2023年07月25日

悩んでばかりいないで 難しい時は、神様と人に相談 「先生もそうやっているんだ」 《金元弼先生》



211010Kim-Won-pil.png


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。
『何よりも神のものを愛す』から
今回は、「祈って相談して問題を解決」です。

 
自分でやってできない時には、苦しんで、
「どうしたらいいか」と言わないで、
ほかの人から情報をどんどん聞き、習うようにしなさい。

(文鮮明)先生が世界巡回に出られる時に、
私は韓国で留守番をすることになりました。

先生がおっしゃったことは
「難しいことがあれば、神に祈りなさい」
そして「誰々と相談してやっていきなさい」
ということで、様々教えてくださいました。

「先生もそのようにやっているんだ」
とおっしゃいました。

  
いつも皆様は、自分一人だと考えてはいけません。

自分がいるということは、
上がいるのであり下がいるのです。
左がいるし右がいます。
前にいるし後ろにもいます。

自分一人でいるのではないのです。
自分はそういう関係の中心にいるのです。

自分のアベルは誰か、自分の下は誰か、
お互いに協力し合う横的関係は誰と誰か。

前というのは未来であり私の子孫になります。
そして私の後ろが過去であり先祖です。

いつも自分の上下、前後、左右は
何か知っていてください。

 
自分の位置を離れたことが堕落なのでしたか 
これから神や教会長が、どんどん体制を
作り変えていくことでしょうから、
そういう問題も徐々に取り除かれていくと思います。

私がある人に何かをさせるとすれば、
させただけで終わってはいけません。

私が言ったことをその人が全部し終わったのか
どうかを確認しなければなりません。

そうすれば、「ああ、リーダーが関心をもって、
分かってくれた」と思い、気持ちがいいのです。

ところが、「こうしなさい」と言ってから、
一週間たっても、二週間たっても聞こうとしないとすると、
私は何のためにやったのか、とやりがいを
全然感じなくなり、やる気をなくします。

 
頼んだ後ですぐ、「どうなったのか」、
夜になって、「どうなったのか」、
朝になって、「どうなったの」と聞くと、
頼まれた人も、これは早くしなければ
いけないと考えるようになるのです。

そしてやり終わったときに、
「ああ、よくやったぞ」と言って褒めてやるのです。

ところが、何も言わず黙っていたら、
そんなに忙しいものではなさそうだな
と思ってゆっくりやるのです。

その上、やり終わっても何も言わないと
心が寂しいのです。

 
私が絵を描いていていつまでも帰らない時に、
先生がずっと待っていてくださるのを見たら、
“もっとやらなければいけないなあ”と思ったのです。

それで遅れる時には、先生が心配しておられるので、
電話ででも何ででも早く
報告しなければいけないなあという心が出てきます。

黙っていると、メンバーは遅れても
何も報告しなくなります。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「祈って相談して問題を解決」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

再編集 文責:ten1ko2


神様と一つになっているお父様も、
「誰々と相談してやっていきなさい」
「先生もそのようにやっているんだ」
ということなんですね。。。

もちろん、神様に祈られることが
大前提なのだと思います。

今は、天心苑祈祷室があり、
懇切に祈れば、必ず天が答えを下さる、
そのような時を迎えています。

実際、清平の地においては、
毎日、徹夜祈祷会が行われています。

そこで李基誠苑長を中心に、
懇切に祈りをささげています。
その祈りを天は聞かないはずはないと思います。

清平に連結して、私たちも
懇切に祈りを捧げていきたいと思うのです。




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2023年07月24日

チーフの「心のリズム」を知って、よい補佐ができました! 《自己牧会プログラム》



230724-kimi.jpg


自己牧会プログラムの体験談。 
「心のリズム」です。

(女性・祝福二世 20代)

修練会の食当(食事担当)を務める機会がありました。
私はチーフを補佐する立場でした。
 
参加者の多い修練会で、チーフが
プレッシャーを感じているのが分かりました。

私は心から支えたい思いで、積極的に
気が付いたことをどんどんやるのですが、
チーフは「休んでいていいよ」と言ったり、
私の目から見て必要な仕事とは
別の仕事を振ってきたり、はたまた
特に指示がなかったりという時もありました。

「これ、やりましょうか」と尋ねると、
「ううん、やらなくて大丈夫」と返事があり、
尋ねずにやると、「ああ、ごめんね、
申し訳ないね」と遠慮されるのです。

これで良いのだろうか。
ちゃんと時間どおりに料理はできているし、
個人として調理は好きだし、
配慮してくれるチーフの優しさを感じながらも、
心にギクシャクしたものを感じていました。

 
心から一つになりたいと思っていたので、
「思いどおりでなくても大丈夫」
「真の愛を中心として、父母の立場で
正しく見させてください」と心に唱えて、
今の状態を捉え直してみました。

見えてきたのは、チーフにも
心のリズムがあるということです。

私が良かれと思って手伝うと、
仕事は進むかもしれないけれど、
責任感の強いチーフの心には、
「これもやってもらってしまった」
という負債感みたいなものが残り、
それを苦しいと感じているのだと分かりました。

私なら全く気にしないことだけれど、
チーフは自分とは違うペースやイメージで
過ごしているのだなと理解できました。

このチーフのもとでは、「休んでいて」
と言われたら存分に休んでいていいんだ、
その時間は音楽でも聞いて楽しく過ごして、
「これやって」と言われたら、
心からの笑顔と喜びで作業しようと思って、
心がスッキリしました。

 
終わった後、「よく支えてくれてありがとう、
本当に助かりました」と言ってくださいました。

「支える」というと、全力で、一糸乱れぬ
チームワークで…というイメージがあったのですが、
今回はそんな雰囲気は全くなく、
むしろ休み休み、力を抜いてやっていました。

それなのにこんなに喜んでもらえるなら、
これで良かったんだ、これも天国だなと思いました。

この発見が、今回頂いた大きな恩恵です。

私の心の中にいる神様 183
心のリズム
再編集 文責:ten1ko2


チームワーク、
とても重要です。

先回、『働きアリの法則』について、
紹介させていただきましたが、
とてもたくさんの反響がありました。

自然においても、チームワークを見事にしていることを思うと、
私たちも心を合わせると、一つになることができます。

やはり、良心を中心とすることが
大事なのだな、と思います。


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2023年07月23日

一言では語れない、日韓の違い── 日本の美徳、韓国の誇り 《阿部先生》



230723.jpg


阿部先生が、U-ONE TV(YouTube)において、
「韓国と日本の文化の違い」について解説しています。
第1回目は、『愛の文化と美の文化』です。


韓国と日本の文化の違いを教えてください
という質問に対して、
何回かに分けてお答えいたします。

韓国と日本は似ている面もありますが、
違う面も多くあります。

韓国と日本の文化を比較して、
両国の良い点を探してみたいと思います。

第1回は愛の文化と美の文化です。


日本の父の日・母の日や、韓国の父母の日には、
どちらも感謝の気持ちを込めて、カーネーションなどを渡しますが、
その時に伝える言葉が違います。

日本は「お父さん、ありがとう」
「お母さん、ありがとう」などであり、
韓国は、「アボジ、オモニ、サランヘヨ」
「お父さん、お母さん、愛してます」なのです。

韓国は主体*の(能動的な)立場に立って、
愛を表現する、愛の文化と言われます。

韓国人がよく使う、「サランヘヨ」は、
自分が下に立って愛を表現する言葉です。
たとえ幼い子供であっても、
主体に立って愛を表現します。

それに対して日本は、対象*の(受け身的な)
立場に立って、美を表現することが多く、
美の文化と言われます。

日本人がよく使う、「ありがとう」は、
自分が対象に立って受けた愛に対して
美を返す言葉です。

このように一言で言えば、韓国は愛の国、
日本は美の国と言えます。


また韓国は主体的(能動的)な表現が多いですが、
日本語は対象的(受動的)な表現が多いのです。

例えば、「いただきます」は
もらうの謙譲語の「いただく」という言葉、
「ごちそうさま」も相手に感謝するような、
受け身的立場で表現します。

一方、韓国語では「チャルモッケスムニダ=よく食べます」
「チャルモゴッスムニダ=よく食べました」と
あくまでも主体的立場で表現します。


また韓国企業のコマーシャルでは「自尊心」、
「プライド」という言葉がよく使われます。

例えば、「民族の自尊心、現代自動車」という表現です。

一方、日本は謙遜、謙虚な姿勢こそ美徳と考えますから、
お客様は神様です、という姿勢で、
「日頃のご愛顧にお応えして」「愛されて50年」
などと言いながら、受け身になって、最善を尽くそうとするのです。

これらを見ても韓国人は、男性的な主体意識が強く、
日本人は女性的な対象意識が強い傾向性があることがわかります。


贈り物に対する認識の違いもあります。
韓国人は下着をプレゼントすることが多いです。

贈り物として一番好んで送るのが、身につけるものであり、
人が直接肌身につける下着は、近い関係において親愛の情を示します。

また韓国人は送る主体の「贈ろう」という情が重要なのです。
韓国では本当に必要なものを送らないと意味がない、
と考えるわけですが、その判断はどこまでも送る主体の主観の話で
自分が相手のためだと思うものをどんどん送ろうとします。

韓国ではものではなく、情を与えるのです。
韓国では与えることについて、
遠慮することはマイナスにしかなりません。

日本人は物にこだわってしまう上、
主体である相手の出方に自分が合わせようとするので、
自分の主体的な情よりも、もらう相手がどう考えるだろうか
という方により関心を置きます。

このように主体側の情を大切にする韓国と
相手の情を配慮する日本の違いがあります。


韓国の表現はチマチョゴリの原色の美しさのようにわかりやすく
純粋で原色的な自己表現です。

日本はそれに比べると
消極的な謙虚な美の世界なのかもしれません

韓国人の先に与えること、多くは与えることという
韓国人の情の世界が、日本人には
新鮮であると同時に相続したい文化です。

しかし主体的な愛と対象的な美は、
どちらが良いか悪いかではなく、
夫婦がペアで一つであるように
互いに調和したら、素晴らしい文化となるでしょう。

【ほぼ5・人生相談】第144回
「韓国と日本の文化の違いについて教えてください
@愛の文化と美の文化」
U-ONE TVhttps://www.youtube.com/watch?v=srtQwcnPzsc
主体・対象、主体的・対象的:
主体と対象とは、対になる原理用語であり、
一般的にはあまり使われない言葉なので、
この場合は、「能動的・受け身(受動)的」な立場として
置き換えると、わかりやすいと思います。

再編集 文責:ten1ko2


とてもわかりやすく、まとめておられますね。

阿部先生は、かつて鮮文大学の語学院で
韓国語を熱心に学ばれた経験があります。

現地で韓国の文化に触れたことがあり、
おそらく深く研究されたと思うので、
そういう意味でも説得力があるのだと思います。

結論としては、
どちらがいい悪いではない、ということです。
もっと言えば、どちらが優れている、劣っている、
ということではないのです。

当然私たちは、日本人なので、日本を愛し、
また、日本の文化になじんでいます。

ただ、韓国においても、その文化を築くために、
相当の年月と心情が投入されているわけです。
そのことを認識していく必要があるのだと思います。

シリーズで掲載されるとのことですが、
機会があれば、また紹介したいと思います。




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