李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「真理を求めよ」より、「神様の悲しい心情」です。
☆
お父様(文鮮明先生)は最近、「真を求めよ」というみ言を
よく語られますが、私たちが真を求めにくい理由は、
私たちに堕落性がにじんでいるからです。
真という考え、願いは簡単にもつことができますが、
自分の堕落性を清算しながら、
どういうふうに真の心情を自分の本性に
芽生えさせるかということが、
私たちが生活の中で取り組んでいくべき問題です。
☆
まず、私たちは創造主を知らずにいました。
堕落という出来事を通じて、その時、
創造主の心情がどうであったかを考えてみます。
その時の神様の心情は、家庭の中で
悲しいことがあった場合に例えることができます。
家庭関係、夫婦関係、親子関係で悲しむ時とは
どういう時かというと、激しくお互いに逆らった時、
葛藤した時、あるいは自分勝手なことをした時です。
関係をもっているということは、自分を肯定することが
できない立場であるということです。
それなのに、自分勝手に振る舞った場合には、
悲しみを感じるのです。
☆
創世記の第三章九節に、神様が
アダムを訪ね回った話があります。
神様は、「アダムよ、どこにいるのか」
と、アダムを捜されたのです。
しかし、どこにいるか分からないから
捜したのではなく、勝手なことをして
隠れているアダムに向かって、
「どこにいるのか」と捜されたのです。
その言葉の背後には、
神様の説明できない悲しみがあります。
☆
私たちの家庭の中で勝手なことをした人に対して
話す時も、この悲しみと同じなのです。
だれがだれに許諾を受けた生活なのか
というのが問題なのです。
☆
「どこにいるのか」、
「だれがお前にそんなことをさせたのか」。
神様からこういうふうに聞かれた時に、
アダムは何とも答えられない恥ずかしい、
弁解することができない立場に立っていました。
アダムは、「自分がした」とは言わないで、
「エバがしたのだ」と言い、
エバは「天使長がした」と、
このように転嫁していったのです。
私たちは、そういう時にはよく、
アダムが神様の悲しみや悔しい心情を
知らなかったからだと言います。
「あなたはどこにいるのか」という神様の言葉の背後に、
聖書には表れていませんが、
神様の悔しい心情があるのです。
お父様が神様の立場、心情を話されるまでは、
私たちもそのような神様の心情を
知っているようで、実は知らずにいました。
☆
それから伝道の書第七章二十八節には、
「わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。
わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、
そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」
とあります。
聖書の聖句を一つ一つ、このような神様の心情を
分かって読んでいくと、
「わたしは千人のうちにひとりの男子を
得たけれども、そのすべてのうちに、
ひとりの女子をも得なかった。
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」
という言葉の背後にも、とても悔しい
神様の心情が含まれているということが分かります。
☆
聖書を再び読んでみると、神様が人間に対して
話される言葉はみな、恨をもった心情で
話されていることが分かります。
ノアに向かって話す時も、アブラハムに向かって話す時も、
みな悲しみに包まれて話されたのです。
アブラハムも、その言葉の背後に
神様の悔しい心情があるから、
何とも答えられなかったのです。
☆
アブラハムが、神様の命令にあれほど絶対服従したのは、
自分の信仰からという面もありましたが、
神様の言葉の背後に悔しい内容があることを
感じ取ったからではないでしょうか。
ですから、「アブラハムよ、そのカルデヤのウルから
出てきなさい。出発しなさい」という一言で、
びっくりして目的も知らずに出発したのです。
☆
お父さんがあまりにも悔しくて子供を呼んだ場合、
子供は勝手なことをして良心の呵責があって
恥ずかしくて隠れていたとはいっても、
「お前、出てきなさい」と言われた時には、
「なぜ出てこいと言うのですか」とは言えません。
「なぜ強制的に呼び出すのですか」
とは言えません。
それは、自分がお父さんを悲しませた理由を
知っているからです。
☆
それと同じく、アブラハムも神様に召命された時に
絶対服従したというのは、
神様の悲しみに圧倒されたからです。
神様の心情を知らなければ、
それは強制的な言葉に聞こえますが、
神様はアブラハムを呼び出した時、
本当に悲しい心情に包まれて、
命令せざるを得なかったのです。
24・真理を求めよ
「神様の悲しい心情」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「神様の悲しい心情」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
わかりやすく読んでいただくため、
行変え、段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
行変え、段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
言葉の背後には、心情があります。
聖書の神様のみ言にも、
神様の心情が込められています。
神様の心情の中心は愛ですが、
人類のゆえに、悔しく悲しい心情に
満たされているというのです。
その悲しみの神様を解放されるために、
生涯をかけて歩まれた、
真の父母様です。。。
そして、どのように天の父母である神様に
真を返していけるのか、
その方法がわからず親不孝を繰り返す
人類のために、そんな私たちを導くために
生涯をかけてくださっています。
天の父母様、真の父母様、
心から感謝します。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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