2023年05月19日

私たちの生活が信仰であり、伝道であり、教育 *家庭連合の改革とは 《田中会長》



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田中会長のメッセージ
今回は、「生活信仰・生活伝道・
生活教育」を紹介します。


原点回帰の大号令とともに、家庭連合は改革の道に向かって大きく一歩を踏み出しています。

イエス様の十字架以降、摂理の中心軸を担ったキリスト教二千年の殉教史の土台の上で、再臨主を迎えるためにその使命を引き継いだ統一教会。一九五四年の創立以来、統一教会の四十年間は、正に、いわゆる牢獄の宗教≠ニ言われたように、愛する者や生活基盤を犠牲にし、身を天に捧げた蕩減の時代でした。

イエス様は、「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」(ルカ一八・29〜30)とまで語られていますが、私たちは、摂理の周辺に生きる者たちからは理解しがたい、神とサタンの一線の道を歩んできました。それも全ては、天の父母様(神様)の創造理想を地上に安着させるための、アベル圏の宿命の道だったとも言えます。


◆生活信仰

四十年の蕩減基台の上で、今や摂理は大転換の時代に突入しています。イスラエル民族が、四百三十年間、過ごしてきたエジプトを捨てて、苦難の四十年荒野路程を通過し、神様の約束の地カナンに定着する時代を迎えたように、正に今、摂理の羅針盤の針は、天一国定着、安着に向かって、その針路を大きく変化させていることに、私たちは気づかなければなりません。

「本来人間は、宗教と信仰生活を通して神様と関係を結ぶように造られた存在ではありません。本然の園には宗教はなかったのです。本然の神人関係は、信仰儀式の手順が必要なく、実生活において真の愛の幸福に酔いながら、理想的家庭を中心として暮らすことのできる真の父母と真の子女の関係です」(『平和経』274ページ)

宗教の目的は、宗教が必要のない個人、家庭、社会をつくることにほかなりません。学校に入学すれば、所定の課程を履修して卒業しなければならないのと同じように、宗教は、信仰の道への入門を強調する以上に、個々人を教育、修練しながら生活信仰者として育成し、卒業させることを、より一層重要視しなければなりません。

羅針盤の針が指し示す目的地にたどり着くために、私たちに求められる一歩が「生活信仰」です。

「生活信仰の鍛錬を通して、ために生き、投入しては、また投入する真の愛の人格がつくられてこそ、理想的な夫婦、理想的な家庭が形成されるのです。この道こそが極端な利己主義、個人主義、物質主義の惰性から抜け出し、人類に明るい未来を期待できる道です。この道こそが不倫と青少年の堕落、そして家庭破綻を防ぐ道なのです」(1994年5月1日、「世界基督教統一神霊協会」創立40周年記念式)

「アダムとエバとその子女たちは、全人類が従うことができる根本原理を生活の中で確立しなければならなかったのです」(『真の家庭と「家庭盟誓」』文庫判、142ページ)

心情文化世界を創建するために、私たちは、真の愛、真の父母思想の教育を通して人格を涵養(かんよう)し、神様の祝福のもとに真の愛の家庭を築く運動を、さらに広げていかなければなりません。正に、真のお母様が強調されたように、愛の実践を生活化させる「天寶(てんぽう)修行」の道は、羅針盤の針が示す核心とも言えます。


◆生活伝道

「生活信仰」への取り組みは、必ず「生活伝道」へと導かれることでしょう。アベルがみ言の実体として、生活圏で実践する限り、必ずカイン圏の本性に「共鳴」を起こし、心の化学反応が起きるはずです。

天一国時代の伝道は、「生活伝道」です。家族、親族、親友、同僚……、それぞれと関係を結んでいる生活圏こそが最高の伝道環境です。そこに気負いは必要ありません。み言に基づく当たり前の生活をしている限り、相手の心に本性的「共鳴」が起きてくるはずです。

アベルの「生活信仰」によって、カイン圏は、二十四時間、どんなときも、「生活伝道」の環境圏で、「真の愛の幸福に酔う生活」へと連結されていくのです。


◆生活教育

心の共鳴がつくる環境圏の中では、無意識のうちに「生活教育」が施されていきます。子が両親の姿を見ながら学びを深めるように、み言に根ざしたアベルの愛の実践生活は、カイン圏の「生活教育」へと連結されていきます。そこにはすでに、天の父母様と真の父母様が安着されていることでしょう。

天一国の文化の核心は「孝情」です。子が親の心情に生きる生活は、すなわち孝情を育む生活となります。それが成されたときには、宗教という言葉は消えていくことでしょう。

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


『み言に基づく当たり前の生活をしている限り、
相手の心に本性的「共鳴」が起きてくるはず』
この部分が印象に残りました。

本当に真の愛の実体になれば、
共鳴現象が起きるというのです。

周囲の状況に一喜一憂することなく、
あくまでも、天国人になるための道を
突き進んでいるのだ、
という自覚をもって、
歩んでいきたいと思うのです。


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2023年05月18日

人間は神様の鏡、見える神 宇宙と神羅万象は人間の家──しかし事件が 《朴普熙先生*青年よ世界を救え》



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朴普熙(パク・ポーヒ)先生の講演
『青年よ行け、そして世界を救え』より
今回は、「神の創造の目的は“喜び”」です。


皆様。皆様は、
何が一番うれしいのでしょうか?

お金でしょうか?
大学合格でしょうか?
就職でしょうか?
それも、もちろんうれしいことです。

ところが最高の喜びは、
だれかから愛される時であります。
それよりももっとうれしいことは、
だれかを愛する時であります。

皆様もそうではありませんか?
「愛する」、「愛される」、
それ以上の喜びはございません。

絶大なる喜びは、
絶大なる愛からくるものであります。
絶大なる愛が、絶大なる喜びを呼び起こすのです。

それで、喜びを求める神の本質は、
真の愛でございます。

ところが、その愛は必ず対象を要求します。
愛は一人では発動しません。

対象なくしては、いくら
愛の神様であっても喜ばれません。

皆様もそうではありませんか?
一人で、愛の喜びを感ずることができますか?
できません。

神様もそうでございます。
それで、神は人間が愛の対象として、
絶対に必要となるのでございます。

それで被造物はすべて、
神の真の愛の対象としてつくられたのであります。

人間は神の愛の直接対象としてつくられ、
そして宇宙と万物は神の
間接的対象としてつくられました。


人間は神様の鏡であります。

「GOD created man in His own image.
神は自分のかたちに人を創造された」
と、聖書にあります。

「人乃天」、人、すなわち神であります。

人間は神そのものの姿と心をもち、
神の愛の絶対なる対象となって、
神の無限なる愛を受けながら、
また無限なる喜び(JOY)を
神に返す立場でありました。

人間は“見える神”であり、
神は“見えない人間”なのでございます。

ただ違うのは神は創造主であり、
全知全能なる存在であるということであります。

これは時空を超越した偉大なる
レバレンド・ムーンの宣言でございます。


神は宇宙と森羅万象を
人間の家としておつくりになりました。

そして今、私たち人間は“神の子女”であり、
神は人類の親であります。

そして、この親子を結ぶ絆(きずな)は、
真の愛でありました。
親は子を見て、喜びたいのでございます。
人間の親子の心情そのものでございます。


また、神と人間の関係は、皆様の
心と体の関係でもはっきりします。

皆様、心がありますか?
では、皆様の心を手の平の上に
出して見てください。
それはできないでしょう。

でも、その見えない皆様の心が
皆様を司る主人であり、主体であることは、
だれも否定できません。

その心が神の立場であり、
体が人間の立場であります。

私たちの生活は、見えないエネルギー、
電気が支配しております。

私たちの体は、見えない心が支配しております。
そして、私たちの宇宙は、
見えない神様が支配しているのでございます。


もう一回申し上げます。
神の人間創造の目的は喜び、
すなわちJOYでございます。

ところが、何事かが起こったのです。
今、私たち人間は、その神の存在も知らない。
いや、そんな神はいない。
神は死んだと言っています。

これはちょうど、私たちを
生んでくださった父親、母親を側において、
「私には親なんかいない。
そんな者、あり得ない」と叫んでいるのと、
全く同じことであります。

それを聞く我が父母は、
いかに嘆き悲しむことでしょうか?
それが今の神の心情であります。

喜ぶべき神、人類の親は、
嘆き悲しむ親となりました。
親をこのような状態にしておいて、
その子女たる人類が、
幸福になれるはずがございません。

親を病床において、その前で
踊りを踊れる子がいるでしょうか?

ですから、この世は、神を
喜ぶ神にしない限りは根本的な解決はありません。
それは人間が神の喜びの対象になることでございます。

 
皆様。どうして、この世が
このようになってしまったのでしょうか?

これは歴史において
最も不可解な疑問でありました。
これを探り出した方が、ほかならぬ
レバレンド・ムーンでございます。

それをはっきりと知るためには、
私たちは神の創造と堕落の世界を
少し理解しなければなりません。

朴普熙(光言社・刊
『青年よ行け、そして世界を救え』より)
二、神の本質は真の愛
神の創造の目的は“喜び”

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=12084
青年よ行け、そして世界を救え
21世紀の青年運動への提言(5)
(Blessed Lifeより)


神様は愛の神であり、
心情の神である。。。

これは真の父母様が、
知識で理解されたのではなく、
情の世界で実感されたのでした。

神様の鏡、似姿、見える神として
創造されたはずの私たち。

喜びと期待はすべて裏切られ、
悲しみを抱えられる神様だといいます。

神と人の秘密をすべて解かれた
真の父母様が、私たちが
神に帰る道を示してくださっています。

親なる神、天の父母様を慕う
孝情をもちつつ、
私たちも天と共にさらに
幸福になっていきたいと思うのです。




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2023年05月17日

「愛」がすべてに通じる理由(わけ) 強いから勇気があるのではない 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
「何よりも神のものを愛す」より
「愛はすべてに通じる」を紹介します。

愛はすべてに通じる

私たちの誓い*の第三番を見ると、
子女と天宙をサタンに奪われたので、
これを復帰するために、父が
汗と涙と血を流すことによって
また僕として犠牲、奉仕することによって、
サタンに勝利するという誓いがあります。

これは、この世の中で敵を討つのと
全然違うのです。

理想、平和、幸福、すべての根本は愛です。
しかしサタンは、怨讐を愛することができません。
絶対にできないのです。

ですから、私たちが怨讐を愛するという
高い理想を成せば、サタンは自分ができないので、
自然屈伏する道が与えられるのです。

一方サタンも愛を願います。
高い基準の愛を与えるとサタンの世界の人々も、
すべてそこに集まってくるのです。

そうすると、神が復帰摂理の中で、
怨讐を愛するという
最高の愛を打ち出した理由がお分かりですね。

それが神とサタンの分岐点なのです。


それで、これからは、こういったみ言を
一日の生活、一週間の生活の中で
いかに生かしていくのかが、
私たちの課題になるのです。

ただ、人はたくさんの言葉を全部守るのは、
なかなか難しいのです。

だから、その中でも一番たやすいみ言を
身に付けることから始めるならば、
そんなに難しくないだろうと思います。


み言の根本は愛ですから、み言の中に
愛がいろんな形で表れているわけです。

そして結局は全部つながっていますから、
ずうっとたどっていくと、愛につながるようになります。
一つの有機体です。

植物を考えてください。
葉から枝、幹を通じて、結局は根に達します。
何事でも完全に身に付けると、
ほかのことにもそれが通じるのです。


皆さんには、勇気と愛とは
全然つながらないように見えるかもしれません。
しかし、愛するがゆえに勇気が出るのです。

勇気あるがゆえに愛に通じます。
愛のない人にどうして勇気が出るでしょうか。

勇気とは、いろいろな形で表れてきます。
強い人に対抗するのも一つの勇気ですし、
川の中で溺れている人を飛び込んで救うのも勇気です。

川の中で助けを求める子供を、
その中に飛び込んで助ける行いもそうです。

意見が合わない時に、全体のことを考えて
相手の意見を立てるのも一つの勇気といえるでしょう。

ところがそういう勇気も、愛なくしては出てきません。
子供を救うにも、その生命を愛する心なくして、
勇気は出てきません。

人の意見を立てて、自分の意見を否定していくのも、
もっと大きな目的を愛するという心があってこそ、
自分の否定もあるのです。


勇気と愛とは別々のものではなく、
その源をたどっていくと、
お互いに通じ合う世界があるのです。

謙遜な心も全部同じです。
謙遜な心ゆえに勇気をもつことができるのです。

その勇気をさらにたどっていくと、愛する心に通じます。
このようにすべては通じていくのです。

どのみ言でもいいですから、終わりまで
身に付けていくならば、すべてに通じるということです。


科学と宗教は極のものです。
論理の展開も逆です。

しかし、その極に至れば、宗教は科学に到達し、
科学は宗教に到達するのです。

ですから神に本当に通ずる人がいれば、
その人は科学的であり、科学の道を究極まで行けば、
必ず神に出会うでしょう。

すべては神の愛から始まっているからです。

自分の一番やりやすいものから始めて、
ずうっと勝利していけば、強い個性の人でも
柔らかい個性を身に付けることができると確信しています。

 
おとなしい性格の人で、人にもよく
話すことができないので、どうして人を治め
指導するリーダーになれるだろうかと
考える人がいるかもしれません。

夫婦のことを考えてみましょう。
普通、男は強いもの、女はその反対だと考えています。

しかし、いくら弱い女でも、自分の子供が
大の中にいる時にはとんでもない力が出るのです。
男よりも女の方がもっと早く助けに入っていくのです。

それは愛なるがゆえです。
愛より強い力はありません。

 
表現ができなくて、非常にソフトだから
リーダー・シップをとれないということはありえません。

愛あるがゆえに、
義ならざるものを憎む心が強いのです。
リーダーは人をリードするのですから、
愛あればこそできるというのです。

いくら強い個性を持ち、
非常にいい体格をしていても、
愛がなければ立派なリーダーにはなれません。

リーダーには二つのタイプがあります。
先生のようなリーダーと韓鶴子夫人のようなリーダーです。

例えば戦争のような非常時には、
どういうリーダーが必要でしょうか。
先生のようなリーダーです。

私はソフトだからリーダーは難しい
というのは当てはまらないことです。
しかし、私は愛の心がないから
リーダーの適格者ではないというのは当てはまります。

ただ、人を愛し、神を愛し、み旨を愛する心は、
誰もがもっているはずです。
それはリーダーをやれるということです。

 
神は人間に万物を主管しなさいというみ言を与えました。

男にだけ約束したみ言でしょうか。
個性の強い女にだけ話したみ言でしょうか。
女のような男には当てはまらないことですか。

それは誰にでも当てはまるのです。
自信がないという人は、これから
自信をつけるようにしなければいけません。

 
リーダーは時には目を開けて、
メンバ〜たちがお祈りするのを見てみるのです。
そしたら立っているのがきつくて
座る者もいるし、色々いるのが分かります。

一番面白かったのは幼稚園の日曜学校の礼拝の時でした。

先生は「お祈りしましょう」と言って
熱心にお祈りされるのですが、
子供は長いお祈りには耐えられませんし、
言葉も難しいとなかなか理解できないのです。

それで意地の悪い者でもまじめな者でも
それぞれ動いてじっとしていません。
だから、目を開けてみないと、
子供たちがどうしているのか分からないのです。

そうすればどのように生活指導していくか
という方針が出てきます。

 
パッと見てその人は気持ちがいいのか
悪いのか分かります。
心からうれしくて笑うのかどうか分かるのです。

ですからその人をよく導こうという
目的観をはっきりもって見なければいけません。

もしチームリーダーの立場に立って、
その人に話をする時には、ほかの人に
知れた場合にプラスになるのかどうなのかとか、
場所とか色々考える必要があると思いましたので話しました。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「愛はすべてに通じる」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

*「私の誓い」第三番
怨讐によって失われた子女と天宙を復帰せんがため、父は父母の心情を抱かれ僕の体を受肉し給い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流され、私の身代わりに歴史路程における怨讐サタン粉砕の武器を与えたまい、それらを完全に審判するまで父の性相を受け、真の子女私は敵陣に向かって勇進することをお誓いいたします。
(下に全文掲載)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
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文責:ten1ko2


「愛はすべてに通じる」
なるほどな、と思います。

「お父様のようなリーダーもいて、
お母様のようなリーダーもいる」
元弼先生は、そのように話されています。

しかし、お母様は、お父様がおられた時は、
お父様をお支えするような立場でしたが、
今は、物凄く強いリーダーのような気がします。

それは、神様のために、真のお父様のために、
そして私たちのためにという
とても深い愛と、強い思いがあるからでしょう。

愛が中心であり、愛を動機として、
すべてに対応する、
そんな姿勢を持ちたい、と思うのです。




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私の誓い

一、天宙の中心存在として、父の御旨(創造目的)と任せれた責任(個性完成)を全うし、喜びと栄光を帰し奉る善き子女となり、創造理想世界において永遠に父に仕え奉る真の孝子女となることを私はお誓いいたします。

二、父は六千年間供え物として十字架路程を忍ばれ、死したる私を真の子女として活かすべく、み言と人格と心情を与え一体化せしめて、天宙の相続権を与えたまわんとなさる聖なる御旨を私は受け、完全に相続することをお誓いいたします。

三、怨讐によって失われた子女と天宙を復帰せんがため、父は父母の心情を抱かれ僕の体を受肉し給い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流され、私の身代わりに歴史路程における怨讐サタン粉砕の武器を与えたまい、それらを完全に審判するまで父の性相を受け、真の子女私は敵陣に向かって勇進することをお誓いいたします。

四、父は平和と幸福と自由と理想の源泉であらせられ、父を奉る個人と家庭と社会と国家と世界と天宙は、本性の人間を通じてのみ心情一体の理想世界を完結することができ、私は真の人間となり、心情の世界において父の代身者となることによって、被造世界に平和と幸福と自由と理想をもたらし、父に喜びと満足を帰し奉る真の子女となることを私はお誓いいたします。

五、我々は神を中心とした一つの主権を誇り、一つの民を誇り、一つの国土を誇り、一つの言語と文化を誇り、一つの父母を中心とした子女となったことを誇り、一つの伝統を受け継いだ血族であることを誇り、一つの心情世界を成す役軍であることを誇り、これを実現せしめることを私はお誓いいたします。

このような義務と使命を成就せしめるため、責任をもって生命を懸けて闘うことを私は
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。
宣誓しお誓いいたします。

1962年子女の日(旧10月1日)
(マルスム選集122巻「私たちの誓い」より)

 
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