先週に引き続き、方相逸(バン サンイル)大陸総会長の
メッセージをご紹介します。
「世界のために生きる韓国と日本に」
3回目です。
☆
信仰は、反省することから始まる
カトリック教会の聖堂には「告解室」があり、
そこで、自らが犯した罪を神父に告白します。
すると、神からの赦しを得て復活し、
これまでの二倍、三倍、頑張れるようになるというのです。
人は、自らの過ちを反省しない限り、
生まれ変わることができません。
「あなたは私に、こんなひどいことをしたじゃないか!」
「それはこっちのセリフだ!」と、
お互いに非難し合っているうちは、
解決の道は見えません。
許し合ってこそ、前に進むことができます。
この世に、「私は罪を犯したことがない」
と言い切れる人はいるでしょうか。
私たちの親、親の親、先祖までさかのぼれば、
多くの罪が積み重ねられていると思います。
信仰は、天の前にそれらを反省することから始まります。
☆
「天の父母様。今まで頑張ってきたつもりでしたが、
自らの過ちや不足さに気づいていませんでした……」
目を閉じて祈ると、それまでにどんなに頑張ってきた人でも、
もっと投入すればよかった、
本当に申し訳ない≠ニいう気持ちが湧いてきます。
祈りとは、「反省して覚悟する」ことです。
それを日々、繰り返していく中で、
自らの足場がコンクリートのように固くなり、
天に対する信仰は揺らがなくなるのです。
☆
親は、子女が自分よりも
りっぱになることを願う
りっぱになることを願う
皆さん。席から立って、腕回しをしてみてください。
気持ちいいでしょう。
ある先生が、生徒たちに向かって、
「腕回しは健康にもいいし、脳の働きも良くなるので、
毎日、百回やってください。いいですか。
願い事は皆、かないます。
信じて続けるんですよ」と呼びかけたとします。
生徒たちは、「はーい!」と元気よく返事をしました。
十五日後、先生が、「きょうまで腕回しを
続けられた人は、手を挙げてください」と尋ねると、
半分の生徒が手を挙げました。
先生はもう一度、「毎日、行えば、
元気になるし、頭も良くなるし、人生が成功します。
忘れずにやるんですよ」と念を押しました。
再び十五日後に確認すると、
続けていた生徒は、たった一人でした。
☆
師の指導を信じ続けた弟子は、プラトンです。
皆さんもよく知る、古代ギリシャの哲学者です。
彼の恩師は、ソクラテスです。
プラトンは、自らの弟子に同じような指導もしました。
そして、名を残した弟子が、アリストテレスです。
彼らの思想は、今もなお、全世界に影響を与えていますね。
アリストテレスを家庭教師に迎えて学んだのが、
アレクサンドロス大王です。
大王は二十歳で王位を継承し、遠征を重ねて、
三十歳までに、ギリシャ、エジプト、ペルシャ、
インドの一部に広がる大帝国を築きました。
しかし、三十二歳で亡くなりました。
いくら広大な領土を得ても、
霊界に呼ばれたら行かざるをえません。
☆
アレクサンドロス大王は、
武力で帝国を支配しましたが、
真の父母様は、天から授かった「原理」によって、
世界百九十四か国に基盤を築かれました。
全ての国に宣教師が派遣されています。
このように偉大な方が、私たちの親なのです。
親は、子女が自分よりもりっぱになることを願います。
皆さんは、「真の父母様以上になるなんて、
無理ですよ」と諦めますか?
それとも、拳をぎゅっと握り締めて、
「真のお父様や真のお母様を超えてみせるぞ!」
と誓いますか?
「真の父母様が、これまで
投入してくださった以上に頑張るんだ!」
という気概を持って前進すべきなのが、
ここにいる祝福二世、信仰二世であり、
一世の青年たちです。
皆さん、小さなことで、
くよくよと悩まないでください。
☆
再編集 文責:ten1ko2
信仰は反省するところから始まる、
まさにそうですね。
韓国の清平で徹夜祈祷会が開催されています。
お母様が李基誠苑長に指示されて出発した、
この祈祷会も先日800回を超えたと言うことです。
この祈祷会も先日800回を超えたと言うことです。
毎日精誠を尽くす姿に神様も感動しないはずがありません。
協助しないはずがない、というのです。
様々な奇跡が起きている、と証しも出ているそうです。
悔い改める、というのは、その人の心が変わる、
ということだと思います。
ということだと思います。
そのことで、環境も変わっていくのです。
天心苑祈祷室もお母様が定めてくださったものです。
その場を通して、真の父母様に
孝行を尽くす心情を育んでいきたいと思うのです。
孝行を尽くす心情を育んでいきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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