2023年07月13日

「1万時間」で超一流になれる 夢中(ワクワク)でやれば、効果倍増 《Mr.阿部*絆づくり》



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阿部美樹先生の「家族の絆づくり」
今回は、『超一流の人になる法則』です。

輝く「誇り」を得るために

「1万時間の法則」という言葉があります。

一流のビジネスマンやスポーツ選手、アーティストなど、
さまざまな分野で物事を極めたエキスパートの事例を参考にして、
「どんなスキルも1万時間練習すると『本物』になる」
(マルコム・グラッドウェル著、『天才!成功する人の法則』より)
という主張です。

超一流と呼ばれる人のスキルや技は、
驚くほどに見事なものです。

それは一朝一夕でできたものではありません。
百回、千回、万回と継続して繰り返し、
不可能と思われたことを奇跡的に可能にして、
さらに確実なものとして身に付けたものです。

その繰り返した時間性の一つの基準が
「1万時間」というわけです。

1万時間ということは、1日1時間であれば約28年間、
1日3時間であれば約9年間かかるという計算になります。

ここで導き出される結論は、
「何事も練習と訓練の繰り返しがなければ
成功することはできない」ということです。

その練習と訓練は、厳しければ厳しいほど
大きな成功につながります。
厳しい訓練も忍耐して貫き続けると、
「自信」と「誇り」になります。

「夢」よりも夢中になるものを持て!

一方、「努力する」「繰り返す」という言葉は、
苦労することが伴うので重く感じる場合があります。

「努力しなければならない」という
義務感で努力するのでは、
継続が困難になる可能性があります。

それよりも、「もっと上手になりたい」
「どんな工夫をしたらいいんだろう」
というワクワクした気持ちで
夢中になっている状態が好ましいものです。

夢中に勝る質の高いトレーニングはないからです。

幼い子供たちが公園で遊んでいる姿は、
「楽しくてたまらないから夢中で走り続ける」
ということです。

決して義務感で遊んでいる子供はいないでしょう。

これと同じように、1万時間の努力の中でも、
夢中になって投入している人は超一流です。

「10年後には◯◯になりたい!」という
「夢」を持つことも大切ですが、
それ以上に「今、夢中になれるものがある!」
ことの方が貴重かもしれません。

また、努力を夢中になって継続する人の心は
「楽観的な心」を持っています。

ここで言う「楽観的」とは
「簡単にできそうだ!」という
楽天的な前向きさだけでなく、
「これは楽しいことだ!」という
楽しく見つめる能力です。

家族の絆づくり 276
超一流の人になる法則
ナビゲーター:阿部 美樹
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=20271
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


お母様が「伝道」と叫ばれています。
天心苑祈禱室での祈祷を中心に
霊的に復興した中で歩む時を迎えています。

田中会長は、先日「ときめき伝道」と語られました。
「ときめく」とは、喜びや期待などで胸がどきどきする。
心が躍ることをいいます。

まさに、幼子たちが公園で夢中で遊び続ける
そのような姿をなしていく時であるというのです。

本心では伝道したくてたまらないし、
そのために動きたくてたまらないのです。

行動できないのは、既成概念に囚われ、
自己本位に生きてしまう、自分の堕落性が原因です。

義務感でなく、ワクワクした思いで、
み旨にまい進していけるように、
本心を高めていきたいと思います。

天心苑祈祷室で、1万時間精誠を捧げたら、
何か役事が起きるかもしれないですね。


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2023年07月12日

厳しく言ってもいい場合、ダメな場合 ほっぺを叩いても感謝される叱り方 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言。
『何よりも神のものを愛す』から
今回は、「どのようにして叱るのか」です。

どのようにして叱るのか

あるメンバーに問題があった時に、まず、
その人の良くないところを見て、
「これをこう教えなければいけない」
という心をもつのが当然です。

ただ、その人を正しく導いてあげよう
ということを目的としなければなりません。

ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。
多くの場合は、そうなっています。
何回も教えてあげたにもかかわらず
守らないという時に、自分の感情は良くないのです。

そういう中でその人に、「こうしなさい」
と言うのはまずいのです。
それは正しく導くという美名に隠れて、
自分の感情を拡散しているのです。

動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると
心が不安になります。
叱られた人も気持ちが良くありません。

もし本当にその人のために叱ってやった時には、
叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。
そうでない時には、寂しい心が残ります。


