李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「復帰摂理の恨(ハン)」の続きです。
☆
解怨の最初の段階――み言の人として復活する
今、私たちの悩みとして、
み言の実体になれないということ、
み言の生命を復活させることが難しい
ということがあります。
ですから、いかにエバが「取って食べてはならない」
という戒めを守ることが難しかったか
ということが分かります。
エバがその戒めを守ることが難しかったのと同じく、
私たちもみ言を守ることが難しいというのです。
どれだけみ言の実体になろうと思っても、
やはり人は変わらずにいる
ということを私たちはよく感じています。
☆
イスラエルの人たちが自分たちを称して
選民だと言いましたが、
神の息子であられるイエス様を
分からなかった理由はどこにあるのでしょうか。
それは真心から条件を立てて、
神が相対してくださることができるようにしたのではなく、
うわべだけでみ言をとらえたからです。
真心から信仰したのではなく形式的に信仰をしたのです。
生まれ変わることができなかったので、
真の人を見ても分からず、
感じることができなかったのです。
情と情の交流があり、情と情が相通じる、
これが真なのですが、彼らには
このようなことがなかったのです。
何か心からにじみ出てくるものを
はぐくむような生活は、真を照らすことが
できる生活だと見ることができます。
☆
聖書に、真を帯びた人という
称賛を受けた内容があります。
ベタニヤのマリヤに対する記録がそれです。
過越の祭の日の夜に訪ねてこられたイエス様が
何の表示をもなさいませんでしたが、
ベタニヤのマリヤは三百デナリの香油を
イエス様の足に注ぎ、痛哭しました。
その女性は、真をもった人でした。
本当に復活した人であったので、
イエス様の福音が伝えられる所で
永遠に記念として語られると、
イエス様が言われたことも理解することができます。
み言が生命たる人、み言が心情たる人は、
真と通じるということを聖書は、
マリヤを通して見せてくれています。
☆
今日、私たち食口の間に和睦がなされない理由は、
み言の生命をもつことができないからです。
少しでもみ言の生命をもつ人たちがいるとすれば、
許し、哀れみを施すのですが、
双方が全く同じですから、
盲目のもみ合いと同じく不和が生じるのです。
み言の生命をもつ人たちの間には、
不和があるはずがないのです。
☆
同じくイエス様が迫害する群れに対して
何も語られなかったのは、
彼らは選民とは名ばかりで、実情は、
み言の生命をもつことができない
死んだ群れであったからであると想像することができます。
このように私たちも、
形式的にみ言を信じるということはできても、
み言の生命をもつことは難しいのです。
神の一番目の恨は、人間が
形式的にみ言を聞いたという恨なのです。
「羊をささげなさい」、
「十一条献金をしなさい」、
「父の日を守りなさい」などのみ言を
真心から行わずに、すべて形式的に行ったことが
神の恨になったのです。
形式的にみ言をとらえたので、
そのみ言を守った条件によって
探し求めなければならない実体、生命は
探し求めることができなかったのです。
これがまさしく神の恨だということを、
皆さんは肝に銘じなければなりません。
☆
きょう、礼拝に来た人は多くいます。
しかし、忠心から感激してこそ
神が語りたくて語られるみ言を
十分に受け入れることができ、
神が相対してくださるのです。
ところが、心情的な刺激を受け、
自分を探し出す人が果たして何人いるでしょうか。
歴史を通してみても、おなかがすけば
一日に三回御飯を食べなければならないとは思えても、
心情を刺激させるために、
心情の飢えを満たすために専念することはできない、
形式的な群れが多いことを私たちは自認せざるを得ません。
それゆえに神の怨恨をどこから解いて
喜びをお返しするのかという問題は、
み言で自分の心情を復活させるところから
解かれるという結論を下すことができるのです。
☆
イエス様がこの地に来られて
心苦しくならざるを得なかったのは、
イエス様は、神の怨恨を解かれ、
神の人として行動されているのに、
律法を守ると公言している人々の群れが
イエス様を指して潜越であり、
偽り多いと迫害したからだったのです。
すべての律法を通じて真心をもった人であれば、
真のみ言によって宗教儀式を行ったはずであり、
忠心をもった人であれば、律法の実体であられる
イエス様にお会いするだけでも
尊敬する心がにじみ出てきたはずです。
み言の心情をもった人、生きた心をもった人は、
不法を行う人を見れば、哀れみの心が生じ、
真なる人を見れば、
限りなく尊敬する心がにじみ出てくるのです。
☆
今日、私たちは、このような自分になるために
生活の中で怠ることなくみ言の生命、
み言の心情をもって生きようと
試みていかなければなりません。
このような私たちになるとき、
ここから神の恨は、解かれ始めるのです。
一九七九年八月、韓国本部教会
信仰生活シリーズ 3
聖書の中の心情圏 李耀翰
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U復帰の恨
復帰摂理の恨
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☆
再編集 文責:ten1ko2
イエス様が語られたみ言は、
神様が語られるみ言と同じです。
そのことをどれだけの人が
理解されていたのか、
それが問題だというのです。
み言を心情的に深く受け止める
私たちにならなければ、と思わされます。
今、お母様がこの地におられ、
み言を語られています。
それは、神様がお母さまを通して、
今の時にふさわしいみ言を語られているのです。
お父様と語られている内容が違う、
と批判される人もいます。
しかし、改めてお伝えしますが、
今の時に神様がお母様を通して、
語られているのです。
それが神様を解放する道であると思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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