李ヨハネ先生のみ言。
今回は、『主体者の悲しみと共にある自分』です。
☆
聖書をもう一度読んでみてください。
イエス様の話の中にどれほど悲しみが満ちているでしょうか。
旧約聖書の「創世記」を読んでみてください。
神様の悲しみがどれほど満ちているでしょうか。
お父様の祈祷文を読んでみてください。
お父様がどれほど悔しい、悲しい心情で祈祷されたでしょうか。
☆
真を求める人は、ずっと悲しい路程を行きます。
悲しむ人を憐れみ、悲しい家庭を憐れみます。
家庭の中でだれが一番悲しむかというと、
夫人が悲しみます。
男性は自分勝手の実体です。
自分を絶対視して、相手を利用するのが男性です。
男性は、「自分がすべてである」という存在です。
女性は、その自分を一〇〇パーセント視する
男性という存在に、圧迫されて悲しんできました。
☆
ですから、家庭訪問をする時、
まず自分たちが悲しい告白をして、
相手の悲しみを求めなくてはなりません。
家庭訪問をする人は、よく聞いてください。
自分の悲しみを告白すれば、
相手の悲しみを聞くようになります。
悲しみと悲しみが合います。
日本人はあまり自分のことについては告白しません。
韓国に来た人たちの中で、三年間同じ環境で生活しながら、
相手の故郷とか、何人兄弟の何番目が
統一教会に来たのかとかを、
お互いに知らずにいた人がいました。
私が訪問して尋ねた時に、初めて聞いたということです。
☆
あなたは信仰歴は何年になりますか?
(五年です)。
五年間で先輩とか、兄弟関係で
とても親しく交流した人がいますか?
あまり告白しませんね。
新しく入教した青年たちと会った時に、
何について話すのですか。
自分を告白しないのですか。
自分が、み言を通じてどういうものを求めながら、
何を悟ったのか。
そして、それをなぜ悟り、
どういうふうに悟ったのかということを、
悔い改めなくてはならない人に証すのです。
これは、貴重な話ですが、実践は難しいのです。
☆
夫婦がお互いに嫌なところを見て、
涙がすぐ出ますか。
出ませんね。
自分の子供がちょっと悪いことをした時、
気持ち悪くなる親は多いけれども、
悲しむ親はなかなかいません。
自分の子がわがままを言って勉強をしたがらない、
起きるのも自分勝手に起きる。
そのことで泣きながら、このままいったら
この子は滅亡だ、死亡の路程だと
悲しむ親はなかなかいません。
☆
自分を否定することは、悲しみではなくなります。
主体者の悲しみと共にある自分にならなければ、
真は認められません。
負けて暮らしたくない。
勝利して暮らしたい。
その勝利の基準は何かというと、
自分の本性を誇らしくして暮らすことです。
勝利した人は自分の本性を絶対視して暮らします。
そして家庭であれば、相手を喜ばす基準を
絶対的なものとして、「ために」暮らします。
これが勝利者です。
「ために」暮らすのが勝利者です。
24・真理を求めよ
「主体者の悲しみと共にある自分」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「主体者の悲しみと共にある自分」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
ヨハネ先生も極端に表現することがたまにありますね。
「自分を絶対視して、相手を利用するのが男性です」
ちょっとこれは、断定的過ぎる表現かな、と思いますが。。。
妻が言うには、
言いすぎだ、自分はそんなことない、
ということ自体が、そのことに
気づいていないのじゃないか
ということですが(笑)。
真を求める心というのは、
主体者の悲しみを自分のものとする、
ということなのだと思います。
そして、自分の本性を絶対視して暮らす人が
勝利者である、ということ。
朝の出発から本性を中心として、
ために生きることを誓って、歩んでいく。
そんな心情で今日の一日を
出発していきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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