2023年04月12日

悲しみがなければ、本物にはなれない 笑う時にも神を忘れず 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)のみ言。
今回は、「真(まこと)は悲しみをもって求める」です。


ですから、どのように本性の価値を求めていくかというと、
悲しみでもって求めていくのです。

真は悲しみをもって求めていくのです。
悲しみなくして真を求められないようになっているのです。

歴史は、神様の悲しみの歴史です。
神様は、悲しみながら人間を愛しておられる方です。
悲しみを隠して愛される方です。

ですから、私たちも、どれほど悲しみをもった
自分であるかということが重要です。
悲しみなくして苦痛を乗り越えることはできません。


み言を悟ってみると、自分という存在を
みな、困った自分だ、申し訳ない自分だと考えます。

結局、堕落性の根本というのは自分勝手ということです。
自分を肯定して暮らしたがるのです。

自分を否定しにくいので、何とかして
自分を肯定しようとして、
み言を自分なりに解釈して暮らそうとします。
なかなか素直な立場に立とうとしません。

純潔な自分になりたいのですが、
この「我」というものが、
なかなか清算しにくいのです。

どこで清算できるかというと、
悲しみを求めることによってできるのです。
そこから真の本性を得るのです。

 
ですから、お父様の祈祷文には、
「お父様の悲しみの歴史の友となるように許諾してください。
歴史的苦痛と共に、苦痛を受ける
心情の友となるように許諾してください」とあります。

これは随分昔の祈祷です。
一九五八年の祈祷です。
この祈祷を聞きながら、私はそれが
何の話か分からなかったのです。

私は直接この祈祷を聞きましたが、
それが何の祈祷か、その当時は分かりませんでした。

悲しみの心情の友となり、同伴者としてください
という願いが、いつもお父様の祈祷であったのですが、
それがなかなか分かりませんでした。

後輩たちは、お父様の前ではみな緊張していますが、
お父様が笑わせると、緊張していたことを
完全に忘れたように、みなぱーっと笑いますが、
それはあまりにも無責任です。

笑う時は、「緊張」の言葉を
一瞬に捨てて笑ってしまうのです。

皆さんの、み言を聞く時の緊張した姿勢は
間違いないのですが、笑う時は、
そういう内容を隠して、抑えて笑っているのでしょうか。

悲しみを抑えた人でしょうか。
緊張を蓄えた人でしょうか。
それを私は、いつも後輩たちに注意しているのです。

笑う時、顔で笑うのはいいのですが、
自分の胸と腹まで笑わせると、
緊張と責任がなくなります。
よく笑う人は、無責任な人です。

24・真理を求めよ
「真は悲しみをもって求める」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2


笑いの背後に涙がある。。。。
いつも悲しみを心情にたたえている
それが父母様の姿でしょう。

そして、お祈りを通しても
神の「悲しみの歴史の友となるよう」と、
神様を慰めていかれました。

悲しみを共有すると
心情が近くなると感じます。

「真は悲しみをもって求める」
奥深いみ言ですが、天の悲しみに触れ、
そこから離れられなくなり、
心情が一つになられた父母様なのでしょう。

神様の前に、孝子、孝女として立たれている
父母様に感謝いたします。




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posted by ten1ko2 at 09:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする