2023年03月15日

悔しくて・・・ 圧倒されるような悲しみに包まれた神様 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「真理を求めよ」より、「神様の悲しい心情」です。



お父様(文鮮明先生)は最近、「真を求めよ」というみ言を
よく語られますが、私たちが真を求めにくい理由は、
私たちに堕落性がにじんでいるからです。

真という考え、願いは簡単にもつことができますが、
自分の堕落性を清算しながら、
どういうふうに真の心情を自分の本性に
芽生えさせるかということが、
私たちが生活の中で取り組んでいくべき問題です。


まず、私たちは創造主を知らずにいました。
堕落という出来事を通じて、その時、
創造主の心情がどうであったかを考えてみます。

その時の神様の心情は、家庭の中で
悲しいことがあった場合に例えることができます。

家庭関係、夫婦関係、親子関係で悲しむ時とは
どういう時かというと、激しくお互いに逆らった時、
葛藤した時、あるいは自分勝手なことをした時です。

関係をもっているということは、自分を肯定することが
できない立場であるということです。
それなのに、自分勝手に振る舞った場合には、
悲しみを感じるのです。


創世記の第三章九節に、神様が
アダムを訪ね回った話があります。

神様は、「アダムよ、どこにいるのか」
と、アダムを捜されたのです。

しかし、どこにいるか分からないから
捜したのではなく、勝手なことをして
隠れているアダムに向かって、
「どこにいるのか」と捜されたのです。

その言葉の背後には、
神様の説明できない悲しみがあります。


私たちの家庭の中で勝手なことをした人に対して
話す時も、この悲しみと同じなのです。

だれがだれに許諾を受けた生活なのか
というのが問題なのです。


「どこにいるのか」、
「だれがお前にそんなことをさせたのか」。

神様からこういうふうに聞かれた時に、
アダムは何とも答えられない恥ずかしい、
弁解することができない立場に立っていました。

アダムは、「自分がした」とは言わないで、
「エバがしたのだ」と言い、
エバは「天使長がした」と、
このように転嫁していったのです。

私たちは、そういう時にはよく、
アダムが神様の悲しみや悔しい心情を
知らなかったからだと言います。

「あなたはどこにいるのか」という神様の言葉の背後に、
聖書には表れていませんが、
神様の悔しい心情があるのです。

お父様が神様の立場、心情を話されるまでは、
私たちもそのような神様の心情を
知っているようで、実は知らずにいました。


それから伝道の書第七章二十八節には、

「わたしはなおこれを求めたけれども、得なかった。
 わたしは千人のうちにひとりの男子を得たけれども、
 そのすべてのうちに、ひとりの女子をも得なかった。
 見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」


とあります。
聖書の聖句を一つ一つ、このような神様の心情を
分かって読んでいくと、

「わたしは千人のうちにひとりの男子を
得たけれども、そのすべてのうちに、
ひとりの女子をも得なかった。
見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである」

という言葉の背後にも、とても悔しい
神様の心情が含まれているということが分かります。


聖書を再び読んでみると、神様が人間に対して
話される言葉はみな、恨をもった心情で
話されていることが分かります。

ノアに向かって話す時も、アブラハムに向かって話す時も、
みな悲しみに包まれて話されたのです。

アブラハムも、その言葉の背後に
神様の悔しい心情があるから、
何とも答えられなかったのです。


アブラハムが、神様の命令にあれほど絶対服従したのは、
自分の信仰からという面もありましたが、
神様の言葉の背後に悔しい内容があることを
感じ取ったからではないでしょうか。

ですから、「アブラハムよ、そのカルデヤのウルから
出てきなさい。出発しなさい」という一言で、
びっくりして目的も知らずに出発したのです。


お父さんがあまりにも悔しくて子供を呼んだ場合、
子供は勝手なことをして良心の呵責があって
恥ずかしくて隠れていたとはいっても、
「お前、出てきなさい」と言われた時には、
「なぜ出てこいと言うのですか」とは言えません。

「なぜ強制的に呼び出すのですか」
とは言えません。
それは、自分がお父さんを悲しませた理由を
知っているからです。


それと同じく、アブラハムも神様に召命された時に
絶対服従したというのは、
神様の悲しみに圧倒されたからです。

神様の心情を知らなければ、
それは強制的な言葉に聞こえますが、
神様はアブラハムを呼び出した時、
本当に悲しい心情に包まれて、
命令せざるを得なかったのです。

24・真理を求めよ
「神様の悲しい心情」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
わかりやすく読んでいただくため、
行変え、段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2


言葉の背後には、心情があります。
聖書の神様のみ言にも、
神様の心情が込められています。

神様の心情の中心は愛ですが、
人類のゆえに、悔しく悲しい心情に
満たされているというのです。

その悲しみの神様を解放されるために、
生涯をかけて歩まれた、
真の父母様です。。。

そして、どのように天の父母である神様に
真を返していけるのか、
その方法がわからず親不孝を繰り返す
人類のために、そんな私たちを導くために
生涯をかけてくださっています。

天の父母様、真の父母様、
心から感謝します。



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posted by ten1ko2 at 10:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする