金元弼先生のお話。
「何よりも神のものを愛す」より
『勝利基盤の上で語られるみ言』の2回目です。
☆
(文鮮明先生は)説教では、「神の心情とはいかなるものか」とか
「イエス様はみ言を伝えようとこの世に来たが、
人々が信じてくれない時のイエス様の心情は、
どんなにつらかったことだろうか」
ということをよく教えてくださいました。
ところがその受け入れ方は、
個人個人によって違うわけです。
その時に起こりうる問題を
どのように処理するかは、先生が平常、
一緒に生活しながら、個人的にふさわしい
牧会をしてくださいました。
☆
私たちは先生のお陰で、
たくさんの有名な山に登ることができました。
そのころはお若かったので、誰も
先生より先に登ることができませんでした。
そして、山に登っては、
いろいろなお話をしてくださいました。
そういう中で、兄弟が抱えている問題が
一つ一つ解かれていったのです。
☆
先生はまず、食口たちの証を聞いたり、
どんどん歌わせました。
それで全員に歌わせました。
人の前で歌ったことのない兄弟たちが、
たくさんの人の前で歌う訓練ができました。
好きな歌がありますと、
先生がそれを歌ってくださいました。
ところが、指名されて兄弟が歌う時には、
毎日同じ歌を歌うわけにもいかないので、
何を歌おうかと迷っていると、先生が
「この歌を歌いなさい」と言ってくださいました。
先生は私が歌う歌をよく覚えていてくださり、
私以上にその歌を好んで、御自身で歌われました。
そういうことによって、メンバーはどう考えるかというと、
「ああ、私の愛する歌を好んでくださっている、
私よりも好んでくださっている」と考えるのです。
そして、「先生は私をこのように覚え、
好んでくださっているんだ」と感じるのです。
歌一つで、先生に対する信頼感をもつようになるのです。
☆
皆さんもそうではないですか。
愛する夫婦の間で、相手にとても好きなものがあれば、
自分は本当に好きではなくとも、
相手を愛するがゆえに、相手が好きなものを
自分も好きになろうとする世界があるでしょう。
自分の尊敬する人が左手で字を書くとすれば、
私も左利きで書きたいという心がないですか。
自分の尊敬する人が赤いネクタイをよくすると、
私も赤いネクタイをしたくなります。
愛する人、尊敬する人を見れば、
自分もそうなりたいという心がわくのは、
元々人間が神に習うように造られているからです。
神に近いお方がいれば、その人のようになろうとするのは、
神に近寄ろう、習いたいという心があるからなのです。
それと同じく、私が好きな歌を先生が
よく好んで歌ってくださるということは、
先生がその歌を好むごとく、
私を好み愛してくださっているということを意味するのです。
ですから、皆さんもメンバーが好きなことを
好んでやってあげるならば、
メンバーはリーダーに対して、
とても信頼感をもつようになるでしょう。
このように先生は、とても近くで
いろいろなことを教えてくださいました。
☆
先生が歌を歌わせる時にも、
上手に歌う人の歌は聞きたいけれども、
上手でない人の歌は気分を騒がせます。
でも先生はそれをよく聞いてくださったのです。
そういう人は、歌が上手でなくても、
心はとても上気分になって歌うのです。
また歌の内容をとても大切にして歌う人がいます。
先生はその人の心を大切にしてくださるのです。
U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「勝利基盤の上で語られるみ言」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第七章 何よりも神のものを愛す
「勝利基盤の上で語られるみ言」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
構成を一部入れ替えました。
わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
わかりやすく読んでいただくため、
段落や節の区切りを再編集しています。
文責:ten1ko2
自分自身が愛されている、ということは、
具体的に私が愛するものを
その人も愛してくれているということです。
真の父母様は、目の前にはおられませんが、
私が愛するものを愛してくださっているのだ、
そんな思いを持ちたいと思います。
また、私が愛している人を愛する、ということは、
その人が好きなものを愛する、ということです。
学生部にいたころ、ともに過ごした兄弟が、
お父様のサインをそっくり真似て
書いていたことがありました。
それも一つの愛の表現の一つかもしれません。
真の父母様がお好きな歌を歌う、
好きな料理を食べる。。。
いずれにしても、
心情を相続するための
近道なのだな、そんなことを思いました。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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