李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「涙で連結」です。
☆
日本の家庭はとても悲しむべき家庭です。
あまりにも長い間葛藤し、
ぶつかって冷たくなった家庭です。
ですから、お互いに、どれほど涙で交流できるかが問題です。
子供が心配をかけた時に、そのことに泣く親なら、
その子供の身勝手は清算できます。
子供の身勝手に対して泣くことのできる
お母さんであれば、子供の身勝手が解けていきます。
☆
夫婦も身勝手さをもったままの夫婦です。
夫婦もお互いに泣きながら
身勝手さを清算しなくてはならないのです。
笑いながらの夫婦ではないのです。
それでは、まず肉心が心に支配されたがりません。
これも悲しい問題です。
夫婦の関係が、同じ方向と事情をもっていながら、
お互いに心情がつながらない理由は、
一言でいうと、泣かなかったからです。
相手の問題を自分の問題として泣かなかったからです。
悲しめば、真は始まります。
悲しめば、真は成長していくのです。
皆さん、この話を記憶して、自分は生活の中で
どういう心情を発露する自分であるかを考えて、
自分を知りなさい。
☆
私たちは、何かお互い会わなくて問題を抱えているのです。
カイン・アベルが一体化できないし、
アベルに侍ることができないし、
カインに対して愛着心がないし、
夫婦がなかなか真と連結できない、というように。
☆
夫婦になったけれども、心情がお互いに
授受しにくい夫婦は、結局お互いの「我」、
自分を否定する悲しみが互いに違うから連結できないのです。
接ぎ木というのは、両方の木を切ります。
両方から液が出ないといけないのです。
液と液が接触して、生命化するのが接ぎ木です。
ですから、人間の心情もそうです。
み言で泣き、堕落性のために泣く、
カインのために泣く、アベルのために泣く、
泣きながら連結するようになっているのです。
これは間違いありません。
涙で連結できるのです。
☆
神様は、悲しみに満ちて復帰摂理をしてこられた方だ
ということは間違いありません。
イエス様の一生は悲しみに満ちていた
ということも間違いないのです。
皆さんの生活感情はどうですか。
皆さんの生活感情は、どれほど主体者の立場で
心情を授けながら暮らしていますか。
このことに対して、各々が責任をもつべきです。
自分の情の授け方、情の投入の仕方、
それをほっておけば、自分はいつまでも観念的な人です。
観念的食口です。
み言を悟ったから食口になって、
そのままだと冷たいのです。
み言のまま信仰をもった人は冷たいのです。
涙が始まらないといけません。
自分と闘って、涙を求めるのです。
自分と闘いなさい。
歴史的に神様を悲しませ、
親を悲しませた自分なのです。
☆
今は、親と全く関係をもたずに暮らしている
日本の青年たちが、多くいます。
お母さんが捨てて育てたからです。
保育園で育てました。
ですから、子供たちはみな、
親と関係をもとうとせずに、
家から出ようとしています。
高校を卒業する前、もう十五、十六歳になれば、
親に干渉されたくないのです。
なぜかというと、親が子を捨てて暮らしているからです。
自分の子であるけれども、捨てて暮らしています。
☆
それでは、何を重んじているかというと、
仕事を重んじています。
仕事のために、自分の家族は別れて暮らす。
それだから、愛はない、恋しさもないのです。
連結していないのです。
子供を生んで育てるお母さんは、涙で育てるのです。
涙で育てると、一生その子は親の因縁に引かれて
離れられないのが、親との関係なのです。
ほったらかして育てたから、みな家を出たがるのです。
こういう後孫だから、「氏族復帰せよ」というみ言を聞いた時に、
自分には氏族がないというのです。
親がいても、全然恋しくない。
兄弟にも、少しも会いたくもない。
札幌に自分の兄弟が住みながらも、一年に一遍も会わない。
こういう人に会った時、驚きます。
どういうふうに育てて、あのように
兄弟がお互いに会いたがらなくなったのかと思います。
☆
家庭夫人たちと数多く接してみると、
家庭がとても悲しいのに、涙がないのが分かります。
夫が毎日酒を飲んで帰るのに、奥さんに涙がないのです。
自分に責任があると思わないのです。
神様に侍る心をもたないといけません。
侍る心から心情も発動するし、
侍る心から涙も出るようになるのですが、
み言を聞いただけで、侍る心情がありません。
み言の理性的な思考が、心情と連結していないのです。
私が心配するのは、教会に通いながら恋しい人がいないということです。
三位基台で親しくなって、いつも教会に行けば、
自分の三位基台のそばに座りたいし、会いたいという、
そういう心がない人は、観念的食口です。
祝福を受けても観念的家庭です。
そのような家庭をお父様は、天使長家庭とおっしゃったのです。
そのような家庭が、真の愛の家庭になれるかというのです。
真の愛とは、お互いに相手の問題を自分の悲しみとすることです。
お互いにそうなれば、真の夫婦になる可能性があります。
連結ができます。
心情と心情が接ぎ木できます。
涙で接ぎ木するのが、絶対に得なのです。
涙なしにはつながらない、ということです。
だから既成祝福家庭は、お互いに今までの習慣を清算して、
だれを相手として侍るべきですか。二人は無形の神様の実体です。
24・真理を求めよ
「涙で連結」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「涙で連結」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
涙の重要性を感じました。
ただ感情的に泣くのではなく、
真を求めて泣くのです。
涙のある生活、真を求める生活、
まだまだ乏しい自らの姿を感じます。
私は、「淡泊だ」と言われることがあります。
自分としてはそうではないのに、
と思っているのですが、
やはり、涙の多い人間ではないですね。。。
祈りを通じて、家族を通じて、
真を求めるべく、涙の生活を
送っていかなければ、と感じるのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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