入山副局長の
「幸福な人生には原則があった」
今回は、『人生の目的』です。
☆
第2講座 創造原理と人生の目的
「人生の目的」
「人生の目的」
聖書には、神が最初の人間である
アダムとエバを創られた後に下さったみ言(ことば)が書かれています。
「神は彼らを祝福して言われた、
『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。
……地に動くすべての生き物とを治めよ』」(創世記1章28節)
生めよ、ふえよ、治めよという
三つの祝福を下さったので、
これを「神の三大祝福」といいます。
それは三つの理想、すなわち
人間の生きる目的を示しているのです。
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第一祝福は、「生めよ」です。
英語の聖書で「Be Fruitful」と表現されているように、
一人の人間として成熟しなさいという意味です。
神を中心に心と体を一つにし、
神に似た個性を結実させることです。
心と体が一つになるとは、本心(良心)の思うとおりに
体が動くことであり、そうなってこそ
生まれもった個性が完成されるのです。
これを「個性完成」と言います。
☆
人は充実した人生を送るために、
仕事やスポーツ、芸術など、
さまざまなものを習得しようとします。
本心で思い描くように体が動くようになるには、
反復と鍛錬が必要でしょう。
これが心と体が一つになるということです。
それが完成レベルでできる人を
その分野の「マスター」といいます。
人生の目的は、「愛のマスター」になることです。
思いどおりに人を愛せるようになる
愛の人格完成を成すことなのです。
人は神から与えられた個性の価値を知り、
それを発揮して、人を愛し、
愛の人格を完成していくのです。
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第二祝福は、「ふえよ、地に満ちよ」、
すなわち「家庭完成」です。
神を中心に夫と妻が愛で一つになれば、
そこに子供が生まれます。
夫婦は父母となり、愛で子供を育んでいきます。
家庭で父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、
兄弟姉妹の愛を体験し学んでいくのです。
ですから、家庭は「愛の学校」なのです。
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第三祝福は、「……治めよ」です。
それは、神を中心に人間と自然界が一つになり、
理想的な生活環境を創ることです。
これが「天国完成」です。
人間は誰もが良い家に住み、良いものを食べ、
良い服を着て生きたいと願いますが、
それもすべて神から与えられたものなのですから、
共に分かち合って生きていくことを学ばなければなりません。
このように、人生は愛の完成を目的として、
「個性完成」、「家庭完成」、「天国完成」
という三大祝福の実現という目標に向かって生きていくのです。
これが神と人が共に喜び、
幸福を感じることができる「創造理想」なのです。
入山 聖基・著
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第2講座 創造原理と人生の目的
「人生の目的」
(Blessed Lifeより)
(光言社・『幸福な人生には原則があった』より)
幸福な人生には原則があった 4
第2講座 創造原理と人生の目的
「人生の目的」
(Blessed Lifeより)
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わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
人生の目的は、『三大祝福の実現』にあります。
入山副局長は、「愛のマスター」になる、と表現しています。
私たちは、いつも耳にしている内容ですが、
日々、本当に目指しているのかと自分を問うと、
まだまだ鍛練が必要である、と感じます。
三大祝福の実現は、永遠のテーマですね。
反省と改善をなしつつ、
「愛のマスター」を目指していきたいと思います。
☆
先日、電車に乗っていた時のこと。
保育士のお姉さんが、3歳くらいの
子供たちを連れて乗り込んできました。
先生は、両手で子供と手をつなぎ、
また、その子供がほかの子と手をつないで、
4人の子供たちを引き連れていました。
電車に無事に乗り込むと、
みんな、先生めがけて抱きついていました。
たった一駅だったのですが、
無事に電車から降りると、
子供たちはホッとしたようで、
お互いはしゃぎあっていました。
何と愛らしい光景でしょう。。。
思わず微笑んでしまいました。
その姿を通して、
私たちはこの子供たちのように、
本当に幼い者たちです。
お母様にしがみついて、
一つになるしかないのだな、
一つになる、貴さを感じたのでした。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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