2023年04月18日

身につけずに語ると空しくなる ──(サ)に祝福を奪われないために 《金元弼先生》



230418.jpg


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
「み言を実践すれば神が分かる」です。


み言も、先生が勝利された後で、
私たちに与えてくださるものです。

試験をし、勝利して初めて、
一つ一つ与えてくださるわけです。
人から聞いた話を語るのではありません。

だから先生は、尽きないで
何回でもみ言を語ることができるのです。


頭で習ってやったものは、
何回かすればやりたくなくなります。

そういう言葉は、人の頭の復興は
できるかもしれませんが、生命の復興はできません。
そこが違うのです。

「人のために尽くしましょう」という同じみ言でも、
語る人によって感動は違うのです。

あなたとメンバーと同じことを言っても、
受け取る内容は違ってきます。


まずみ言を自分のものとする過程が
必要であることを忘れないでください。

統一教会で長年やってきても、
そういうことをしなければ、喜びがなく、
み言の価値が分かりません。

よく語る人がいいですか、
話さなくてもよく行う人がいいですか。

言葉で「愛する、愛する」という人より、
「愛する」とは一度も言ったことがなくても、
愛してくれる人が好きでしょう。


例えていいますと、話をする時は
全部を話さないで、十あれば
三ぐらいを残しなさいということです。

話をたくさんすると、その後で
おなかが空いたように、何かむなしさを感じます。

自分にいっぱいあったものも、
全部あげてしまえばなくなるでしょう。

例えば一〇〇〇ポンド持っていたとしましょう。
それを与える時は気持ち良くても、
全部与えた後は、何もなくなるから
むなしいのです。
それと同じです。

そのむなしさは、満たされなければいけません。
そしてそのためには、基盤がなければいけません。

お金を稼ごうとしたら資本金、
種になるお金が必要です。
それがあれば、すぐまた増やせるのと同じです。

 
昔、聖パウロが天上の情景を見ました。
それを十三年後になって人々に証したのです。
なぜか分かりますか。

貴重さというのは全部分けてあげると
感じなくなります。
自分だけがもっている時にこそ、宝石なのです。

この人もあの人も持っていたら、価値がなくなります。
それゆえ彼は、十三年前に見た
天上の情景の感激を、自分一人でもっていたのです。

伝道に出掛けても、たくさんの迫害を受け、
自分自身がダウンするような時にも、
その情景を思い出して、また力を出して
勝ち抜いていくことができました。

 
人を教えるのは、それ以上のものをもっている時です。
そうでないのに、どんどん出してしまうと、
何もなくなるから、ほかの人のところに行って、
力を補ってもらわなければいけなくなります。

神はまず、自分のものにしなさい、
その次に人に分け与えなさいと言って、
祝福を与えたのです。

そうすれば、神の祝福は全部、
全体に行きわたります。

 
ところが、自分が一致化せずに、
つまり自分のものにせずに、
ほかの人に与え、その人自身も
自分のものとせずに、また人に与えたら、
その人たちは全部空になります。

そしてその一番末には誰がいるかというと、
そこにはサタンがいるのです。

そうすると、この人たちは
全部がサタンの側に入ってきます。

神は愛する人にみ言と祝福を与えたけれども、
自分のものとしなかったがゆえに、
その祝福を誰がもっていくかというと、
サタンがもっていくのです。


皆様がいろいろな兄弟たちに教えたり、
お話ししたりする時には、
まず自分のものとする努力、
一致化させる期間が必要であることを
忘れないようにしてください。

み言をそのまま行ってみると、
神のみ言、人格、心情も全部分かってきます。

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


み言は人に話すためのものではなく、
自分自身のためにある。。。

そして、話すよりも実践すること。

このことを肝に銘じていかなければ
改めて思わされました。

私自身は話すのは本当に苦手なのですが、
そういうことに気を取られるのではなく、
言葉少なくても、実践して、体恤する。
これが何よりも大事なことだと思います。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 06:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月17日

「先生に会いたくて仕方がない」 教会に人があふれる・伝道の秘訣 《史吉子先生》



230417-1954.0503.jpg


史吉子(サ キルジャ)先生の 「原理によるみ言の証」より
「自己否定の意義と秘訣」の最終回です。


いつもご自身の意識を忘れるくらい、
神様の代身になられるお方が父母様です。

皆さんは父母様のみ言を思いながら、
父母様に侍りながら暮らしているように、
父母様に尋ねてください。

「私の生活の主体は父母様であり、私ではない。
私は従う対象である」と。

このような意識を持って生きれば、
全てに対する答えが霊感として浮かび上がるのです。

私たちが父母様の前に徹底的な対象の立場に立つ時、
全ての問題は解決されます。


そして、伝道がよくできる秘訣は、
伝道対象者の名前を何度も呼ぶことです。

「キムヨンジャ! キムヨンジャ! キムヨンジャ!」
のようにです。

名前を呼べば、その人の霊人体が
私に引かれて来るようになり、
逃げられなくなるそうです。

名前をずっと呼び続けると、 その人が私に会いたい、
私に電話したいと思うようになり、
私を恋しく思うようになるそうです。

このように恋しくて、その人の方から
私を訪ねて来るようになるのです。


草創期にお父様は、私たちの名前を
熱心に呼ばれたそうです。

私たちは、最初はわかりませんでした。
青波洞にいた頃、 私たちは元気な20代の学生でした。

私は梨花女子大学を退学させられた後、1年間休んでから、
淑名女子大学の薬学科に入学しましたが、
薬剤師の免許の取得に関する
国家試験に備えるための模擬試験が多かったので、
朝は教会に行くことができませんが、
学校から家に帰る時には必ず教会に行きました。

教会に寄ってから家に来ると、勉強もうまくできましたが、
そうでないと勉強に集中することができませんでした。

お父様の声と顔が目の前に現れるので、
何もすることができませんでした。


職場に通う人たちも教会に寄って行かなければならないし、
家庭の主婦たちも、教会に来てから
家に帰らなければなりませんでした。

朝7時になるとお父様は、前本部教会の2階から
降りて来られ、食事をされます。
すると、食口たちは目を見開いて、
火事になった時のように集まってきます。

お父様は集まった食口たちに、
「夕べ、先生の夢を見たの?
先生が恋しくて眠れなかっただろ?」と尋ねました。

実際、そうでした。
食口たちは、「はい、そうです」
と言いながらわあわあ泣きました。


しばらく経ってからお父様は、
「誰があなたたちをそのようにしたのか?」
と尋ねられた後、説明してくださいました。

「そうさせた動機はあなたたちにあるのではなく、
先生にあるのだ。
昨夜、あなたたちを送った後、一晩中、
あなたたちの名前を呼びながら祈祷した」と語られました。

だから、夢を見てもお父様の夢を見るし、
思うこともお父様のことだけを思うようになるのです。

お父様はそのように切実な祈祷をされて、
「さあ、私がこのように食口たちのために
精誠を尽くして食口たちの名前を呼んだから、
霊界がどれくらい協助するのかを見てみよう」
と言われたそうです。

そして眠りにつかれたそうです。


案の定、朝になると、食口たちが
目を丸くして教会に駆け付けて来ました。

ある食口は職場に向かった足が勝手に教会に来てしまい、
学校に行くバスに乗るはずが、 教会に行くバスに
間違って乗って来ると言う役事が起りました。

それで、朝になると食口たちが狂ってしまうのです。
大騒ぎしながら、皆来るのです。
教会で何事も起こっていないのにです。

これがまさに伝道の秘訣です。
私たちが人を恋しがる心が無ければならないし、
その人を生かしたいと狂うほど必死になったら、
相手も狂ってしまうのです。
そうすると、道が開かれるそうです。


私は草創期にあまりにも迫害を受けたので、
悔しくて離れることもできず、腹立たしくて
離れることもできず、み旨について来ました。

私たちの学生時代にお父様が、
「み旨の道を行くのにおいて、
あなたはどんな心持ちで行くのか?」と答えたら、
「そうだ!」とおっしゃいました。

それほどに復讐心に燃えていたのです。
それが歳月が流れて、今に至っては、
その復讐心が愛の復讐心に変わりました。

すなわち恩讐を愛して自然屈服させることが、
真の復讐であることを悟るようになりました。

史吉子/ 著「原理によるみ言の証」

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


「私たちが父母様の前に徹底的な対象の立場に立つ時、
全ての問題は解決され」ると言います。

本当にそうなりたい、父母様の対象に立ちたい!
と切実に思わされます。

また、草創期のお父様は、
食口たちのために切実な祈祷をされた、
そして、不思議な現象が起こった、と言います。

これが伝道の秘訣だ、というのです。
私たちは、祈りの効果を実践しているでしょうか。
それだけ切実な祈りを捧げているか、というと
本当に足りない、と思わされるのです。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 09:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 史吉子先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月16日

私が妻の話を聞くようになった理由 「先生も、家庭ではお母様の言うことを聞くよ」 《柴沼先生》



1972.0426.jpg
全国から集った教会員にみ言を語られる真のお父様。この日、
世界統一十字軍が編成された(1972年4月26日、狭山)


柴沼先生のみ言。
「真の父母様とはどのような方かA
能力ではなく心情を見てくださる」です。


イエス様は、宮で教えておられたときに、
金持ちが賽銭箱にたくさんの金を投げ入れる中、
一人の貧しいやもめがわずかな金額を投げ入れたのを
ごらんになって、次のように語られました。

「よく聞きなさい。
 あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている
 人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、
 あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、
 その生活費全部を入れたからである」
(マルコ12・43〜44)


このようにイエス様は、その人の行いの背後にある
心をごらんになるのですが、真の父母様も
全く同じであることを、私は何度も目撃しました。

■父として相対者の相談に乗ってくださった

1970年10月に777双の祝福が行われました。
私は、自身のいろいろな不足を感じて、
祝福を受ける価値はないと思いながら、
マッチングの場に臨んでいました。

真のお父様は、地区長という立場の責任者を
先にマッチングされました。
私も地区長の一人でしたが、
マッチングが決まったのは、地区長の中で最後でした。

お父様は私の心情が定まっていないことを見抜かれ、
私の心情が整理されるのを待ってくださったのだと思います。


マッチングが決まったとき、私の相対者は、
私が相手であることにすっきりしない思いを抱いていました。

彼女は、「このままでは、神様にも
真の父母様にも申し訳がない」と感じたようです。

そこで大胆にも、お父様に直接お尋ねしたのです。
「自分は弱いので、もっと強い感じの人が
主体者かと思っていました」と。

そのときお父様は、まだマッチングが
決まっていない人たちにみ言を語っておられたのですが、
そのみ言を中断して、相対者の話を
聞いてくださいました。

そして、私のことを「いい男だよ」と言われ、
「もう一度、ふたりで話してごらん」
と優しく諭してくださいました。

こう言われて相対者はすっきりしたらしく、
私との祝福を受け入れたのです。

お父様が、相対者の、天の祝福を
心から感謝して受けたいとの心情を尊重し、
父として相談に乗ってくださったお姿に、
非常に感銘を受けました。

■決して心情を蹂躙されない方

1972年4月、世界統一十字軍が編成され、
私は第25団(山形)の団長になりました。
団長になって3か月ほどして、
松濤本部(東京)でお父様主管の団長会議があり、
上京しました。

移動中、「今回の会議は私の信仰生活にとって
とても大切な時間になる」と感じ、
3時間祈ってから本部に行きました。

会議では、全団長(約60人)が3か月間の歩みを証ししました。

するとお父様が、「この中で最も実績が悪かった
団の団長、立ちなさい」と言われたのです。
それは私でした。

私が立つと、お父様は
なぜ悪かったのか」とお尋ねになりました。

私は、実績が悪いことについて弁明することは
一切せず、このように申し上げました。

「お父様、今まで実績は悪かったとしても、
ここ3か月で準備万端整えたので、
これからはどこの団にも負けませんから、
ご安心ください」

するとお父様はとてもお喜びになり、
実績に対するお叱りの言葉はなかったのです。

そのとき私は、お父様が最も関心を持っておられるのは、
能力や実績ではなく、どのような心情で
歩んでいるかであることが分かりました。

いついかなるときも、決して私たちの心情を
蹂躙されない神様のお姿を見たように思いました。

■「先生も、家庭ではお母様の言うことを聞くよ」

祝福を受けてから6年後、米国で家庭を出発しました。
程なくして、ニューヨークの近くに住む
777双の家庭がイーストガーデンでの食事会に
招待される機会がありました。

そのときお父様は、家庭を持ったばかりの
カップルに証しをするよう願われました。
素晴らしい証しが続き、その場は
とても喜ばしい雰囲気で、笑いが絶えませんでした。


やがて私たち夫婦の番が回ってきました。
私は、真の父母様の前では正直にあるがままを
ご報告したいと思い、私たち夫婦が祝福後、
どのように闘ってきたかを包み隠さず申し上げました。

「私の妻は、私の服装から歩き方、
食べ方まで指摘する外的な人です。
自分たちのことを天のプリンス・プリンセスなどと言って、
そのように振る舞うように言うんです」

すると、それまで明るかった雰囲気が一挙に
暗くなってしまったのです。
妻は、真の父母様に申し訳ないと涙を流していました。

私の話が終わると、お父様は、
「あんたの妻は良いことを言うね」と、
私が全く予想していなかったことをおっしゃいました。

そして、「先生も、家庭ではお母様の言うことを聞くよ。
あんたも妻の言うことを聞かなければいけないよ」
と言われたのです。

私がこの6年間、妻の指摘を拒否し続けてきたことを、
お父様はお見通しのようでした。

さらに驚いたことに、お父様は、
「人の話をもっと聞くように」とか
「天の皇族にならなければならない」など、
私が6年間、妻から言われ続けてきたのと
同じことを語られたのです。

お父様は、妻の私に対する言動が、
私に少しでも良くなってほしい、
お父様に似た者となってほしいという動機からで
あったことを見抜かれたのだと思います。

それまでは、妻から何を言われても
決して素直に認めなかった私でしたが、
お父様のみ言は否定できるはずがなく、
それ以降は妻の言葉を素直に聞く努力をするようになりました。

真の父母様とはどのような方かA
能力ではなく心情を見てくださる
天一国特別巡回師 柴沼邦彦

天一国特別巡回師に聞く
神霊と真理に満ちた教会を目指して第7回
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


人の心情を見抜かれるお父様。

たとえ、責任者が実績や結果で
評価される人であったとしても、
私は、結果に主管される者にならず、
心情を中心として、
物事をとらえていきたい、と思います。

今、お父様は地上にはおられませんが、
霊界で見つめておられるだろうし、
何よりも神様がご存じである、と思うからです。

また、妻の話には耳を傾けなかったのに、
お父様から同じことを言われて、
反省するしかなかった柴沼先生。

人によって、この人の言葉は受け付けない
という場合もあったりします。
しかし、そう言う人からの指摘こそ、
謙虚に受け止める必要があるのだと思います。

負債なき歩みを捧げていきたいと思うのです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)