2023年06月15日

無念でしかない 神にとって歴史上、最大最悪の事件は・・・ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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「信仰と生活」に続き、李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
説教集2より、紹介します。
説教題目は、「復帰摂理の恨(ハン)」です。

「恨」というのは、日本語にはない表現であり、
怨恨とは少し違います。

無念で仕方がない、悲しみに打ちひしがれた
そんな思いとでも言いましょうか・・・

神の恨がこもった事件の数々

創世記第三章に、アダムとエバの堕落によって、
神の恨(ハン)がこもったまま
人類歴史が始まったと示されていることを、
私たちは知っています。

それで神は、人間始祖が結んだこの怨恨を、
後孫において信仰の人物たちを立てて、
彼らを通じて再び解怨なさろうとする復帰摂理を、
繰り返してこられたということも私たちは知っています。

要するに、きょうは「復帰摂理の恨」という題目で、
アダム家庭で結ばれた恨を根拠として、
私たちがどのように生きることによって
神の恨を解くことができるのかという
解答を探し求めてみようと思います。


復帰摂理をなさる神は、恨が多い方です。

私たちの信仰が幼いときは、神は神聖であられ、
全知全能であられ、生命の主体になられ、
生死と禍福を主管なさる神であられる
とだけ思っていました。

しかし、分かってみますと
神は、人間の責任完遂と合わせて
願いを成就なさろうとしたのに、
人間の堕落のゆえにみ旨を成就なさることができず、
悲しんでおられる方なのです。

ですから、神は、信仰の人物を探し求めて、
創造目的をこの地に成就なさらなければならないという
恨の歴史を始めざるを得なかったというのです。

人類歴史には、このような神の恨が多くある
ということを私たちは知っています。


本論に入るならば、復帰摂理の中心人物たちが
信仰基台と実体基台を造成することによって、
神が地上に降臨なさろうとしたのです。

すなわち、信仰基台を成した人物が出てきて
実体基台まで成すならば、初めてメシヤが来られて、
この地上に神の創造目的を成就されるというのです。

このような原則がすべての信仰の人物を探し求めて
立てるたびに、歴史的に繰り返して適用されてきたのです。

人類の始祖であるエバが「するな」
ということを行うことによって
神を悲しませたのと同じく、
今日、多くの信仰者たちが「信じる」と
言いながらも、み言を実践することができずに
神を悲しませている事実を私たちはよく知っています。


それで、復帰摂理の初期には、
信じることが難しいので神はその代わりとして
ある条件物(祭物)を立ててサタンを分立し、
神の対象になることができるようになさいました。

すなわち、人間がその条件物に対する責任さえ
完遂するならば、神は
相対してくださろうとなさったというのです。

そのような責任を人間に任せましたが、
人間は、その責任を忠心から
完遂することができませんでした。
うわべだけでしたのです。

祭物をささげる忠心が、
天の願われる心ではありませんでした。

 
初めの事件の失敗によって再び立てられた
信仰の人物たちでしたが、
彼らに賦課された責任を真実に完遂しなかった
ということを、私たちは知っています。

祭物をささげたのちに神は、
愛するアベルとカインが一つになることを
願われたのですが、一つになれなかった事件も
やはり、カインの内的姿勢が十分に整えられなかったからです。


歴史的に見るならば、神は愛する人物を
探し求めてくださいましたが、人々が
その人物と一つになれなかった悲しい事実が
たくさんあるということを、私たちは知っています。

エバの不信事件も大きく冤痛しなければ
ならないことでしたが、カイン、アベルの
不和によって起こった事件もやはり、
神をもっと恨みに満たした一つの事件でした。

アダム家庭であったこのようなことが、
歴史が流れながらも繰り返されてきました。

そして氏族的に、また、民族的に拡大され、
イエス様の時代を経て私たちの時代に至っても
そのようなことが起こっているのです。

このようにアダム家庭で起こった事件を
解決していかなければならない問題が、
私たちに残されているということを知らなければなりません。

一九七九年八月、韓国本部教会

信仰生活シリーズ 3
聖書の中の心情圏  李耀翰
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U復帰の恨
復帰摂理の恨
再編集 文責:ten1ko2


(ハン)の神様。。。
神様が恨みを持たれてきたというのは、
真の父母様が初めて解き明かされたのではないでしょうか。

神様は、人類歴史を導いてこられました。
信じては裏切られ、また信じて・・・
結局は、忍耐するしかなかった神様でした。

私たちの人生においても様々な恨があります。
いや、それは、もしかしたら「恨」というよりは、
「怨」という字での怨(うら)みに
なってしまっているのかも知れません。

ヨハネ先生のみ言を通して、
少しでも神様の恨を解けるような
歩みをしていきたいと思います。




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posted by ten1ko2 at 07:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする