2023年07月19日

仕事で疲れ切っていた私の変化 無色透明な自分を目指しています 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム
「無色透明の私を目指して」

(男性 20代)

IT関係の仕事をしています。
日々、「嫌な気持ちに気付く」
という基本に戻って、自己牧会プログラムの
ワークに取り組んでいます。

取り組んでみて思ったのは、私は
「こうでなければならない」という思いが
とても強かったということです。

今の仕事は好きですが、
「一生懸命やらないといけない」
「完璧でなければならない」と力が入ってしまうので、
一日を終えると疲れ切っていることが多いのです。

そのことに気付いて、
「思いどおりでなくても大丈夫」
と唱えていくと、心の余裕が生まれてきました。

すると、不思議なことに、
人の良い面が見えてきたのです。

また、それまで無頓着だった
季節の変化も感じられるようになりました。

生活の中に鮮やかな色彩が戻り、
何げない食事にも味わいを覚えるようになってきました。


「光を投げ放つ」ワーク(光、すなわち神様の愛を、
感動や感謝とともに人や万物に送る)にも挑戦しています。
これを続けていると、ごちゃごちゃ考えることが減りました。

これまでは、あることについて一度考えて
答えが出ないと、同じ考えをぐるぐる繰り返して、
気が付けば時間がたっていました。

でも今では、必要以上に考えなくていいんだ、
もっと楽しんで喜んでいいし、
いろんな人を喜ばせていけばいいんだと分かったのです。

 
ある時、上司と仕事の方針で対立する場面がありました。

心がモヤモヤしましたが、光を送っていくと、
上司の言った内容というよりは、
表現の仕方や雰囲気、タイミングに引っかかったんだ、
忙しい時にぱっと上から言われた感じがしたのが
嫌だったんだと理解できました。

重圧のかかる場面だと、自分も
そのようにしてしまったことがあったなと思い、
重圧に苦しむ上司の心、傷ついた私の心、
過去に私が傷つけた人の心、
全てに光を送っていくと、気持ちが晴れていきました。

そして、何ごともなかったように上司と接することができました。

あるがままの世界が見える、
無色透明の私を目指していきたいと思います。

(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


人間関係、いろいろありますよね。
特に職場においての人間関係は、
基本的に、一日で一番長い時間交流するので、
そこの関係が気まずいと
生活リズムにも影響してきます。

「無色透明の私」になれたら、
どんなにいいでしょうね。。。

この方の証しにもあるように、
「光を投げ放つ」ことが
良い影響を与えているのですね。

光を送る、投げ放つというのは、
神様の愛をイメージするので、
その前に、自分の心にある自分中心の思いや、
固執した思いを取り払う必要があります。

そうしたうえで、感謝と感動の思いをもって
神様の愛の光を、放ったり、送ったりするということです。

ちょっとした日常のことでも、
こういうくせをつけることが
大事なのだな、と思います。




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2023年07月18日

自分のことが心配な私たち 神様の事情がわかりますか 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「主の事情が分からなかった弟子たち」

 
イエス様が、「あなたがたの中に私を裏切る者がいる」
と語られているのに、弟子たちは(イエス様の気持ちも知らず)、
「今からエルサレムへ上って行くならば、
私たちの中でだれが一番偉いのか」と言い争いました。

そこでイエス様は、
「異邦の王たちはその民の上に君臨し、
また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
しかし、あなたがたは、そうであってはならない。
かえって、あなたがたの中で一番偉い人は
一番若い者のように、指導する人は
仕える者のようになるべきである」(ルカ二二・二五、二六)と語られました。

イエス様は、去るための準備として
過越の祭の用意をされているのに、
弟子たちは一人も分からずにいました。

今日、私たち自身も、「果たして、
天の事情を中心として天の恨を抱いた私なのか?」
と自問してみる必要があります。

天のためにいると言う者は多いけれども、
果たして天の心情をもった私でしょうか? 

イエス様の前に輪を描いて座った弟子だけが
そうなのではなく、私たちはどのような
気掛かりと心配をもった「私」ですか? 

天の恨を抱き、天の願いのために生きようとする
「私」なのか、どのような気掛かりと
心配をするようになる「私」なのか、反省しなければなりません。

世の中全体が大路を行くのに、世の中のすべてと
違う道を行かれ、同行しようとする群れを
探し求めることができなかった主は、
いかばかり恨が多かったでしょうか? 

ゲッセマネの園で三弟子までも居眠りしているのに、
できるならばこの杯を免れさせてくださいと祈祷なさった
イエス様は、今からでも三弟子が目覚めて
主と共に十字架を背負うことのできる決意を
もってくれることを願われ、祈祷なさったのです。

主の恨を相続すべき信仰者であるならば、
天のみ旨のゆえに祭物になっていく主の心情が、
自分の胸の中に相続されているかどうかを
問うてみなければなりません。

天は、私に合わない事件や逆境を与えて、
私が正しく悟れるようになさるのです。

急に口惜しいことにぶつかるとき、
み言の心情をもってその事件を
解決することができるかできないかによって、
自分自身が天の側なのかサタンの側なのかの
判決が出るようになります。

一九七九年五月二十日 韓国本部教会
李耀翰

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
再編集 文責:ten1ko2


主に出会って愛された喜びはあっても、
深い天の心情までは悟ることができなかった弟子たちでした。

「神様は天の父母様である」
基元節以降、このことを語られたのは、
真のお母様です。

しかし、実際には、それ以前に
真のお父様も神様は父母である、
と語られています。

時代の勝利圏が拡大されたので、
神様の本当の姿を示すことのできる
今この時を迎えているのだと思います。

父母なる神様に祈りを捧げることにより、
今までとは違う恩恵を受けることが出来る時だといいます。

その恩恵を最も受けることのできる場が、
まさに天心苑祈禱室です。

清平の地だけでなく、
日本の各教会にも連結されています。

神様・父母様の心情を求めつつ、
天心苑で深い精誠を捧げていきたいと思うのです。




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2023年07月17日

一言多い妻 「ありがとう」で完結すれば、ハッピー度UP↑ 《夫婦愛*橘先生》



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Blessed Lifeの人気エッセイスト、
橘幸世さんによるエッセー
「続・夫婦愛を育む」より
「『ありがとう』だけで完結する」です。


ギプス生活の中、在宅ワークの合間に
主人があれこれ世話をしてくれます。

動きが限られているので、物一つ取るにも
お願いすることが多く、その都度丁寧に(しおらしく)
「ありがとう」と言っています。

毎日同じ場面で同じ物を取ってもらったり
運んでもらったりしますが、マンネリ化することなく、
やはりその都度、心から「ありがとう」と口にしています。

日にこんなにたくさん「ありがとう」
と言うのは、人生初ではと気付きました。

「弱きを助ける」の原稿を書いた後にこの事態。
一時的とはいえ、助けられるばかりになってしまいました。

今の自分にできるのは、多くを望まず
(主人がタオルの区別を時々間違えても何も言わず)
ただ感謝することだけです。
ならばそこに思いを込めて。

 
そんな中、ある事が私の心を悩ませていました。
その心配を払拭すべく、スマホで
確認しようとしましたがうまくいきません。

「心配より信頼」
「負の妄想はやめよう」
「神様は悪いようにはされない」
「“大丈夫だよ”という主人を信じればいいんだ」
など、自分に言い聞かせ、祈りますが、
やはり行ったり来たりの心です
(あまりする事がないので余計にそうなりがちです)。

結局主人が忙しい中、主人ならではの知恵で
上手に確認してくれ、私の心配は払拭されました。
どれほどありがたかったことでしょう!

「お父さん、すご〜い!」
「賢〜い!」
「ありがと〜!」
大賛辞です。

その後も何度も何度もお礼を言いました。
感謝の思いがあふれてくるのです。

そして改めて、「主人を信じればいいんだ」
「神様は悪いようにはされない」と確認したのでした。

 
いつぞやテレビで、土曜日出社の女性が
夫の手作り弁当を食べている様子が映されていました。

私から見れば、かなり手の込んだリッチなお弁当。
が、彼女は食材の一つを箸でつまみ、
「これはもう少し立てて入れたらいいと
思うんだけど」と言います。

続けて「私、ケチつけるから(夫に)
怒られるんですよね。言わなきゃいいのに。
でも、言っちゃう」

見ていた私は、心の中で「あ〜あ」
(彼女のそんな側面が自分にないわけではありません)。

バリバリのキャリアウーマンの妻を、
自分は土曜休みだからとサポートしてくれる夫。

「ありがとう」だけで完結しておいたら
お互いどんなにハッピーだろう、
と思わずにはいられませんでした。

ケチをつけた分、彼女自身の
感謝の思いまで損なわれてしまい、
ハッピー度も下がるでしょう?

自戒と共に。

続・夫婦愛を育む 9
「ありがとう」だけで完結する
ナビゲーター:橘 幸世
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=20300
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


女性というか、妻というのは、
往々にして、「一言多い」のかな、
なんて思ってしまうのですが。。。
これ以降は省略します(笑)

あるYouTuberの方で、
カップルで日本一周を目指している動画があります。

彼女は必ず、目的地に着いたら、
「ありがとう」と一言声を掛けます。
どんな時にも、です。

狭い空間で常に一緒にいるわけですから、
いろんなことがあるでしょう。

しかし、どんな時にも「ありがとう」というのです。
私たちも心掛けないといけない習慣だな、と思います。


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posted by ten1ko2 at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする