李ヨハネ先生のみ言。
今回から、「恨(ハン)の多い主」
という題目の説教になります。
☆
時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、
あなたがたとこの過越の食事をしようと、
切に望んでいた。あなたがたに言って置くが、
神の国で過越が成就する時までは、
わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。
そして杯を取り、感謝して言われた、
「これを取って、互に分けて飲め。
あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、
わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯も同じ様にして言われた、
「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。
しかし、そこに、わたしを裏切る者が、私と一緒に食卓に手を置いている。
人の子は定められたとおりに、去って行く。
しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。
弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。ルカによる福音書第二二章一四〜二三節
☆
神がノア家庭を中心としてされた洪水審判を見ると、
サタンが相対する人間は審判し、
地球上に神を信奉する人間だけを中心として
天国を成就されようとするみ旨がよく分かります。
このような神のみ旨を、ある時は
モーセを中心として成就しようとされましたが
不信されましたし、信仰の人物たちを立てるたびに
繰り返し繰り返し、選民の不信によって失ってしまいました。
☆
切迫した状況に置かれたイエス様
地上に成就しなければならないみ旨を
継承してこられた方がイエス様でした。
主は、この地に来られましたが、
み旨を成就する期間がなく、
切実な事情に追い詰められました。
地上を去らなければならない日が切迫してきたときに、
過越の祭の記念を通じて、ご自分が去ることを
宣言される場面を聖書に見ることができます。
天の身代わりとして来られたイエス様の使命は、
地上の人間たちをサタン分立して
天の圏内へ復帰するか、あるいは
イエス様が不信の人間たちの前に祭物になるか、
どちらかでした。
☆
そうしてみますと、信じてくれる対象を
探し求めなければならないイエス様でした。
まず、家庭でイエス様が天から来られた方で
あることを信じなければなりませんでしたし、
この家庭を基盤としてイエス様が育った
地域の会堂長とか祭司長たちが信じなければなりませんでした。
家庭と教団を探し求めなければならない方であったのに、
家庭で主を天の人として見てくれず、
教会でも不信するようになりました。
悪主権の下で、神の国がイエス様を中心として
宣布されなければならなかったのですが、
過越の祭を迎えて、パンとぶどう酒を分けて
お与えになる恨多い主であられました。
堕落人間は、何か仕事をしていて疲れたならば
やめますが、イエス様は、
世の中の人々がみな違うと言っても、
復帰の責任を放棄することができない立場でした。
家庭と教団を失ってしまい、イエス様が
世の中に入っていくことのできない立場で、
弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えながら
宣言されたことは、このことを通じて、
ご自身は不信の群れの前に
祭物になる決意であるということでした。
☆
モーセは、カナン復帰路程で三度も、
信じるに値する条件を立てて
民族が一つになることを渇望しました。
また、モーセは、神が立てられた方である
ということを分かるようにするために
奇跡あるいは、契約の箱を通して
信じるに値する証拠を見せましたけれども、
イスラエル民族が不信を繰り返しました。
☆
このような不信の民族の中に来られたイエス様は、
天から来られた証拠を
見せてやらなければなりませんでした。
そのような中で、教団で不信されたイエス様は
直接出て行って、重病患者たちを呼んで起こされ、
盲目の者の目を開け、不具者を立ち上がらせ、
天から来られたことを見せてくださいました。
特別に三弟子を中心として、
いろいろな弟子たちにそれを見せてやろうとされましたし、
七十人門徒を全国に派遣して、
天が共におられることを経験するように導こうとされました。
☆
そのように主について回り、目で見、経験し、
また、代わりに出て行って伝道した人たちも、
結局は不信してしまいました。
イエス様に病気を治してもらった者は、
すべて自分の事情によって戻っていきました。
主の事情を理解し、主のためにしようとする者は
一人もいませんでした。
弟子たちも自分たちの主の願いが何なのか
と思いながら、主のために生きようと
考える者がいませんでした。
すべての人々がみな、
主は自分たちのために来られたとだけ考えました。
一九七九年五月二十日 韓国本部教会
李耀翰
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
李耀翰
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
☆
再編集 文責:ten1ko2
イエス様の恨。。。
愛し、信じていたのに、しっかりと
相対に立つ者がいなかったイエス様。
その無念な思いはいかばかりかと思います。
中心に立つ者がいても、
相対としてしっかりと基台が立たなければ、
中心は崩れてしまうのです。
イエス様はそれでも愛し、
尽くしていかれました。。。
私たちにおいても、
教訓とすべきものだと思います。
自分の事情で歩むのか、
天の事情、中心の事情で歩むのか、
そのことをしっかりと悟らなければ、と思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)