2023年06月07日

「蕩減」はもういらない?! 罪滅ぼしと同時に自分も成長できる 《蝶野部長*精誠篇2》終I



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蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の 
「精誠篇(せいせいへん)
今回が2コマ目の最終回です。


【艱難を受けた時、「父よ!私の祖先からの
過ちに対する○○(何々)・・・」
と祈れば蕩減として越えてしまう。】

というお父様のみ言がありますね。(み旨の道)

それは【蕩減を素直に受けます・・・
と祈れば越えてしまう。】ということです。

皆さんこのみ言を知ってますよね。
昔聞いたでしょう。

聞いたのですが、では、それを
どれぐらいやったかというと、
割とやっていないのです。


(上のみ言の)「素直に受けます」
というのは、甘受のことです。

でも私がお話しているのは、
「甘受せよ」ということではありません。
「感謝せよ」ということなんですよ。

感謝以上のものはありません。

簡単に言えば、感謝というのは
罪滅ぼしと、蕩減と、
自分の成長を同時に出来るのです。

だから感謝だけでいいわけですね。


今の時代は、蕩減という言葉がもういらないんです。
と言いながら、今日、蕩減という言葉が
無数に出てきます。

それを晴らす時には
蕩減という考え方はいらないんですけど。

だいたい我々が、知的に納得したい集団なのです。
他の宗教では、理論というのは、ほとんどありません。

「お前、聖書をとやかく言うのは
お前が迷っているからだ」と、
「まず、信じなさい」と言われるんですよ。

それを、統一食口は、納得できないので、
だから、知的に納得するために
勉強してるだけであって、
本当は感謝だけでいいのです。


(「感謝」できれば、)「罪滅ぼし」は、
本当は必要ありません。

例えば、「恨んではいけない」というみ言と、
「愛しなさい」というみ言が、
昔は二つありました。

ところが「恨んではいけない」というみ言は、
もういらないでしょう。
「愛しなさい」だけで全部終わるんですよ。

穴埋めと建設が同時にできるんです。


み言の中にも、実はそれが表れています。

【人生は蕩減の路程である】、
【不平をいう必要はない】(1990.11.4ベルベディア)
というのは、「我慢しなさい」
ということではないのです。

不平がいらないほど恵みなんだよということです。
不平がいらないというのは、
受ける恩恵の方が大きいということです。

私たちが苦労の中にあっても、
お父様に良心の呵責が無いのは
何でだと思います?

苦労していることを、人間的には
親の心を出して泣かれるんです。

ところが根底は、「良心の呵責はないよ」
どうしてですか?

永生の世界(霊界)において、
受ける恵みがもっと大きいことを
知っているからです。

良心と本心とその塊のようなお方が
信仰の実体のようなお方が、
私たちの心を見て胸を痛められる。
親として、胸を痛めてはくださいますが、
良心の呵責がない。

我々が受ける恵みの方が大きいというのですが、
では、なぜこんな思いをするんですか?
それは蕩減の路程だからだということなんですが。

これは先天時代、昔に語られたみ言で、
それからもう何十年も経ってますから、
今はもっと晴れやかに行くことができますね。


【信仰生活に入ったならば、自分の自覚を否認してしまえ。
 …天使長の血統を受け継いだそのままの目玉だよ。
 だからみんな取り消してしまえ。
 …だから信仰生活においては文句を言うな。
 …不平を言うのは、神を責めることだ。
 …不平を言うな。
 感謝せよ。
 黙々と行かなければならない。】
(我らはなぜ苦労しなければならないのか 
1972年9月11日水澤里)


【信仰生活に入ったならば、
自分の自覚を否認してしまえ。】
否認。だからもう、完全自己否定です。


これからの時代も、完全自己否定ですよ。
原理は絶対に変わりません。

新しい原理観とか古い原理観
というのは絶対にないです。
原理は変わらないんですね。

ただ時代として蕩減していくもの、
そして、作っていくもの、という
時代が変わるので、教育の表現が変わるだけなのです。

昔だって完全自己否定の世界なんですが、
「感謝していく」ということは言われておりました。


【感謝せよ。】

なんとこれは、お父様は同義語で語られてます。
矢印しているように、「自分の自覚を否認する」
ということと「感謝」は同義語なんですよ。

ところが、「自分の思いは、はい捨てました。
もう0になります。
何でも言う事を聞きます」という、
自分をなくすことが自己否定でもあるのですが…。

それだとですね、次に、「人を愛しなさい」
と言われた時に「どうしたらいいですか」
「どうやったらいいんですか」
という人になるんですよ。
成長がないんですね。

人の言うことを聞く信仰は作ったんだけど、
いざ自分が人を愛する時、
神様の心で人を愛していくときに、
「どうしたらいいんですか、マニュアルをください」
という空っぽの人になってしまう。

だから自己否定というのは、
自分が原理的に成長して、
完成していくことが自己否定なんですね。

ところがこの自分を否定する作業のところだけを、
私たちがフォーカスしてしまうと、
いざ自分がやる時にわからなくなる。


実は、感謝する。
感謝すると心が作られます。

だから結論を言います。
「感謝すると、自己否定になる」という事です。

なぜですか?
神様に感謝してるのですから、
その蕩減を教えてくれた自分の相手に
感謝するのです。


ありがとう。
ありがとうございます。

ちょっとムカムカときていてもいいですよ、
言葉で「ありがとうございます、
ありがとうございます。」

心で何か思ってもいいんですよ。
また思いが出てきても、
「ありがとうございます」
そこからなんです。

完全自己否定です。
グーッと我慢するのは、大変なことです。

次のコマは、「感謝せよ」と言っても
感謝できないことがある、
それをどのように感謝していくか
ということも含めてお話ししていきたいと思います。

蝶野知徳・精誠篇2 

父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


自己否定を受けた時、
感謝することができない時があります。

そんな自分に対して、
なんて傲慢なんだろう、と思います。

感謝できないという思いに、なかなか
打ち勝つことができず、
自分の弱さを痛感することがあるのです。

まな板の上の鯉(こい)の状態でも、
イサクが父親アブラハムの言う通り
素直に供え物になっていったように、
委ねていくことができれば、
そして、感謝していくことができれば
確かに問題はないでしょう。

考えてみれば、イサクがアブラハムに対し
委ねていくことができたのは、父を信じ
愛していたからに違いありません。

愛して一つになっていれば
感謝できるし、
越えられないことはないと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする