李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「心にろうそくをともそう」の後半、
「祈祷生活の重要性」です。
☆
心の願いどおりに生きるためには、
世間のことをたくさん知っていても得になりません。
多く知っていると、かえって
自分のことが分からなくなってしまいます。
知らないほうが、自分をよく知ることが
できる場合があるのです。
それは、自分の中に神秘的な自己があるからです。
神秘的な自己、すなわち霊人体を知ることが
本当の自分を正しく知ることなのです。
環境に支配される人は、自分が分からなくなります。
私たちは、自分の責任分担を果たすことを通して、
情が豊かになっていくのです。
神秘的な自分を正しく知るためには、
祈祷生活が必要です。
静かに座って、自分の心を聞くのです。
静寂の中で心と対話するために、黙祷するのです。
祈祷を通して、本心の声を聞くことがとても大切なのです。
☆
それでは、どのようにして
黙想にふけることができるのでしょうか。
読書しながら、「原理」を勉強しながら、
聖書を読みながらなど、時間の流れを忘れた時に、
黙想にふけることができます。
み言と自分が相対関係を結んでこそ、
本然の自分の位置を探していくことができるのです。
無我の境地で、霊人体が喜ぶ時間をもたなければなりません。
讃美歌を歌う時や、説教を聞く時の心を基準にして、
自分のなすことすべてに、全力を尽くしていくのです。
☆
祈祷の姿勢は、まず心にろうそくをともすことです。
心にろうそくをともして、観念的ではなく
自発的に自己の責任を果たすならば、
その人は発展するでしょう。
心にろうそくをともす人は、
能力のある人として成長していのです。
自分の責任分担が果たされなければ、
信仰者としての姿勢は変わりません。
教会に通っていながら、どうして心霊が復活しないのでしょうか。
それは縦的にみ言と相対関係を結んで
心にろうそくをともした時の心情を、
常に保つことができないからです。
原因は、正にここにあります。
☆
ろうそくの火が風に吹き消されることはありますが、
私たちはみ言によって感動を受けたのですから、
全力を尽くして真剣に生きていかなければならないのです。
人に付いていくのではなく、
常に心にろうそくをともして、
一生懸命に生きていかなければなりません。
☆
「ささいなことにも忠誠を尽くすように」
という言葉があります。
これは「心にろうそくをともして生きる」
と同じ内容の言葉です。
「心にろうそくをともしなさい」とは、
何かを行う時に時間の流れすらも忘れた、
そのような姿勢を自分の日常生活に適用していくことです。
そのために祈祷生活がとても大切なのです。
そして、これが自分の生活となっていかなければならないのです。
(月刊『ファミリー』一九九一年八月号掲載)
☆
真のお父様の祈祷文を拝読します。
「お父様! 行き、また行く道が
険しいと言えましょうか?
私たちの心は、お父様のその心情の切なさと
比べることができませんし、
私たちの悔しさは、幾重にも横たわった
サタン圏を歩まれたお父様のその足跡と
比べられないことが分かるように許諾してください。
険しい道を行きながらも、天のみ旨に
責任をもつための使命感が
私たちの心にわき上がるように許諾してくださり、
悲しみながらもお父様の悲しい歴史の友となって、
あなたの路程に同伴することのできる
息子、娘となるように許諾してくださり、
悔しい心情に同伴して友となることができ、
お父様の内的悲しみの友となると同時に、
外的悲しみの友となって、
永遠なるお父様の喜びの対象となることが
できるように許諾してください」
(文鮮明先生古稀紀念文集3
『文鮮明先生の祈祷』祈祷二四〇より)
『文鮮明先生の祈祷』祈祷二四〇より)
23・心にろうそくをともそう
「祈祷生活の重要性」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「祈祷生活の重要性」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
「祈祷の姿勢は、まず心にろうそくをともすこと」
何とも素敵なみ言ですね。
また、祈祷というのは、
祈ることを条件として祈る時間を持つより、
黙想にふける時間の方が貴いものだと感じました。
私がこのブログ記事を書いている時、
どんなみ言にするか、
み言を探し、文章にする時間も
黙想の時間とも言えると思います。
心にろうそくをともし、
その時間を一日の糧としながら、
歩んでいきたいと思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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