蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」
今回が2コマ目の最終回です。
☆
【艱難を受けた時、「父よ!私の祖先からの
過ちに対する○○(何々)・・・」
と祈れば蕩減として越えてしまう。】
というお父様のみ言がありますね。(み旨の道)
それは【蕩減を素直に受けます・・・
と祈れば越えてしまう。】ということです。
皆さんこのみ言を知ってますよね。
昔聞いたでしょう。
聞いたのですが、では、それを
どれぐらいやったかというと、
割とやっていないのです。
☆
(上のみ言の)「素直に受けます」
というのは、甘受のことです。
でも私がお話しているのは、
「甘受せよ」ということではありません。
「感謝せよ」ということなんですよ。
感謝以上のものはありません。
簡単に言えば、感謝というのは
罪滅ぼしと、蕩減と、
自分の成長を同時に出来るのです。
だから感謝だけでいいわけですね。
☆
今の時代は、蕩減という言葉がもういらないんです。
と言いながら、今日、蕩減という言葉が
無数に出てきます。
それを晴らす時には
蕩減という考え方はいらないんですけど。
だいたい我々が、知的に納得したい集団なのです。
他の宗教では、理論というのは、ほとんどありません。
「お前、聖書をとやかく言うのは
お前が迷っているからだ」と、
「まず、信じなさい」と言われるんですよ。
それを、統一食口は、納得できないので、
だから、知的に納得するために
勉強してるだけであって、
本当は感謝だけでいいのです。
☆
(「感謝」できれば、)「罪滅ぼし」は、
本当は必要ありません。
例えば、「恨んではいけない」というみ言と、
「愛しなさい」というみ言が、
昔は二つありました。
ところが「恨んではいけない」というみ言は、
もういらないでしょう。
「愛しなさい」だけで全部終わるんですよ。
穴埋めと建設が同時にできるんです。
☆
み言の中にも、実はそれが表れています。
【人生は蕩減の路程である】、
【不平をいう必要はない】(1990.11.4ベルベディア)
というのは、「我慢しなさい」
ということではないのです。
不平がいらないほど恵みなんだよということです。
不平がいらないというのは、
受ける恩恵の方が大きいということです。
私たちが苦労の中にあっても、
お父様に良心の呵責が無いのは
何でだと思います?
苦労していることを、人間的には
親の心を出して泣かれるんです。
ところが根底は、「良心の呵責はないよ」
どうしてですか?
永生の世界(霊界)において、
受ける恵みがもっと大きいことを
知っているからです。
良心と本心とその塊のようなお方が
信仰の実体のようなお方が、
私たちの心を見て胸を痛められる。
親として、胸を痛めてはくださいますが、
良心の呵責がない。
我々が受ける恵みの方が大きいというのですが、
では、なぜこんな思いをするんですか?
それは蕩減の路程だからだということなんですが。
これは先天時代、昔に語られたみ言で、
それからもう何十年も経ってますから、
今はもっと晴れやかに行くことができますね。
☆
【信仰生活に入ったならば、自分の自覚を否認してしまえ。
…天使長の血統を受け継いだそのままの目玉だよ。
だからみんな取り消してしまえ。
…だから信仰生活においては文句を言うな。
…不平を言うのは、神を責めることだ。
…不平を言うな。
感謝せよ。
黙々と行かなければならない。】(我らはなぜ苦労しなければならないのか
1972年9月11日水澤里)
【信仰生活に入ったならば、
自分の自覚を否認してしまえ。】
否認。だからもう、完全自己否定です。
☆
これからの時代も、完全自己否定ですよ。
原理は絶対に変わりません。
新しい原理観とか古い原理観
というのは絶対にないです。
原理は変わらないんですね。
ただ時代として蕩減していくもの、
そして、作っていくもの、という
時代が変わるので、教育の表現が変わるだけなのです。
昔だって完全自己否定の世界なんですが、
「感謝していく」ということは言われておりました。
☆
【感謝せよ。】
なんとこれは、お父様は同義語で語られてます。
矢印しているように、「自分の自覚を否認する」
ということと「感謝」は同義語なんですよ。
ところが、「自分の思いは、はい捨てました。
もう0になります。
何でも言う事を聞きます」という、
自分をなくすことが自己否定でもあるのですが…。
それだとですね、次に、「人を愛しなさい」
と言われた時に「どうしたらいいですか」
「どうやったらいいんですか」
という人になるんですよ。
成長がないんですね。
人の言うことを聞く信仰は作ったんだけど、
いざ自分が人を愛する時、
神様の心で人を愛していくときに、
「どうしたらいいんですか、マニュアルをください」
という空っぽの人になってしまう。
だから自己否定というのは、
自分が原理的に成長して、
完成していくことが自己否定なんですね。
ところがこの自分を否定する作業のところだけを、
私たちがフォーカスしてしまうと、
いざ自分がやる時にわからなくなる。
☆
実は、感謝する。
感謝すると心が作られます。
だから結論を言います。
「感謝すると、自己否定になる」という事です。
なぜですか?
神様に感謝してるのですから、
その蕩減を教えてくれた自分の相手に
感謝するのです。
☆
ありがとう。
ありがとうございます。
ちょっとムカムカときていてもいいですよ、
言葉で「ありがとうございます、
ありがとうございます。」
心で何か思ってもいいんですよ。
また思いが出てきても、
「ありがとうございます」
そこからなんです。
完全自己否定です。
グーッと我慢するのは、大変なことです。
次のコマは、「感謝せよ」と言っても
感謝できないことがある、
それをどのように感謝していくか
ということも含めてお話ししていきたいと思います。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
自己否定を受けた時、
感謝することができない時があります。
そんな自分に対して、
なんて傲慢なんだろう、と思います。
感謝できないという思いに、なかなか
打ち勝つことができず、
自分の弱さを痛感することがあるのです。
まな板の上の鯉(こい)の状態でも、
イサクが父親アブラハムの言う通り
素直に供え物になっていったように、
委ねていくことができれば、
そして、感謝していくことができれば
確かに問題はないでしょう。
考えてみれば、イサクがアブラハムに対し
委ねていくことができたのは、父を信じ
愛していたからに違いありません。
愛して一つになっていれば
感謝できるし、
越えられないことはないと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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