厳しく話すのは悪くありません。

その前に相手から、どんなことを言っても
彼は私のために言ってくれる人であると
認められる期間をもたなければいけません。

彼は私のために食べないこともあるし、
私のために涙を流し、私のために
愛してくれる人だと認めたら、
ほっぺたを殴られても感謝するのです。
絶対に殴られたとは考えないのです。

ところが、そうでない時に打ったりするから、
恨みが残るのです。


もし、そういう気持ちがないのに、
ひどく叱ったとしましょう。
そういう準備なくして叱ったとします。

その時には、そうした後で慰めてやらなければいけません。
「私がこのようにしたのは実は
お前が善くなるようにと思ってしたのだから、
よく理解してほしい」と言って
慰めてあげなければいけないのです。

そしてその人が、「はい、分かりました。
心配しないでください」というところまでいって、
初めて終わるのです。


時には、どんどん話したら、
泣きながら出て行く人がいます。
それは忠告した目的が達成できなかった時です。

そういう時には訪ねて行って、
その人が、私に言われる前のように
気持ちの快い状態に返るようにしてあげなければいけません。
 
だから、人に「こうしてはいけない」
ということは、そんなにたやすいものではないのです。


人は、自分が誤っていることを
自分自身で分かっている場合があります。

その人に、「お前はこれが悪い」
と言ってあげたら、もっと感謝の心が
起こるようにならなければいけないのに、
気持ちが良くなくなることがあるのです。

人間は人に言われて完成するのではなく、
直接神に向かうようになっているからです。

ですから、そういう時には、
その人のために祈ってあげ、
その人のために尽くしてあげるのです。

 
ですから人を打つにも全部準備して打たないとだめですよ。
忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、
全部考えて話さなければいけません。

良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。

厳しさにも、二つの種類があります。
冷たくする方法と温かくする方法です。

「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、
温かさで接しなければいけません。

硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。
硬いものには軟らかいもので、
軟らかいものには硬いもので向かうのです。

人によって違うのです。
静かに話してくれればいいという人と、
悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。
人をよく見て話してやることです。


先生は(ごくまれには)殴ることもあります。
ただ、今まで私が三十数年の間でそれを見たのは、
二回しかありません。

その人は、心情的にあまりにも強い人でした。
その人は先生が自分のために犠牲になっている
ということをよく分かっていながら、
周りの人の言うことを聞かないで、
自分のやり方に固執していたのでした。

その人によって大勢の人が迷惑を受けたのです。
それでたくさんの人から讒訴(ざんそ:そしり訴える、悪口を言う)されていました。

そういう状態はその人に良くないので、
先生が代わりに打ってあげ、それで
讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。

にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、
その人が引っかかります。
先生が打って許したからには、
その人を愛さなければいけないのです。

 
先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、
もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、
もっともっと遠ざかってしまうのです。

目的とは全然異なった方向に行ってしまうのです。
それは、その人を教え導くという美名のもとで、
自分の感情を拡散したからなのです。

先生に叱られると、叱られる前よりも
もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。
そういう心がない時には、慎まなければいけません。

それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。
相手が本当に自分を愛してくれている人だ、
心配してくれているんだというふうに、
相手に認められて、話してやらなければなりません。

その時には厳しく言ってもいいのです。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「どのようにして叱るのか」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

再編集 文責:ten1ko2


文中に30数年と出てきていますが、
お父様(文先生)と金元弼先生は、
1946年に出会われています。
ですから、今から50年ほど年前に語られたものです。

その当時や、戦後間もなくであれば、
体罰も当たり前だったり、
「殴る」ということも、その当時では
まだ一般によくあったのかもしれません。
時代背景をご理解ください。

現代は暴力や体罰はなくなってきたとはいえ、
人を叱るというのは、簡単ではないと思います。

相手のために言っていたとしても、
相手がどのように受け止めるか、ということが問題です。
また、正論が時として、人を傷つけることにもなります。

言葉というのは、簡単に武器にもなってしまいます。
今、「切り抜き」と言われるようなことが流行っていますが、
どのような思いで語られているのか、
切り抜いた人の思惑が絡んでしまうと、
間違えた捉え方になってしまいます。

人にあれこれ指摘するよりも、
まずは、私自身が正しい心情で
言葉を発する努力をしないといけないな、
そのように思います。




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2023年07月11日

犠牲の道、それしか方法がなかった イエスの胸中は・・・ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ先生のみ言。
今回から、「恨(ハン)の多い主」
という題目の説教になります。


