李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)のみ言。
今回は、「真(まこと)は悲しみをもって求める」です。
☆
ですから、どのように本性の価値を求めていくかというと、
悲しみでもって求めていくのです。
真は悲しみをもって求めていくのです。
悲しみなくして真を求められないようになっているのです。
歴史は、神様の悲しみの歴史です。
神様は、悲しみながら人間を愛しておられる方です。
悲しみを隠して愛される方です。
ですから、私たちも、どれほど悲しみをもった
自分であるかということが重要です。
悲しみなくして苦痛を乗り越えることはできません。
☆
み言を悟ってみると、自分という存在を
みな、困った自分だ、申し訳ない自分だと考えます。
結局、堕落性の根本というのは自分勝手ということです。
自分を肯定して暮らしたがるのです。
自分を否定しにくいので、何とかして
自分を肯定しようとして、
み言を自分なりに解釈して暮らそうとします。
なかなか素直な立場に立とうとしません。
純潔な自分になりたいのですが、
この「我」というものが、
なかなか清算しにくいのです。
どこで清算できるかというと、
悲しみを求めることによってできるのです。
そこから真の本性を得るのです。
☆
ですから、お父様の祈祷文には、
「お父様の悲しみの歴史の友となるように許諾してください。
歴史的苦痛と共に、苦痛を受ける
心情の友となるように許諾してください」とあります。
これは随分昔の祈祷です。
一九五八年の祈祷です。
この祈祷を聞きながら、私はそれが
何の話か分からなかったのです。
私は直接この祈祷を聞きましたが、
それが何の祈祷か、その当時は分かりませんでした。
悲しみの心情の友となり、同伴者としてください
という願いが、いつもお父様の祈祷であったのですが、
それがなかなか分かりませんでした。
後輩たちは、お父様の前ではみな緊張していますが、
お父様が笑わせると、緊張していたことを
完全に忘れたように、みなぱーっと笑いますが、
それはあまりにも無責任です。
笑う時は、「緊張」の言葉を
一瞬に捨てて笑ってしまうのです。
皆さんの、み言を聞く時の緊張した姿勢は
間違いないのですが、笑う時は、
そういう内容を隠して、抑えて笑っているのでしょうか。
悲しみを抑えた人でしょうか。
緊張を蓄えた人でしょうか。
それを私は、いつも後輩たちに注意しているのです。
笑う時、顔で笑うのはいいのですが、
自分の胸と腹まで笑わせると、
緊張と責任がなくなります。
よく笑う人は、無責任な人です。
24・真理を求めよ
「真は悲しみをもって求める」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「真は悲しみをもって求める」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
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わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
笑いの背後に涙がある。。。。
いつも悲しみを心情にたたえている
それが父母様の姿でしょう。
そして、お祈りを通しても
神の「悲しみの歴史の友となるよう」と、
神様を慰めていかれました。
悲しみを共有すると
心情が近くなると感じます。
「真は悲しみをもって求める」
奥深いみ言ですが、天の悲しみに触れ、
そこから離れられなくなり、
心情が一つになられた父母様なのでしょう。
神様の前に、孝子、孝女として立たれている
父母様に感謝いたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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