2023年04月07日

自分の頭の中にあるものを、一から百まですべて話してはいけません 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、『み言と一致化する努力』です。


私たちは、自分の頭の中にあるものだったら、
新しい人の前でも一から百まで全部話そうとします。
自分でよく分かっていないことでも
全部話してしまいます。

しかし自分のためではなく、
その人のために話しているのですから、
相手の人が話を聞くことによってプラスになり、
神の心情にもっと近くなるのを
確かめながら話していかなければ、
かえってその人にとってマイナスになることがあります。

「正しい話をしてあげたから、
その人が傷ついたとしても私の責任ではない。
彼の責任だ」と考えてはいけません。


いくらおいしい食べ物でも、
それを消化できない子供に与えたら、
生かすのではなく殺すことになります。

どんないいものでも、時至らない時に
時の話をすることは罪になります。

アダムとエバの愛も時至っての行為なら喜びでしたが、
時至らない時に時のことをしたので罪となりました。

皆さんもたまにはよくないうわさを聞いて、
精神的にまいってしまうことがあるでしょう。
それは時至ってない時に時の話を聞いたからです。

 
ですから、そういうことを話したら、
話した人が責任を取らなければなりません。

話をする目的は、聞く人のためにするのですから、
かえってマイナス的なものを与えた場合には、
その人が責任を取らなければなりません。

皆様が分かっていることを人に与える時には、
必ずその人のために与えるということを忘れず、
その人のことをよく分かって話してあげなければいけません。

ですから、人によって話すことも違ってくるのです。


先生は勝利されたみ言を下さるということの
理由を一つお話しします。

神はみ言と一致化することを願って、
私たちにみ言を与えてくださいます。
神は最初の人間にみ言を与えました。

しかし、そのみ言と一致化できませんでした。
祝福を受けましたが、自分のものにできず、
愛を受けましたが、
それと一致化した人間になりえませんでした。

神がみ言や祝福を与える目的は何でしょうか。
それは神のみ言や愛と一致化することによって、
神と一つになることです。

そうすれば、いろいろな人に
愛を与えることができるのです。
愛の根本、み言の根本である神と一致化すれば、
与えても与えても絶えることがありません。


ところが、私たちは一致化する前に
どんどん与えていきますから、
与えれば与えるほど枯渇を感じます。

ですから、私たちはまず、み言と
一致化する期間が必要なのです。

み言を理解した、分かったというだけでは、
まだまだ一致化したとはいえません。

み言どおりに実行することによって
初めて自分のものになり始めます。
これが一致化です。

それも何度か回数を経なければいけないでしょう。
そこで初めて、み言と一致化する自分となります。


私たちは頭で理解し、分かった時点で
どんどん話をしていきます。

けれども人にこうしなさいと言う前に、
自分自身で実行し、実践することです。

頭で分かって、さらに体で行っていかなければなりません。
皆さんがスケートをするとします。
そのためには、スケートはどのようにするのかを習い、

そのとおりに自分でやってみて、
初めてはっきり分かってくるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「み言と一致化する努力」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


自分の中にあるものを、一から十まで(すべて)
そのまま話してはいけない。

つまり、聞いたものを自分のものにしていないのに、
口先だけの受け売りで
語るのではない、ということかと思います。

み言の一致化といっておられますが、
「み言の実体化」というのと同じでしょうか。

み言を、聞いて、それを消化・吸収して
自分のものとして受肉する。
そして、実際に生活の中において
み言通りに実行する。。。

ですが、人によっては
そのみ言に拒否反応を示したり、
消化不良で気分が悪くなってしまうかもしれません。

ですから、その人の体質にあった
アレルギーを起こさないようなもの
また、真理のみ言で切り裂くようなものではなく、
愛と思いやりをこめて
かみ砕いたり、甘口にして
伝えていきたいです。

み言を語り、それを受けるのも、
授受作用なのだと思います。

与えることによって、
相手が復活すれば、
喜びが出てくるし、
み言の価値が生まれてきます。

相手が喜んでくれるようなもの、
相手が成長したり、役に立つものを
与えていきたいですね。

そうすることによって、
実は、相手に語ったみ言を通して、
私が恩恵を受けるのではないでしょうか。

やはり、み言は自分のためのものですね。
み言を受肉する努力、一致化する、
実体化することを、何よりも
前提においていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 06:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする