2023年05月13日

初めての訓読会は、パラグアイ川の狭い船の上だった! 《真のお母様の人生*鄭元周秘書室長》



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▲パラグアイ川を船で踏査される真の父母様
(1997年9月=U-ONE TVから)


鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長の
「真のお母様の人生」よりパンタナールの証し、
「パラグアイ川踏査の船上で
訓読会の伝統が出発」です。

【パンタナール】
パラグアイ川踏査の船上で訓読会の伝統が出発


1997年9月21日、パンタナール
(ブラジル、ボリビア、パラグアイにまたがる熱帯性の湿地帯)開拓のため、
ブラジルのカセレス(Caceres)のホテルに到着しました。
ホテルとは名ばかりの、粗末な宿でした。

その日は、翌日から始まる歴史的な
パラグアイ川踏査のための準備をする日でした。

準備の実質的な責任者はお母様です。
お父様がお使いになる物、召し上がる物、
常備薬など、全て準備なさるのです。

お母様はいつでもどんなときでも合理的に
仕事をなさり、整理整頓も完璧です。

ですから、私だったらたとえメモをしておいても
まともにできないような煩雑な仕事を、
お母様はほとんど自動的にこなしていかれるのです。

船の中はあまりにも狭く、その狭い空間の中で
全てのことをしなければなりません。

お母様は、お父様がお部屋のどこに座って勉強をされ、
トイレはどのように使われ、ということを
一つ一つ考えながら、お父様が
少しでも楽に生活できるよう準備なさいました。


翌22日からいよいよ、パラグアイ川の
最上流にあるカセレスを起点に、
パラグアイ川の踏査が始まりました。

早朝、船が出発すると同時に、
甲板や船室で訓読会が行われました。

蚊とウシバエに体のあちこちを刺されながら、
その日から1日に12時間ずつの訓読会が始まったのです。


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▲船上で行われた訓読会(1997年9月=U-ONE TVから)

踏査では、50キロメートル地点ごとに
杭を打つ作業が行われました。

真の父母様は船から下りて、虫に刺されながら
密林に分け入り、ご自身で杭を打たれました。

そして「ここは私の土地である」と宣言なさり、
写真を撮って万歳を叫ばれるのです。


この期間、羽アリのような虫が
父母様を苦しめました。

船内の床はその虫から落ちた羽が積もり、
ドアの開閉もできないほどになりました。

体を洗うのも狭い船内でしなければなりませんでした。
浄水した川の水を使うのですが、
船の設備からいって完璧な浄水は不可能でした。
ましてや、お湯などは想像だにできませんでした。


ある日、お母様が冷たい水で体を洗った後、
このように語られました。

「食口(シック/家庭連合の教会員)たちは、私が
13人の子供を生んだと思っているけれど、
実際は14人生んだのよ。

統一教会の人たちのために、
私は死ぬ覚悟をして多くの子供を生んだの。

五男と六男の間が5年離れているけれど、
その期間、3、4回、自然流産をしたの。
それは1971年から1975年までの、
お父様がアメリカに来られて最も困難な時期だった。

当時、12歳だった孝進(ヒョウジン)が
お父様を狙う人々に気づいて、
『母さん、僕があいつらを懲らしめてやろうか』
と言うほど、お父様の身辺は危うい状態にあったの。

そのような中、緊張しながらお父様に
侍っていたので、流産せざるをえなかったのよ」

そして、「そのなごりで、今も冷たい水で
シャワーを浴びると悪寒がして、
5分くらい動くことができないのよ」とおっしゃったのです。


そのようにして踏査期間を過ごされたお母様でした。

毎日薬を飲みながらも、そんなそぶりもされず、
常にお父様を喜ばせ、
安らかにしてさしあげようとなさる
お母様の精誠は最後まで変わらなかったのです。

鄭元周(チョン・ウォンヂュ)総裁秘書室長
「韓鶴子総裁還暦記念文集」第2巻に掲載(2003年)
(『TODAY'S WORLD JAPAN』2014年1月号
「証し お父様、子女様、統一家食口のために
歩んでこられたお母様の人生〈後編〉」より)

真のお母様の人生 7
お父様、子女様、統一家食口のために歩んでこられたお母様の人生
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=19500
(Blessed Lifeより)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


真夏でも、冷水でシャワーを浴びれば
悪寒が止まらない。。。
胸痛い流産のことを
きっと、つらい船上生活をともに過ごす食口たちだから、
証してくださったのでしょう。

そんなお母様が、今も、最前線で歩まれているということが、
本当に奇跡的なことであり、
どれほど大変なことでしょうか。。。

常に前を向いて歩まれるお母様に
心からの敬意と感謝の思いでいっぱいです。

ありがとうございます。
愛しています。




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2023年05月12日

「私はイライラしています」 客観的に見つめて、自らを実況中継してみると 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。
今回は、「私はイライラしている」です。

(女性 20代)

病院で介護の仕事をしています。
勤務時間が不規則で、日勤もあれば
夜勤もあり、夕勤もあります。
これがいろいろなリズムでやってきます。

夜勤は日勤の倍、神経や労力を使うので、
日勤では何も心に引っかからないことも、
夜勤のときはイライラしてしまうことが多くあります。

自己牧会プログラムを始めてからは、
思いどおりにならない患者さんに光を送って、
その人のために祈る努力をするようになりました。


私が特に囚(とら)われるのは、
私がしてあげようと思っていたのに、その前に
「やってほしい」と患者さんに言われることです。

「今やろうと思ってたんです!」と
言いたくなり、とてもイライラします。

「この患者さんとは、そりが合わないな…」
と感じる人はたいていそういう人で、
いつの間にか、「私がやろうとしているのに、
やってほしいと言って来る人」という先入観で、
その人を見ていることに気付きました。

その人の良心を心の目で見つめていくと、
その人には悪意がないということが分かります。

患者さんの良い面ではなく、
悪いところだけを見ていた自分に気付きます。

そして、この人はただそう言いたいだけだ、
こうやりたいだけだと感じ、そこに
引っかかるのは自分のこだわりだったのだと気が付くのです。


このような努力を続けていると、
仕事に追われている時、ふと
「イライラしているよね」と
自覚を取り戻す言葉が浮かんでくるようになりました。

そして、「笑顔だよ、笑顔」とか、
「よろしくね、夜勤、頑張ろうね」など、
良心からの言葉を感じ取ることが
できるようになってきたのです。

自分の思考に囚われて見た世界と違う、
神様の愛がそこかしこにある
世界の存在に気付き始めています。

私の心の中にいる神様 172
私はイライラしている
(Blessed Lifeより)
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
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文責:ten1ko2


看護師さんは本当に大変な仕事だと思います。

夜勤の時に、イライラするのも、
何となく、わかるような気もします。

患者さんも体が痛くて、精神的余裕がなく
いろいろ要求するのも、愛されたい、という
表現の一つなのかもしれません。

そういう人間同士、自分の思いに
とらわれてばかりでは、
確かにイライラが募るばかりですね。

そういう時こそ、良心の声を聞いてみる。
日ごろから、ちょっとしたことでも、
そのように心掛けていきたいと思うのです。






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2023年05月11日

迫害を通して、真の愛が育つ?! 忙しい朝に、敬拝を捧げる理由 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回は、『「真」には「自分」がない』です。 


敬礼式をする目的は、夫婦に互いに
敬礼したい心をもたせるためです。
お父様に敬礼するのは、お父様の願いではないのです。

お互いに敬礼したがる夫婦にならせたくて、
敬礼をさせたのです。

親が自分の子供にあいさつを教える時に、
お父さんにあいさつせよというのは、
お父さんが受けたくてさせるのではありません。

将来、尊敬される人間にならせたいからです。

親が子供に対して、小さいころから
よくあいさつさせる目的は、
その実体の本人にあるのです。

敬礼をよくする人が、敬礼をされる人になるからです。

ですから、御父母様への敬礼式は、
お父様が敬礼を受けることを願って
行っているのではありません。

私たちがお父様に敬礼して、お互いに敬礼する家庭、
敬礼できる自分になりたいからです。

だれと敬礼し合う心をもてば幸福ですか。
一番自分に近い人と、自分の生活圏の人とです。
自分を否定して、「ために」暮らしたがる
心をもてば、敬礼の生活なのではないでしょうか。

ですから、「自分」はありません。
主体者のために、あるいは相対者のために
「自分」はあるのです。

この心情が敬礼する心ではないでしょうか。
無責任に、敬礼だけして終わったと思わないで、
敬礼の心をもって、敬礼の心情で侍りながら暮らすのです。


ですから、夫婦が幸せになるのは簡単なのです。
自分勝手に暮らさないということです。

男性は自分の妻を喜ばせる目的で暮らし、
女性は自分の夫を喜ばせたくて暮らすのです。
お互いに全く同じです。

自分を否定して、愛だけを実現したくて
夫婦になったのです。
自分を肯定したくて夫婦になったのではないのです。

愛を絶対的に樹立するために
夫婦になったのです。
愛が中心です。


祝福家庭がこのような夫婦観、価値観をもって、
自分の存在は真の愛を樹立するためにあるという生活観を、
はっきり心に打ち立てなければなりません。

どのようにすれば、私たちの家庭に
愛を実現することができますか。
悲しみはどこで求めますか。
苦痛を通じて求めるのです。
迫害を通じて求めるのです。

葬式をしている家に行って求め、
悲しい家に行って求めるのです。

聖書には、悲しい人を愛して悲しみを求める、
憐れんで求める、とあります。
ですから、悲しみを発露するために努力しなさい。
そうすれば真になります。

迫害する家を訪ねていき、統一教会を
一番憎む人の所へ行って蔑視されましょう。
お父様の悲しみを体験しに行きましょう。

これは苦痛です。
嫌なことは苦痛でしょう?
嫌なことを求め、悲しみを求めましょう。

嫌なのは嫌だ、好きなのはいいというのは
肉心(本能や欲望的なもの)です。
肉心は苦痛を担当したがりません。
肉心は苦痛を一番嫌がります。

さあ、方法ははっきり分かりました。


統一教会の夫婦は、真は何であるか、
はっきり分かりました。

自分勝手ではない人。
自分の相対者を喜ばせるために心を込める人。

気持ちが悪いとか、嫌であるとか、不平などがない、
「自分」がない人。

愛の前には「自分」がないのです。
苦痛や悲しみの前にも、「自分」がありません。
「自分」をなくさなければ、
自分の中心に真の愛は始まりません。


家庭では、いつも子供たちを立てて、
「歌を聞きたい」と言って、歌わせます。
子供は「自分」がありません。

子供の中に、自分をなくすために
そういうことをさせます。
食事の前に、「だれか一つ歌を歌って
食事を一緒にしよう」、そのようなことを
家庭でできるだけするようにし、
自分が食べたくて食べるのではなく、
喜ばせて食べるようにします。

何かに服従して食べます。
服従する訓練です。
服従はなかなか嫌なことです。

それを、お父さんが願うのならば喜んでしたい、
というふうに、子供のころから
やらせれば、徐々に慣れていくのです。

そういうふうにしていると、気持ちが悪くないのです。
服従しても気持ちが悪くありません。
子供の時から、そうさせるのです。


お互いに自分勝手なところを見たなら、
いかに早く清算してあげるかというのが、
親の教育です。

身勝手さだけなくせば、孝行心だけ残ります。
夫婦も身勝手さだけなくせば、
愛だけが残るのです。

皆さん、自分の身勝手さだけ否定すれば、
何が残るのですか。
相手の事情だけが残ります。

自分の存在というものは、相手の心情を
喜ばせるためのものであるということを、
はっきり確認しなければなりません。


学生たちはみな、だれのために暮らしていますか。
自分の勝手に暮らしています。

ですから、このことは毎日、私が話さなくてはならないのです。
皆さんが聞きたくなくても、もう教会に来れば、
身勝手さをなくしてきましたかと尋ねなくてはなりません。

いろんな人間関係の中で、
どれほど自分を否定しながら
相手を喜ばせて暮らすかが問題です。
相手を喜ばせて暮らしましょう。

24・真理を求めよ
「真」には「自分」がない

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)

わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集しました
さらに括弧書きで注釈を加えたり、
プライバシーに関わる部分は省略等することがあります
文責:ten1ko2


真の父母様に敬礼を捧げることができる。。。
どれだけ幸せなことでしょうか。

更に言うならば、夫婦で互いに敬礼を捧げることも
本当にありがたいことだな、と感じます。

敬礼の文化は相手を貴く思い、
また、人に貴く思われるための文化なのですね。

『敬礼の心情で侍りながら暮らす』
敬礼をするたびにこの思いを忘れずに、
歩んでいきたいと思うのです。



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