2023年04月21日

親元を離れた新生活、夜なかなか寝付けない! 《体験談&自己牧会プログラム・ワーク》



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自己牧会プログラム。
今回は、体験談、
「私はちゃんと幸福なんだ」。

また、「自覚を取り戻す」ワークの
解説を紹介します。

(女性・祝福二世 20代)

大学に入学し、教会の青年寮に
入ったばかりの時のことです。

夜の祈祷会の後、次の日の朝が
早いこともあり、早めに就寝しました。

ところが私はもともと寝付きが悪く、
生活音があるだけでもなかなか眠れないのです。

ふと、これも外的な現象に囚(とら)われているということかなと思い、
「自覚を取り戻す」ワークをしてみました。

布団に横になったまま、
意識を「今ここ」に戻していきます。

食器を洗う音、皆が話す声をそのまま感じ取り、
今私は大好きな布団に寝ている
…と実況中継していくと、
心に幸福を感じるのが分かりました。

そして、いつの間にか眠りについていました。

夜中、ふと目が覚めると、寮のお姉さんが
隣に来て背中をさすってくれていました。

実はその頃、私は、親元を離れたばかりで
ホームシックになっており、
「愛してください」モード全開でした。

そんな私を、そのお姉さんは
気にかけてくださっていたのです。

世界には、温かい部屋で眠ることができない人、
孤独に夜を迎える人も多くいる中、
本当に「今ここ」は幸福だなと感じ、
涙があふれてきました。

そのお姉さんはもうすぐお嫁に行ってしまうので、
こういう交流も最後かもしれないと思うと、
この何気ない場面に永遠の価値を感じました。

「両親と一緒にいられないから寂しい」と
感じなくてもいいんだ、
当たり前のことは何一つないんだ、
私はちゃんと幸福なんだと思いました。

この体験以降、伝道を歩む心情も転換され、
「こういう幸福を人々に伝えていきたい」
という気持ちが強くなりました。

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


ほんのちょっとのことでも、
意識が「今ここ」にないと、
心情が奪われてしまいます。

逆に言えば、「自覚を取り戻す」と、
心情が安定するのです。

最後に「自覚(=本然の自分)を取り戻す」ワーク
の解説より引用します。
是非、実践していきたいと思います。


「自覚を取り戻す」ワーク(ワークの解説)

私たちは何かにつけ、自分本位の思いに囚われて生きています。
歩いているときも、いろいろなことを考えながら歩いています。

まずは、自分が何かに囚われていることに気づくことです。
「はっ! 私は今、心配事に囚われていた」と。

それに気づいたら、意識を「今ここ」においてください。

私は今、正面を見て歩いている、ビルが見えている、
手を振っている、足を上げている、足が地面に着いていると、
現実の自分の姿をありのままに見てください。

いつも自覚を持って、意識を「今ここ」におくようにしていると、
自分の思考(囚われている自分)が何かを想像し始めたり、
心配事を思い起こしたりすると、ささいな心の動きであっても、
そのことに瞬時に気づけるようになり、
自覚を取り戻しやすくなります。

本然の自分に気づけば、自分本位の囚われに
(の)み込まれることはないのです。
本然の自分に気づけば、いろいろなものがはっきりと見えてきます。

その次には、音を聞いてみてください。
何が聞こえますか。

人の声、人が動く音、エアコンの音、車の音、雨の音など、
いろいろな音が聞こえてきます。

そして、本然の自分に立ち返って、体の感触を得てみてください。
手がテーブルに触れている、ペンを持っている、
背中が椅子の背に当たっている、
お尻が椅子の座面に当たっている、
足が床に着いている……。

日頃、嫌な思いに囚われていると、
そのようなことが見えたり聞こえたり、感じられたりしないのです。

自覚を持てば、分かります。
また、自覚を持てば、自分の頭の中でいろいろな思考
(囚われの自分=自己中心的な思いに囚われる自分)が出てくることにも、
すぐに気がつき、それを止めることができます。

つまり、思考(囚われの自分)が始まっても、
自覚を持てば、囚われの思いはそこで終わります。

どんどん思考が出てくるのを客観的に眺める位置に立つのです。
これが、瞑想(めいそう)したり、
座禅を組んで悟りの境地に入ろうとしたりする
修行者が行っていることなのです。

私たちは、本然の自分を取り戻すことによって、
生活の中で影が生じない位置(正午定着)の自分を
得ることができるのです。

光言社刊・自己牧会プログラム
「囚われの自分」からの解放を目指して



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2023年04月20日

涙で子を育てる み言で泣き、自分の不足さに泣き、人のために泣き 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「涙で連結」です。


日本の家庭はとても悲しむべき家庭です。
あまりにも長い間葛藤し、
ぶつかって冷たくなった家庭です。

ですから、お互いに、どれほど涙で交流できるかが問題です。
子供が心配をかけた時に、そのことに泣く親なら、
その子供の身勝手は清算できます。

子供の身勝手に対して泣くことのできる
お母さんであれば、子供の身勝手が解けていきます。


夫婦も身勝手さをもったままの夫婦です。
夫婦もお互いに泣きながら
身勝手さを清算しなくてはならないのです。

笑いながらの夫婦ではないのです。
それでは、まず肉心が心に支配されたがりません。
これも悲しい問題です。

夫婦の関係が、同じ方向と事情をもっていながら、
お互いに心情がつながらない理由は、
一言でいうと、泣かなかったからです。

相手の問題を自分の問題として泣かなかったからです。
悲しめば、真は始まります。
悲しめば、真は成長していくのです。

皆さん、この話を記憶して、自分は生活の中で
どういう心情を発露する自分であるかを考えて、
自分を知りなさい。


私たちは、何かお互い会わなくて問題を抱えているのです。

カイン・アベルが一体化できないし、
アベルに侍ることができないし、
カインに対して愛着心がないし、
夫婦がなかなか真と連結できない、というように。

 
夫婦になったけれども、心情がお互いに
授受しにくい夫婦は、結局お互いの「我」、
自分を否定する悲しみが互いに違うから連結できないのです。

接ぎ木というのは、両方の木を切ります。
両方から液が出ないといけないのです。

液と液が接触して、生命化するのが接ぎ木です。
ですから、人間の心情もそうです。

み言で泣き、堕落性のために泣く、
カインのために泣く、アベルのために泣く、
泣きながら連結するようになっているのです。

これは間違いありません。
涙で連結できるのです。

 
神様は、悲しみに満ちて復帰摂理をしてこられた方だ
ということは間違いありません。

イエス様の一生は悲しみに満ちていた
ということも間違いないのです。

皆さんの生活感情はどうですか。
皆さんの生活感情は、どれほど主体者の立場で
心情を授けながら暮らしていますか。
このことに対して、各々が責任をもつべきです。

自分の情の授け方、情の投入の仕方、
それをほっておけば、自分はいつまでも観念的な人です。
観念的食口です。

み言を悟ったから食口になって、
そのままだと冷たいのです。
み言のまま信仰をもった人は冷たいのです。

涙が始まらないといけません。
自分と闘って、涙を求めるのです。
自分と闘いなさい。

歴史的に神様を悲しませ、
親を悲しませた自分なのです。

 
今は、親と全く関係をもたずに暮らしている
日本の青年たちが、多くいます。

お母さんが捨てて育てたからです。
保育園で育てました。
ですから、子供たちはみな、
親と関係をもとうとせずに、
家から出ようとしています。

高校を卒業する前、もう十五、十六歳になれば、
親に干渉されたくないのです。
なぜかというと、親が子を捨てて暮らしているからです。
自分の子であるけれども、捨てて暮らしています。

 
それでは、何を重んじているかというと、
仕事を重んじています。
仕事のために、自分の家族は別れて暮らす。

それだから、愛はない、恋しさもないのです。
連結していないのです。

子供を生んで育てるお母さんは、涙で育てるのです。
涙で育てると、一生その子は親の因縁に引かれて
離れられないのが、親との関係なのです。

ほったらかして育てたから、みな家を出たがるのです。

こういう後孫だから、「氏族復帰せよ」というみ言を聞いた時に、
自分には氏族がないというのです。
親がいても、全然恋しくない。

兄弟にも、少しも会いたくもない。
札幌に自分の兄弟が住みながらも、一年に一遍も会わない。
こういう人に会った時、驚きます。
どういうふうに育てて、あのように
兄弟がお互いに会いたがらなくなったのかと思います。


家庭夫人たちと数多く接してみると、
家庭がとても悲しいのに、涙がないのが分かります。
夫が毎日酒を飲んで帰るのに、奥さんに涙がないのです。
自分に責任があると思わないのです。

神様に侍る心をもたないといけません。
侍る心から心情も発動するし、
侍る心から涙も出るようになるのですが、
み言を聞いただけで、侍る心情がありません。
み言の理性的な思考が、心情と連結していないのです。

私が心配するのは、教会に通いながら恋しい人がいないということです。
三位基台で親しくなって、いつも教会に行けば、
自分の三位基台のそばに座りたいし、会いたいという、
そういう心がない人は、観念的食口です。

祝福を受けても観念的家庭です。
そのような家庭をお父様は、天使長家庭とおっしゃったのです。
そのような家庭が、真の愛の家庭になれるかというのです。
真の愛とは、お互いに相手の問題を自分の悲しみとすることです。
お互いにそうなれば、真の夫婦になる可能性があります。
連結ができます。
心情と心情が接ぎ木できます。

涙で接ぎ木するのが、絶対に得なのです。
涙なしにはつながらない、ということです。
だから既成祝福家庭は、お互いに今までの習慣を清算して、
だれを相手として侍るべきですか。二人は無形の神様の実体です。

24・真理を求めよ
「涙で連結」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


涙の重要性を感じました。
ただ感情的に泣くのではなく、
真を求めて泣くのです。

涙のある生活、真を求める生活、
まだまだ乏しい自らの姿を感じます。
私は、「淡泊だ」と言われることがあります。

自分としてはそうではないのに、
と思っているのですが、
やはり、涙の多い人間ではないですね。。。

祈りを通じて、家族を通じて、
真を求めるべく、涙の生活を
送っていかなければ、と感じるのです。




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2023年04月19日

「あなた方が天の武器であり、天の宝」、食口は現代の義人です 《田中会長》



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今年、80歳を迎えられた
韓鶴子総裁(真のお母様)。

世界でお祝いの式が行われましたが、
松濤本部で行われた敬礼記念式での、
田中会長の祝祷を紹介します。



祝祷
天の威光を放つ輝きとなり、
真の父母様に勝利の凱歌を捧げる者に

天の父母様は、たった一組の真の父母を尋ね求めて、
聖書歴史6000年を費やしてこられました。

摂理の主人として天の召命に応えた預言者たちや
選民たちの苦難の路程、また、あなたの独り子として
十字架の道を余儀なくされたイエス様、
そして、2000年にわたるクリスチャンの殉教史、
さらに第3イスラエル選民として立てられた
韓民族の苦難の道など、父母なる神様が、
ただわが子を取り戻したい一心で牽引してきた
人類救援の道が、こんなにも気が遠くなるような
犠牲の道になるとは、一体誰が予想できたでしょうか? 

彼らが、その理由も分からないままに
蕩減歴史の中で流し続けた、血と汗と涙は、
人類の真の父母の誕生という形で大きく実ることとなりました。

しかし、その真の父母の誕生も、
壮絶な霊的闘いの背景を越えてこられた結実であり、
また、その使命の大きさの前に耐え難き試練と
十字架を生きて越えてこられた真の父母様です。

空を巻物にし、海を墨汁にして書いても
書き切ることのできない苦難の生涯路程は、
私たちに人類の罪の重さを改めて教えてくれます。

今、人類歴史は、大きな分岐点を迎えています。
1960年、天に対して真の父母として立たれたことを
宣言された歴史的瞬間以降、偽りの血統圏で
父母を見失った人類が、天の血統圏に帰る道がつくられました。

正に、人類歴史に刻まれた奇跡の一点です。

天の息子・娘として父母の懐に帰ることが許される
祝福の恩恵は、今や、地上の全人類のみならず、
霊界の億兆万の霊人に至るまで、
限りなく広がる時代を迎えています。

ただ、勝利された真の父母様の前に立つ、
不足な息子、娘である私たちが、あなたの摂理の
最も大きな足かせになっていることも自覚しています。

一つの国も持たないままに真のお父様を
霊界にお送りしてしまい、今、80歳を迎える
真のお母様に、まだ摂理の重荷を全て負わせている事実を、
どうやって悔い改めたらよいのか、
時に絶望的な境地に追いやられます。

この半年間、神日本において私たちが
受けている試練などは、何の問題もありません。

ただ、真のお母様のご心痛を思うと、
あまりにもいたたまれない心情になります。

「お母様、大丈夫です。
心配なさらないでください!」と、
いくら言葉を届けたとしても、
やはり、親は親であり、母は母です。

いや、むしろ親だからこそ痛む
心情の世界があるのだと思います。
日本の子供たちのことを思って眠ることもできない
日もあると耳にするたびに、子女として、
一日も早くお母様を解放してさしあげたい
という思いでいっぱいになります。

天の父母様! 
こんな不足な私たちを、
あなたはまだ必要とされるのでしょうか? 

私たちは知っています。
摂理の主人は天の父母様であり、私たちを
使うのも捨てるのも、決めるのはあなた自身です。

天が私たちを必要とされる限り、
天が私たちを用いる限り、
私たちは全身全霊、完全投入で
アベル圏としての使命完遂に邁進してまいります。

今、神日本で展開される大きな試練を通して、
国家を天の前に取り戻す大きな峠を迎えていることも
切実に感じています。

厳しい闘いではありますが、しかし、
この間、大きな希望も与えられました。
それは、最前線で闘う兄弟姉妹、食口一人一人です。

空爆のような批判の前にも、天の父母様と
真の父母様を慕い、頂いたみ言を握り締めて
逆風に向かって耐え忍びながら、
それでも一歩でも足を進めようとするその勇気に、
天の父母様もきっと感動を覚えておられると確信いたします。

食口は、正に現代の義人です。
お母様は私たちに「あなた方が天の武器であり、
天の宝だ」とも語られました。

どんな試練に向き合っても、私たちは
天の誇らしい武器となって、天の威光を放つ輝きとなって、
勝利の凱歌を真の父母様と共に歌う、
その瞬間を楽しみに、総進軍してまいります。

これからの歩みに天の父母様の大いなる祝福があることを
切に願いながら、そして、何よりも
80歳を迎えられた真のお母様のご安寧を祈りながら、
感謝と決意を込めてご報告いたします。

一月二十七日、松濤本部
真の父母様ご聖誕日の敬礼記念式
https://familyforum.jp/2023040848242
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


自分自身を振り返れば、
どれだけみ言の通りに歩んだのか、
氏族メシヤの実践をしてきたのか、
本当に足りない歩みばかりで、後悔の日々です。

しかし、そんな者にたいしても、
「あなた方が天の武器であり、天の宝だ」
このように言ってくださるのです。

真の父母様が喜ばれる者になるべく、
一日でも長くみ旨を最前線で歩めるよう、
祈りを捧げ、元気に歩んでいきたいと思うのです。


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