金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「すべてを自分の責任とする」です。
☆
もう一つ考えてみたいことは、
世の中に起こる様々な悩み、不幸を見て、
先生はその人たちの責任と見ないで、
全部御自身の責任として見るということです。
これを私がしなければいけない
と感じ取られるのです。
私の記憶では、先生が四回目の世界一周旅行(巡回)をされ、
ヨーロッパを中心として回られた時に、
世界はもう滅びる段階にまで傾いている
と直感されました。
そこでこういう世界をどうしたらいいのか、
と大変心配されたのでした。
その時、神は「それを感ずる人が
やるべきである」と先生に教えたそうです。
☆
往々にして教会の中や社会で、いろいろと
心配なことが起こると思います。
あるいは、「あの人がこんなで困ります」とか
「このリーダーは本当に困ります」
と心配することがあります。
それをどうとらえるかも、先生が歩いて来られた道を
考えてみると、それを感じているその人自身が
責任を取らなければいけないという結論に至るのです。
私たちは人の心配をする時、ただいたずらに、
「この人はこうで、こうです」と言っていたのですが、
これからはそのようにできないと思います。
その人がそうならないように、私が
教えてやらなければいけないという
責任を感じなければいけません。
☆
そういう心をもてば、人の悪口は
なかなか言えないようになるのです。
たとえ言うにしても、まず自分の責任を
果たしてから教えなければいけません。
私たちは将来、たくさんの人たちに
間違っているところを正しく教えてあげなければなりません。
それゆえ、先生が御自身の行かれた道を
教えてくださるのは、私たちが
同じ難しい道を行って勝利すれば、それが
将来人々を教える際の教科書になるからです。
だから、人を裁くということは、
私がその人よりももっとやることによって、
自然になされていくのです。
私が人よりよくできない時には、
かえって裁かれるのです。
先生が人に弁明するよりも、実績のために
死に物狂いで苦労された理由が
どこにあるかがお分かりになったと思います。
先生はたまたま(時々)、
こうお話ししてくださいました。
☆
今はよくスリの話をされます。
今までの世では、人の物を分からないうちに
自分の物にしてきたのです。
しかし、理想世界では、それと
全く反対のことが起こるというのです。
どんなことでしょうか。
反対に分からないように人に与えるのです。
先生はこういった話を大勢の人の前よりも、
わずかな人の集まりの中でよくしてくださいました。
☆
そのように人に会ったり、メンバーに会う時には、
常に人にプラスになる言葉を考えてほしいのです。
私の今の考えが、神にプラスになるのか、
マイナスになるのかを考えなければいけません。
先生は本当に細かいところまで考えておられました。
また逆に、反対する牧師のお祈りを聞いても、
それによってもっと神に近寄るならば、
どんどん反対しなさいと考えます。
先生の考えは大きすぎるのです。
先生には、敵を討つという
恐ろしいほどに強い心があるのです。
ところがその方法は、
この世の中とは全然違います。
反対する牧師たちを厚く迎えて
み言を伝えていかれたと話しましたが、
先生に侍る食口たちに食べさせることが
できないとしても、勝利しさえすれば、
反対した人たちという敵を討ったことになるわけです。
U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「すべてを自分の責任とする」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第七章 何よりも神のものを愛す
「すべてを自分の責任とする」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
わかりやすく読んでいただくため、
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
行区切りや段落等の区切りを再編集し
括弧書きで注釈を加えることがあります
文責:ten1ko2
以前掲載した蝶野部長の記事で、
このみ言の前半が解説されています。
親は子供が何か問題を犯した時、
たとえ子供が成人であり、
子供自体が罪を犯したとしても、
「私の問題だ」と捉えるでしょう。
ある芸能人の二世が不祥事を犯した時、
「ただただ申し訳ありません。
私の責任です」と謝罪会見をしていました。
このように、自分の責任、と捉える心情を持つためには、
家族意識、主人意識をもつことが重要であると思います。
それが真の父母様の姿です。
間違っていると、誰かを非難することはできても、
それを気づいている私自身が、
そのことを自分の問題だと思って責任をもつ・・・
そのような思いを持つ、というのは、
なかなか重たい決意だな、と思います。
それが、自分の子供であれ、
上司や親であれ、たまたま目撃したことであれ、
その間違いをおかしている人は気づかなかったりするので
その人のために祈ることから
始めていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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