2023年03月22日

誰も気づかなかったイエスの悲しみ 石打から女性を救ったのは 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のみ言
「真理を求めよ」より
「イエス様の悲しみ」です。



またイスラエル民族が、罪を犯した一人の女性を
イエス様の前に連れてきて、
「モーセの掟に従って石で殺すのですが、
あなたが神様の息子なら、どういうふうに
判断しますか」とイエス様に聞いた時、
イエス様はあまりにも悲しくて、
あまりにも悔しくて、その質問に
顔を上げられなくて、頭を下げて、
手で地面に何か書きます。

そして、その姿勢のままでじっとしておられました。

イエス様はつらい心情を抑えるために黙っておられたのに、
今、イエス様の心情を知らずに聖書を読むと、
なぜその時イエス様は黙っておられたのかも
分からないのです。

そうしてイエス様は、神様の立場に立たれながら、
あまりにも悲しみに陥ったその瞬間をこらえて、
悲しい心情を抑えてこうお話しになったのです。

「罪なき者が、石をとって殺しなさい」。

この言葉がイエス様の口から出た時に、
それを聞いた者たちは、
どれほどびっくりしたことでしょうか。

イエス様をテストして、大勢の前で
イエス様に恥をかかせようとしてきた大衆の心は、
その一言でびっくりしてしまって、
それで恐ろしくなって石を捨てて帰ったのです。

 
聖書には書かれていませんが、
あんなにもイエス様を讒訴する心、
イエス様を無視する心で来た大衆の心を、
何の力があのように一遍に屈服させたのでしょうか。

悲しみに満ちたイエス様の、
それを抑えて話した力が、大衆の心を、
完全に恥ずかしい思いにさせて、
そこにいられなくさせたのです。

 
マタイ福音書の第二十三章の三十七節には、
イエス様の次のような言葉があります。

「ああ、エルサレム、エルサレム、
預言者たちを殺し、おまえにつかわされた
人たちを石で打ち殺す者よ。

ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを
集めるように、わたしはおまえの子らを
幾たび集めようとしたことであろう。

それだのに、おまえたちは
応じようとしなかった。
見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう」。

これはどれほどの悲しみをもって
話された言葉であろうかと、
その姿勢、その心情が、
予想できないほどの言葉です。

 
このようなことから、けさは、真というものが
どこで生まれるのか、それは、
悲しみが生まれたところに真の姿勢が
求められるのだという話をするつもりです。

悲しみと苦痛の同伴者になって、
真の姿勢が求められるのです。

そしてそれは、神様と真の御父母様と
共に求めていくのです。
悲しみを通じないと堕落性は清算できません。

先ほどお話しした、イエス様が
悲しみに満ちて語られた
「罪のない者は石で殺せ」という言葉。

イエス様がそう語られた時、イエス様を
試そうとした人々の心が一遍に清算されました。

そのように、自分たちが罪人だということを
悟ったのを見ると、
人々は、イエス様の悲しみの前で、
真なるものになったのです。

真に近い本性の影響で、
自分たちが罪人であると思い、
石を捨てて戻っていったのです。

24・真理を求めよ
「イエス様の悲しみ」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
()書きで注釈しています
文責:ten1ko2


「イエス様の悲しみの前で、
真なるものになった」
とても印象的な表現です。

すなわち堕落性を脱ぐ、ということは、
ただ課題を指摘していくのではなく、
真の愛を動機とした言葉に
本心が動いたのだと思います。

イエス様のようになることは
到底できませんが、
少しでも近づけるように、
心掛けていきたいと思うのです。



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2023年03月21日

地獄は神様が作ったのではない とめどない親の涙 《李相軒先生の霊界メッセージ》



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文興進様と榮進様


李相軒先生の「霊界の実相と地上生活」より
今回は、『地獄の人々と生』です。



神様は、人間を創造する時、地獄を創造して、
そこで常に苦しみながら生きていくように
なさったのではありません。

神様は常に、苦しんでいる子供たちのことを思い、
心を痛めていらっしゃいます。

ある日、神様は「相軒!」と私を呼びながら、
「お前の一番の願いは何か。
 お前はどんなとき最も幸福か。
 お前はどんなとき最も心が窮屈で痛いか」
と尋ねられました。

それで、私は神様に尋ねてみました。
「神様、おっしゃってください、神様!
あなたが言わんとされることを話してください!」と。

そして、「苦労している子供たちに
お会いになりたいのでしょう」と尋ねると、
神様は、「相軒よ、私の心を
お前は察してくれるのだなあ」とおっしゃいました。

ところが、真っ暗闇の中で、おぼろげに照らす
明かりの中を、とても細い一筋の光に沿って
銀色の鈴のような水滴が、
ぽろぽろとこぼれるように流れ落ちていました。

その瞬間私は、「これは何だろう」と思って
詳しく見てみると、それはほかでもない、
子供たちに会いたいという神様の心の涙でした。

私はその銀色の鈴のような涙を一粒抱いて、
地獄へ持っていきたいと思いました。

そして、地獄にいる人たちに、
「これは子供たちに会いたい神様の
心の涙が集まって、一粒の水滴になったものです」
と知らせてあげたかったのです。

そのような日々が数え切れないほど多くありましたが、
地獄はいまだに解放されていません。


ある日、興進(フンヂン)様は榮進(ヨンヂン)様を連れて、
悲惨な場を見せるために
苦労しながら地獄に向かわれました。

その時、後ろで興進様のお供をしていた
タイガー朴(パク)先生は、「まだ早いのでは
ないでしょうか」と引き止められました。

ところが、興進様と榮進様は声を合わせて、
「大丈夫ですよ」とおっしゃいました。

すると、突然私たちの前に、頭からつま先まで
全身が、腐った汚水のぬかるみに落ちて出てきたような
女性が現れ、「私を救ってください!」と言ったのです。

よく見るとその女性は、若くして自殺した人でした。
数多くの日々をここで送ってきたのですが、
救ってほしいと言うのです。

興進様と榮進様は、このような悲惨な姿を
御覧になり、どうすることもできないまま、
救ってあげたいという思いで辺りを注意深く見回すと、
このような姿で生きている人々があまりにも多くいました。

興進様と榮進様は、途方に暮れていらっしゃいました。
二人の兄弟は、互いの顔をじっと
見合わせながら、言葉を失い……。


地獄の現場はこれだけではありません。

淫乱で滅びた者は、身の毛もよだつような
蛇の穴の中を避けて通り、おびえる姿をしています。

人の財産や物を奪って地獄に来た者たちは、
口が裂け、胃が外に飛び出して流れた姿をしています。

うそで人をひどく非難した人々は、
目がひっくり返って飛び出し、
舌が外に飛び出した姿をしています。

そして、公金(横領)で滅びた者は、
大きなビルの下敷きになっています。
このような姿は、とても言葉では表現できません。


これらの生をいつ本来の位置に戻すべきか
という問題をめぐって、興進様は
神様から特命を受けられました。

それは「一日も早く、彼らをみな苦痛の中から
解放しなさい」という命令でした。

ところが、これらの群れがあまりにも多いため、
興進様は小さな蕩減(とうげん)条件を立てて
(罪の清算のために必要な努力をすることを通して)
救い出そうとされました。

そうして、そこで原理修練のためにグループ別に
集まりを持って、そこに必要な人材と物品を準備しながら、
様々な努力をしていらっしゃいます。

こちらの実情は、具体的にすべてを説明することは
できませんが、興進様は、このような地獄の姿だけは
真のお父様に見せてはならないという
強烈な執念を持っていらっしゃいます。

今後は、もうこれ以上、地上から
地獄に来る数字が増えないことを切に願うものです。
(2000年10月21日のメッセージより)

李相軒(1914〜1997)(光言社刊
『霊界の実相と地上生活』【霊界の様相編】より)
第一部 霊界の実相と地上生活
第三章 原理から見た霊界の暮らし

霊界の実相と地上生活(79)
地獄の人々と生
Blessed Lifeより

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
()書きで注釈しています
文責:ten1ko2


真の愛を持たれる神様が、
一番関心があるところがどこなのか、
それは、『苦労している子供たちに
お会いになりたい』ということです。

それが、真の親の姿ではないでしょうか。

霊界でその同じ心情を持たれているのが、
上のメッセージの当時は興進様であり、榮進様でした。
現在は、孝進様、そして何より
真のお父様であると思います。

地上において、その思いを持たれているのが、
真のお母様であります。

何よりも私自身が恥ずかしい歩みをすることなく、
天国人にふさわしい者にならなければ、と感じるのです。




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苦労する子供のために流す神の涙を、地獄に届けたい
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2023年03月20日

愛のマスターに 神様と共に人間が幸せになるため、目指すもの 《旧統一教会の教義のぞき見*入山副局長》



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入山副局長の
「幸福な人生には原則があった」
今回は、『人生の目的』です。


第2講座 創造原理と人生の目的
「人生の目的」


聖書には、神が最初の人間である
アダムとエバを創られた後に下さったみ言(ことば)が書かれています。

「神は彼らを祝福して言われた、
『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
……地に動くすべての生き物とを治めよ』」
(創世記1章28節)

生めよ、ふえよ、治めよという
三つの祝福を下さったので、
これを「神の三大祝福」といいます。

それは三つの理想、すなわち
人間の生きる目的を示しているのです。


第一祝福は、「生めよ」です。

英語の聖書で「Be Fruitful」と表現されているように、
一人の人間として成熟しなさいという意味です。

神を中心に心と体を一つにし、
神に似た個性を結実させることです。

心と体が一つになるとは、本心(良心)の思うとおりに
体が動くことであり、そうなってこそ
生まれもった個性が完成されるのです。

これを「個性完成」と言います。

  
人は充実した人生を送るために、
仕事やスポーツ、芸術など、
さまざまなものを習得しようとします。

本心で思い描くように体が動くようになるには、
反復と鍛錬が必要でしょう。
これが心と体が一つになるということです。

それが完成レベルでできる人を
その分野の「マスター」といいます。

人生の目的は、「愛のマスター」になることです。
思いどおりに人を愛せるようになる
愛の人格完成を成すことなのです。

人は神から与えられた個性の価値を知り、
それを発揮して、人を愛し、
愛の人格を完成していくのです。

 
第二祝福は、「ふえよ、地に満ちよ」、
すなわち「家庭完成」です。

神を中心に夫と妻が愛で一つになれば、
そこに子供が生まれます。

夫婦は父母となり、愛で子供を育んでいきます。
家庭で父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、
兄弟姉妹の愛を体験し学んでいくのです。

ですから、家庭は「愛の学校」なのです。

 
第三祝福は、「……治めよ」です。

それは、神を中心に人間と自然界が一つになり、
理想的な生活環境を創ることです。
これが「天国完成」です。

人間は誰もが良い家に住み、良いものを食べ、
良い服を着て生きたいと願いますが、
それもすべて神から与えられたものなのですから、
共に分かち合って生きていくことを学ばなければなりません。

このように、人生は愛の完成を目的として、
「個性完成」、「家庭完成」、「天国完成」
という三大祝福の実現という目標に向かって生きていくのです。

これが神と人が共に喜び、
幸福を感じることができる「創造理想」なのです。

入山 聖基・著
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)

幸福な人生には原則があった 4
第2講座 創造原理と人生の目的
「人生の目的」
(Blessed Lifeより)

わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2


人生の目的は、『三大祝福の実現』にあります。
入山副局長は、「愛のマスター」になる、と表現しています。

私たちは、いつも耳にしている内容ですが、
日々、本当に目指しているのかと自分を問うと、
まだまだ鍛練が必要である、と感じます。

三大祝福の実現は、永遠のテーマですね。
反省と改善をなしつつ、
「愛のマスター」を目指していきたいと思います。


先日、電車に乗っていた時のこと。
保育士のお姉さんが、3歳くらいの
子供たちを連れて乗り込んできました。

先生は、両手で子供と手をつなぎ、
また、その子供がほかの子と手をつないで、
4人の子供たちを引き連れていました。

電車に無事に乗り込むと、
みんな、先生めがけて抱きついていました。

たった一駅だったのですが、
無事に電車から降りると、
子供たちはホッとしたようで、
お互いはしゃぎあっていました。

何と愛らしい光景でしょう。。。
思わず微笑んでしまいました。

その姿を通して、
私たちはこの子供たちのように、
本当に幼い者たちです。

お母様にしがみついて、
一つになるしかないのだな、
一つになる、貴さを感じたのでした。



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posted by ten1ko2 at 07:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 統一原理・統一思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする