2023年06月24日

わかっていてもできない! み言の実体になれない私たち 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「復帰摂理の恨(ハン)」の続きです。


解怨の最初の段階――み言の人として復活する

今、私たちの悩みとして、
み言の実体になれないということ、
み言の生命を復活させることが難しい
ということがあります。

ですから、いかにエバが「取って食べてはならない」
という戒めを守ることが難しかったか
ということが分かります。

エバがその戒めを守ることが難しかったのと同じく、
私たちもみ言を守ることが難しいというのです。

どれだけみ言の実体になろうと思っても、
やはり人は変わらずにいる
ということを私たちはよく感じています。


イスラエルの人たちが自分たちを称して
選民だと言いましたが、
神の息子であられるイエス様を
分からなかった理由はどこにあるのでしょうか。

それは真心から条件を立てて、
神が相対してくださることができるようにしたのではなく、
うわべだけでみ言をとらえたからです。

真心から信仰したのではなく形式的に信仰をしたのです。
生まれ変わることができなかったので、
真の人を見ても分からず、
感じることができなかったのです。

情と情の交流があり、情と情が相通じる、
これが真なのですが、彼らには
このようなことがなかったのです。

何か心からにじみ出てくるものを
はぐくむような生活は、真を照らすことが
できる生活だと見ることができます。

 
聖書に、真を帯びた人という
称賛を受けた内容があります。
ベタニヤのマリヤに対する記録がそれです。

過越の祭の日の夜に訪ねてこられたイエス様が
何の表示をもなさいませんでしたが、
ベタニヤのマリヤは三百デナリの香油を
イエス様の足に注ぎ、痛哭しました。

その女性は、真をもった人でした。
本当に復活した人であったので、
イエス様の福音が伝えられる所で
永遠に記念として語られると、
イエス様が言われたことも理解することができます。

み言が生命たる人、み言が心情たる人は、
真と通じるということを聖書は、
マリヤを通して見せてくれています。

 
今日、私たち食口の間に和睦がなされない理由は、
み言の生命をもつことができないからです。

少しでもみ言の生命をもつ人たちがいるとすれば、
許し、哀れみを施すのですが、
双方が全く同じですから、
盲目のもみ合いと同じく不和が生じるのです。

み言の生命をもつ人たちの間には、
不和があるはずがないのです。


同じくイエス様が迫害する群れに対して
何も語られなかったのは、
彼らは選民とは名ばかりで、実情は、
み言の生命をもつことができない
死んだ群れであったからであると想像することができます。

このように私たちも、
形式的にみ言を信じるということはできても、
み言の生命をもつことは難しいのです。

神の一番目の恨は、人間が
形式的にみ言を聞いたという恨なのです。

「羊をささげなさい」、
「十一条献金をしなさい」、
「父の日を守りなさい」などのみ言を
真心から行わずに、すべて形式的に行ったことが
神の恨になったのです。

形式的にみ言をとらえたので、
そのみ言を守った条件によって
探し求めなければならない実体、生命は
探し求めることができなかったのです。

これがまさしく神の恨だということを、
皆さんは肝に銘じなければなりません。

 
きょう、礼拝に来た人は多くいます。
しかし、忠心から感激してこそ
神が語りたくて語られるみ言を
十分に受け入れることができ、
神が相対してくださるのです。

ところが、心情的な刺激を受け、
自分を探し出す人が果たして何人いるでしょうか。

歴史を通してみても、おなかがすけば
一日に三回御飯を食べなければならないとは思えても、
心情を刺激させるために、
心情の飢えを満たすために専念することはできない、
形式的な群れが多いことを私たちは自認せざるを得ません。

それゆえに神の怨恨をどこから解いて
喜びをお返しするのかという問題は、
み言で自分の心情を復活させるところから
解かれるという結論を下すことができるのです。


イエス様がこの地に来られて
心苦しくならざるを得なかったのは、
イエス様は、神の怨恨を解かれ、
神の人として行動されているのに、
律法を守ると公言している人々の群れが
イエス様を指して潜越であり、
偽り多いと迫害したからだったのです。

すべての律法を通じて真心をもった人であれば、
真のみ言によって宗教儀式を行ったはずであり、
忠心をもった人であれば、律法の実体であられる
イエス様にお会いするだけでも
尊敬する心がにじみ出てきたはずです。

み言の心情をもった人、生きた心をもった人は、
不法を行う人を見れば、哀れみの心が生じ、
真なる人を見れば、
限りなく尊敬する心がにじみ出てくるのです。


今日、私たちは、このような自分になるために
生活の中で怠ることなくみ言の生命、
み言の心情をもって生きようと
試みていかなければなりません。

このような私たちになるとき、
ここから神の恨は、解かれ始めるのです。

一九七九年八月、韓国本部教会

信仰生活シリーズ 3
聖書の中の心情圏  李耀翰
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U復帰の恨
復帰摂理の恨
再編集 文責:ten1ko2


イエス様が語られたみ言は、
神様が語られるみ言と同じです。
そのことをどれだけの人が
理解されていたのか、
それが問題だというのです。

み言を心情的に深く受け止める
私たちにならなければ、と思わされます。

今、お母様がこの地におられ、
み言を語られています。

それは、神様がお母さまを通して、
今の時にふさわしいみ言を語られているのです。

お父様と語られている内容が違う、
と批判される人もいます。

しかし、改めてお伝えしますが、
今の時に神様がお母様を通して、
語られているのです。

それが神様を解放する道であると思うのです。


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posted by ten1ko2 at 08:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする