李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「復帰摂理の恨(ハン)」最終回になります。
☆
解怨の三番目の段階――
神の安息の基盤をつくる
神の安息の基盤をつくる
私たちが神を喜ばせようとするならば、
歴史的に抱いてこられた神の恨、
繰り返される復帰摂理で残された事件を
解きたいと思われる神の願いを知って、
み言の人にならなければなりません。
そして、一つの家庭の心情の中心になって、
その家庭に神が臨在なさることができる場所を
つくらなければなりません。
そうでなければ神がおられる所がないというのです。
☆
イエス様がこの地に来られて愛の園を成したいと
思われましたがみ旨どおりに成されませんでしたので、
心を置く所がなく、空を飛ぶ鳥を
うらやましがられたというのです。
空を飛ぶ鳥にも休む所があるのに
ご自身には居場所がありませんでした。
イエス様に従って回った弟子たちの中に、
自分の苦痛のくびきから脱け出ようとする人は
多くいましたが、イエス様の苦痛が
何なのかを知ろうとする人はもちろんのこと、
イエス様と苦痛を共に分かち合おうとする人は
いなかったというのです。
☆
ところが、聖書全体を見るとイエス様と
事情が通じた人が二人いました。
その一人は、イエス様が、み言が伝えられる所で
永遠に記念として語られると言われた女性、
すなわち、イエス様の足に
三百デナリの香油を注いだ女性でした。
☆
そして、もう一人は、サマリヤの里を
通り過ぎる時に会った、水を汲みに来た
サマリヤの女性でした。
イエス様がその女性と対話するとき、
ご自分がキリストであると、初めて
比喩ではなく事実を語られました。
それは、たった一度のことでした。
「お前が待っているメシヤは私である」
というみ言を聞くとすぐに、
水桶を捨てて去ったのを見れば分かります。
その女性は、み言を与えられただけで
絶対に行うことのできる信仰の基盤が確保されていたのです。
☆
奇跡を行われても、私がしたことを
語るなと弟子たちにまで語られていたイエス様であられたのに、
異邦の女性、すなわち、サマリヤの女性には、
私がメシヤであるという事実を語られたのです。
そうして、イエス様は嘆息なさりながら
十字架に向かって行かれたのです。
多くの群れが主に従うと言いましたが、
主の事情を知っている人はいませんでした。
このように主と事情を共にすることのできる人、
主が世の中を去るならば
一緒に死ぬことのできる人がいなかった訳は、
弟子たちが情の世界には距離を置き、
自分の問題だけを中心として主に従ったからなのです。
☆
今日、私たちも原理を聞き、私たちの重荷は
みな下ろしてしまったと見ることができます。
統一教会の食口たちは、相当高級な霊たちが
うらやましがる人になりました。
しかし、原理によって死亡圏内から解放され、
自分の問題は解決してきましたが、
神が臨在なさり、神の願いを解いてさしあげることのできる
家庭と祭壇があるのかというのです。
原理を聞いて「ああ、私は救いを得た。
父のみ名によって救いを得た。
お父様、感謝いたします」と言って、
自分の救いを感謝する人はいても、
神を救ってさしあげますという子供たちが
どれだけいるでしょうか。
これが今日、各自がうかがい見なければならない問題なのです。
☆
み言の生命を所有した人、神が
身代わりとして立てて働くことのできる一個体、
神が子女であると言うことのできる人、
神の悲しみを共に分かつことのできる人、
そのような実体になることが極めて難しいということを、
繰り返される復帰摂理路程や、
私たちの生活の中でたくさん感じるようになります。
怨恨をもたれ、この地に訪ねてこられた神は、
恨の息子、娘を探し求め、
先に恨みを解いてくださったのちに、
ご自身の恨を相続させて
ご自身の願いを成し遂げようとして
この地に来られた方であるということを、
繰り返してお話ししました。
☆
今日まで私たちは、
私個人の問題でいろいろとぶつかり、
いろいろな危機に遭遇したことと思います。
ところが、結実期に入ってきた今もなお、
復活しない私の個体を見てみるとき、
むしろ危険物にならないだろうかと考えるようになります。
ですから、神の恨を知って
私たちの生活の力になるようにして、
ご父母様の前にもっと近づき、
信ずるに値する息子、娘にならなければなりません。
一九七九年八月、韓国本部教会
信仰生活シリーズ 3
聖書の中の心情圏 李耀翰
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U復帰の恨
復帰摂理の恨
信仰生活シリーズ 3
聖書の中の心情圏 李耀翰
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復帰摂理の恨
☆
再編集 文責:ten1ko2
『神様を解放します』と決意して、
その生涯を捧げられたのが、真の父母様です。
私たちはどれだけその心情圏と
一致して歩んでいるでしょうか。
一挙手一投足、どんな時にも
その思いを持って歩む者に
なっていきたいと思います。
しかも、いまが「黄金期」
と言われている時です。
過去を誇る者になるのではなく、
今語られるお母様の事情、心情を
悟って歩んでいく者にならなければ、
と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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