ってくださいました。

先生は私が歌う歌をよく覚えていてくださり、
私以上にその歌を好んで、御自身で歌われました。

そういうことによって、メンバーはどう考えるかというと、
「ああ、私の愛する歌を好んでくださっている、
私よりも好んでくださっている」と考えるのです。

そして、「先生は私をこのように覚え、
好んでくださっているんだ」と感じるのです。

歌一つで、先生に対する信頼感をもつようになるのです。

 
皆さんもそうではないですか。

愛する夫婦の間で、相手にとても好きなものがあれば、
自分は本当に好きではなくとも、
相手を愛するがゆえに、相手が好きなものを
自分も好きになろうとする世界があるでしょう。

自分の尊敬する人が左手で字を書くとすれば、
私も左利きで書きたいという心がないですか。

自分の尊敬する人が赤いネクタイをよくすると、
私も赤いネクタイをしたくなります。

愛する人、尊敬する人を見れば、
自分もそうなりたいという心がわくのは、
元々人間が神に習うように造られているからです。

神に近いお方がいれば、その人のようになろうとするのは、
神に近寄ろう、習いたいという心があるからなのです。

それと同じく、私が好きな歌を先生が
よく好んで歌ってくださるということは、
先生がその歌を好むごとく、
私を好み愛してくださっているということを意味するのです。

ですから、皆さんもメンバーが好きなことを
好んでやってあげるならば、
メンバーはリーダーに対して、
とても信頼感をもつようになるでしょう。

このように先生は、とても近くで
いろいろなことを教えてくださいました。

 
先生が歌を歌わせる時にも、
上手に歌う人の歌は聞きたいけれども、
上手でない人の歌は気分を騒がせます。
でも先生はそれをよく聞いてくださったのです。

そういう人は、歌が上手でなくても、
心はとても上気分になって歌うのです。
また歌の内容をとても大切にして歌う人がいます。

先生はその人の心を大切にしてくださるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「勝利基盤の上で語られるみ言」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
構成を一部入れ替えました。
わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2


自分自身が愛されている、ということは、
具体的に私が愛するものを
その人も愛してくれているということです。

真の父母様は、目の前にはおられませんが、
私が愛するものを愛してくださっているのだ、
そんな思いを持ちたいと思います。

また、私が愛している人を愛する、ということは、
その人が好きなものを愛する、ということです。

学生部にいたころ、ともに過ごした兄弟が、
お父様のサインをそっくり真似て
書いていたことがありました。
それも一つの愛の表現の一つかもしれません。

真の父母様がお好きな歌を歌う、
好きな料理を食べる。。。

いずれにしても、
心情を相続するための
近道なのだな、そんなことを思いました。

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2023年03月24日

「感謝」以上のものはない 人生はバラ色、蕩減が嬉しい 《蝶野部長*精誠篇2》H



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の 
「精誠篇(せいせいへん)」です。



感謝です。
お父様は、感謝の生活しておられますね。

【感謝で自分の思いを否定し
自分の内面を蕩減してゆく】精算していく。

我々は、これをやらずに動いてしまいやすいのです。

今まで通り、あるいはもっと
活動するべきかもしれませんけども、
我々が活動します。

その時、内面が不満なまま動く、
感謝できないまま動くのです。

感謝できなくてもいいんだけども、
内面を蕩減する条件も立てずに動いてしまいます。

信仰基台を、「羊を供えればいいんでしょ」
「実体基台できないじゃないですか」
ってこういうふうに不満があった。

そうではないのです。
私の内面をも立てて、それを持って、
実体基台に行くんですね。

だから、今まで原理でも、霊的堕落と肉的堕落
というように勉強してきましたけど、
本当は霊的堕落と霊肉の堕落なのです。

アダムとエバも二人とも霊肉両方あるから、
アダムとエバの堕落も、霊肉ですよ。

だから信仰基台と実体基台も、心を立てて
動くんじゃないんですね。
心を立てて、信仰基台も体動かすんじゃないんです。

信仰基台で心をつくって、その心で動くんですね。
簡単に言えば、信仰基台は、心であってますが、
実体基台は心と体なんです。

心を立てて、後動くだけよっていうのは、
これは、肉が動いてるだけです。
(しかばね)が動いてるというわけですね。
単なる動くタンパク質になってしまうんですね。

心を持った人が動くというのが実体基台。
なんでかというと、実体を問われているのが、
実体基台ですから。


【信仰生活の本質は何でしょうか。
 神様に感謝する心です。
 そのような心があるとき、それが、
 堕落の因縁を超えて神様と私が
 一つの因縁で結ばれる基になるのです。】
1970.3.14


皆さん、今日はこの2行だけでも
十分かもしれません。

これは皆さんが知ってるみ言だと思うんですが、
この2行に、とんでもないことを書いているでしょう。

神様に感謝する心、そのような心があるとき、
それがこれ、「堕落の因縁を超える」っていうんですよ。

先祖の因縁とまったく関係のない立場で、
神様と私が一つの因縁で結ばれる出発、
(もとい)、基点になるという事ですよ。

だから、瞬間、瞬間、神様に感謝して
生活しているということは、
堕落の因縁を超えるだけではなくて、
先祖がずーっと超えられなかった
不満とか悲しみを蕩減していっているんです。

先祖解怨とかまた別にやらないといけないですが。
肉体をもってそれを成長した人が
家系の中にいるんです、皆さん。


【偶然起こったように見えることでも、
 何かの因縁のゆえに起こったのだと考えるようにすれば、
 自己を向上させることができる。】

【(略)何かの不運や事故にあった時も、
 愚痴ばかり言っているのでなく、
 何かの因縁のせいであろうと考えれば
 それを通して向上する道が開けて来るかも知れない。
 このように(考えて)見る時、
 自己の身に何が起ころうとも不平を言う必要はない。】

人生は蕩減の路程である。
1990.11.4ベルベディア

昔はね、これ聞いたときにすごい重たくなりましたねー。
『やっぱりそうかぁ』とね。

ところが今聞くとですね、すごい軽いんですよ、これ。
意味が分かると、桜の花が散るぐらい軽く見えます。
ピンク色に見えるんです私。
それぐらい完全自己否定と蕩減の道が
ものすごく嬉しくできる時代になりましたよ。

蕩減に嬉しいものなんて絶対ないんです、皆さん。
ないんですが、方向的にはそうできるようになってきた。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


感謝する心を持つ。。。

私が思うに、感謝することができないような
そんな境遇に遭った時こそ、
感謝の思いを持てるようになれば、
何かの蕩減が立つのだ、ということです。

今与えられた境遇、環境は、
人間的に決められたことなのかもしれません。
しかし、それをどのように受け止めるかによって、
神様は摂理されるのだ、と思うのです。

「人生は蕩減の路程である」
蝶野部長は「ピンク色に見え」
「ものすごく嬉しくできる」と言われます。

「振り返れば、すべて愛だった」
こんな、実感のみ言があるように、
蕩減の渦中にいると
なかなかそのように思えないこともありますが、
精誠を尽くしつつ、そのような時代にあることを
感謝していきたいと思うのです。




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2023年03月23日

子がない人の悩み よその家の幸福を、青空のような澄んだ心で祝福したいのに 《自己牧会プログラム*グッド・アンサー》



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自己牧会プログラム。
今回は、「お便り&コメント」シリーズとして、
『子女に恵まれず寂しいです』
を紹介します。


 真の父母様が、「第二の神様」であると言われた“良心”。自分の心の中にいる神様―良心―と対話(瞑想、祈り)することによって、本然の自分を取り戻していくことができます。
 今回は、「自己牧会プログラム」事務局に寄せられたお便りと、それに対する同事務局からのコメントをご紹介しましょう!



 3万双のマッチング家庭です。
 私たち夫婦は子女に恵まれませんでした。

 同年代の祝福家庭たちは、孫を持つ年代です。
 最近、特に親しくしている姉妹に
 初孫が生まれると聞きました。

 口では「おめでとう」と言いながら、
 心には耐え難い寂しさがあります。

 どうして心から喜んであげられないのか、
 自分の心の狭さに嫌気が差してしまいます。
 
 どうしたら、青空のように澄んだ心で、
 喜んであげることができるでしょうか。
(女性 50代)


あなたには間違いなく、
「他の祝福家庭に孫が生まれてくることを、
青空のように澄んだ心で喜んであげられる」
本性があります。

ただ、今、それを感じられなくなっているだけです。

では、このような本性を取り戻すためには、
どうしたらいいでしょうか。

あなたは、子供ができなかった自分を
責めていませんか?
もしそうであれば、まずそのことに気付き、
その囚(とら)われを下ろす*ことから始めてみましょう。

確かに、み言を知った私たちには、
「子供ができなければ、孫ができなければ、
三代圏ができなければ、理想家庭とは
言えないのではないか」という思考が巡ります。

理想はそうだとしても、そのようにできない家庭も
実際にはあるのです。
だから終わりかというと、そうではありません。

夫婦愛を豊かに育み、兄弟姉妹の子供たち、
孫たちをわが子、孫のようにして愛することによって、
また伝道して信仰の子女を育むことを通して、
父母の心情を復帰していく道があります。

同様の葛藤を抱えたご夫婦はたくさんいらっしゃいます。
そういうかたがたと交流を深め、
心の世界を共有するとよいと思います。

子供がいないということ以外にも、
祝福を受けたいと思っても生涯独身の場合もありますし、
相対者を早く亡くして
一人で生きていらっしゃるかたもいます。
子供はできたけれども障害があるという場合もあります。

生きている限り、私たちには心配が絶えません。
でも、そのことだけに囚われて生きていたら、
もったいないでしょう。

ないものを見て囚われるではなく、
今ここにあるもの、
与えられているものを数えてみてください。

そうすれば、神様の愛が至る所に
あふれていることに気付くはずです。

そのように生活していけば、いつか、
「比較しては寂しさを感じて喜べなかった」
ということが過去のことになります。

そして、人の喜びを「青空のように澄んだ心」で
喜べるようになると思います。

「神様に侍れば、全ての問題が解決する」
というのが真のお母様のみ言です。

神様の懐に帰るまで、私たちの人生には
「神様の愛」というレールが敷かれています。

全てが与えられているんだと信じて、
神様に侍り、励まし合いながら歩んでいきましょう。

私の心の中にいる神様 134
「お便り&コメント」シリーズ㉑
子女に恵まれず寂しいです
*囚われを下す:
 自分のもつ固定概念(例えば「私だけが正しい」
 という思い)に気づき、祈り(瞑想)によって
 自分自身を解放する自己牧会プログラムのワーク。
「○○でなくて大丈夫」
「思い通りでなくて大丈夫」と唱え、
 よい点を探し、感謝する。
 さらに、相手を祝福する思いで祈る。
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
()書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


私たちは、みな「こうありたい」という願いをもっています。
しかし、人を愛せない、同じように喜べない、
このような思いも、やはりあります。

いわゆる堕落性ですね。
そんな自分は嫌なのに、
よいことを思った次の瞬間に
別の思いが心をよぎります。

理想と現実、そのギャップを埋めるのは
簡単ではないですね。。。

マイナス的な現実に意識を奪われるのでなく、
また、周りと比較するのではなく、
心情を共有し、また、今の現実において、
最大限なせることを精一杯果たしていきたいです。

そのためには、「今のままで大丈夫」
「思い通りでなくて大丈夫」と、
凝り固まった自分の心を
ほぐすことも必要でしょう。

そうしたうえで、与えられているものを
感謝していく。。。

「神様に侍れば、全ての問題が解決する」
このみ言が希望です。





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