時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。

イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、
あなたがたとこの過越の食事をしようと、
切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、
神の国で過越が成就する時までは、
わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

そして杯を取り、感謝して言われた、
「これを取って、互に分けて飲め。
あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、
わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。

食事ののち、杯も同じ様にして言われた、
「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
しかし、そこに、わたしを裏切る者が、私と一緒に食卓に手を置いている。
人の子は定められたとおりに、去って行く。
しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。
弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。  
ルカによる福音書第二二章一四〜二三節


神がノア家庭を中心としてされた洪水審判を見ると、
サタンが相対する人間は審判し、
地球上に神を信奉する人間だけを中心として
天国を成就されようとするみ旨がよく分かります。

このような神のみ旨を、ある時は
モーセを中心として成就しようとされましたが
不信されましたし、信仰の人物たちを立てるたびに
繰り返し繰り返し、選民の不信によって失ってしまいました。

切迫した状況に置かれたイエス様

地上に成就しなければならないみ旨を
継承してこられた方がイエス様でした。

主は、この地に来られましたが、
み旨を成就する期間がなく、
切実な事情に追い詰められました。

地上を去らなければならない日が切迫してきたときに、
過越の祭の記念を通じて、ご自分が去ることを
宣言される場面を聖書に見ることができます。

天の身代わりとして来られたイエス様の使命は、
地上の人間たちをサタン分立して
天の圏内へ復帰するか、あるいは
イエス様が不信の人間たちの前に祭物になるか、
どちらかでした。


そうしてみますと、信じてくれる対象を
探し求めなければならないイエス様でした。

まず、家庭でイエス様が天から来られた方で
あることを信じなければなりませんでしたし、
この家庭を基盤としてイエス様が育った
地域の会堂長とか祭司長たちが信じなければなりませんでした。

家庭と教団を探し求めなければならない方であったのに、
家庭で主を天の人として見てくれず、
教会でも不信するようになりました。

悪主権の下で、神の国がイエス様を中心として
宣布されなければならなかったのですが、
過越の祭を迎えて、パンとぶどう酒を分けて
お与えになる恨多い主であられました。

堕落人間は、何か仕事をしていて疲れたならば
やめますが、イエス様は、
世の中の人々がみな違うと言っても、
復帰の責任を放棄することができない立場でした。

家庭と教団を失ってしまい、イエス様が
世の中に入っていくことのできない立場で、
弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えながら
宣言されたことは、このことを通じて、
ご自身は不信の群れの前に
祭物になる決意であるということでした。

 
モーセは、カナン復帰路程で三度も、
信じるに値する条件を立てて
民族が一つになることを渇望しました。

また、モーセは、神が立てられた方である
ということを分かるようにするために
奇跡あるいは、契約の箱を通して
信じるに値する証拠を見せましたけれども、
イスラエル民族が不信を繰り返しました。


このような不信の民族の中に来られたイエス様は、
天から来られた証拠を
見せてやらなければなりませんでした。

そのような中で、教団で不信されたイエス様は
直接出て行って、重病患者たちを呼んで起こされ、
盲目の者の目を開け、不具者を立ち上がらせ、
天から来られたことを見せてくださいました。

特別に三弟子を中心として、
いろいろな弟子たちにそれを見せてやろうとされましたし、
七十人門徒を全国に派遣して、
天が共におられることを経験するように導こうとされました。


そのように主について回り、目で見、経験し、
また、代わりに出て行って伝道した人たちも、
結局は不信してしまいました。

イエス様に病気を治してもらった者は、
すべて自分の事情によって戻っていきました。

主の事情を理解し、主のためにしようとする者は
一人もいませんでした。

弟子たちも自分たちの主の願いが何なのか
と思いながら、主のために生きようと
考える者がいませんでした。

すべての人々がみな、
主は自分たちのために来られたとだけ考えました。

一九七九年五月二十日 韓国本部教会

李耀翰
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
再編集 文責:ten1ko2


イエス様の恨。。。
愛し、信じていたのに、しっかりと
相対に立つ者がいなかったイエス様。
その無念な思いはいかばかりかと思います。

中心に立つ者がいても、
相対としてしっかりと基台が立たなければ、
中心は崩れてしまうのです。

イエス様はそれでも愛し、
尽くしていかれました。。。

私たちにおいても、
教訓とすべきものだと思います。

自分の事情で歩むのか、
天の事情、中心の事情で歩むのか、
そのことをしっかりと悟らなければ、と思うのです。




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posted by ten1ko2 at 11:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする