金元弼先生のみ言。
『何よりも神のものを愛す』から
今回は、「どのようにして叱るのか」です。
☆
どのようにして叱るのか
あるメンバーに問題があった時に、まず、
その人の良くないところを見て、
「これをこう教えなければいけない」
という心をもつのが当然です。
ただ、その人を正しく導いてあげよう
ということを目的としなければなりません。
ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。
多くの場合は、そうなっています。
何回も教えてあげたにもかかわらず
守らないという時に、自分の感情は良くないのです。
そういう中でその人に、「こうしなさい」
と言うのはまずいのです。
それは正しく導くという美名に隠れて、
自分の感情を拡散しているのです。
動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると
心が不安になります。
叱られた人も気持ちが良くありません。
もし本当にその人のために叱ってやった時には、
叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。
そうでない時には、寂しい心が残ります。
☆
厳しく話すのは悪くありません。
その前に相手から、どんなことを言っても
彼は私のために言ってくれる人であると
認められる期間をもたなければいけません。
彼は私のために食べないこともあるし、
私のために涙を流し、私のために
愛してくれる人だと認めたら、
ほっぺたを殴られても感謝するのです。
絶対に殴られたとは考えないのです。
ところが、そうでない時に打ったりするから、
恨みが残るのです。
☆
もし、そういう気持ちがないのに、
ひどく叱ったとしましょう。
そういう準備なくして叱ったとします。
その時には、そうした後で慰めてやらなければいけません。
「私がこのようにしたのは実は
お前が善くなるようにと思ってしたのだから、
よく理解してほしい」と言って
慰めてあげなければいけないのです。
そしてその人が、「はい、分かりました。
心配しないでください」というところまでいって、
初めて終わるのです。
☆
時には、どんどん話したら、
泣きながら出て行く人がいます。
それは忠告した目的が達成できなかった時です。
そういう時には訪ねて行って、
その人が、私に言われる前のように
気持ちの快い状態に返るようにしてあげなければいけません。
だから、人に「こうしてはいけない」
ということは、そんなにたやすいものではないのです。
☆
人は、自分が誤っていることを
自分自身で分かっている場合があります。
その人に、「お前はこれが悪い」
と言ってあげたら、もっと感謝の心が
起こるようにならなければいけないのに、
気持ちが良くなくなることがあるのです。
人間は人に言われて完成するのではなく、
直接神に向かうようになっているからです。
ですから、そういう時には、
その人のために祈ってあげ、
その人のために尽くしてあげるのです。
☆
ですから人を打つにも全部準備して打たないとだめですよ。
忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、
全部考えて話さなければいけません。
良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。
厳しさにも、二つの種類があります。
冷たくする方法と温かくする方法です。
「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、
温かさで接しなければいけません。
硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。
硬いものには軟らかいもので、
軟らかいものには硬いもので向かうのです。
人によって違うのです。
静かに話してくれればいいという人と、
悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。
人をよく見て話してやることです。
☆
先生は(ごくまれには)殴ることもあります。
ただ、今まで私が三十数年の間でそれを見たのは、
二回しかありません。
その人は、心情的にあまりにも強い人でした。
その人は先生が自分のために犠牲になっている
ということをよく分かっていながら、
周りの人の言うことを聞かないで、
自分のやり方に固執していたのでした。
その人によって大勢の人が迷惑を受けたのです。
それでたくさんの人から讒訴(ざんそ:そしり訴える、悪口を言う)されていました。
そういう状態はその人に良くないので、
先生が代わりに打ってあげ、それで
讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。
にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、
その人が引っかかります。
先生が打って許したからには、
その人を愛さなければいけないのです。
☆
先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、
もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、
もっともっと遠ざかってしまうのです。
目的とは全然異なった方向に行ってしまうのです。
それは、その人を教え導くという美名のもとで、
自分の感情を拡散したからなのです。
先生に叱られると、叱られる前よりも
もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。
そういう心がない時には、慎まなければいけません。
それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。
相手が本当に自分を愛してくれている人だ、
心配してくれているんだというふうに、
相手に認められて、話してやらなければなりません。
その時には厳しく言ってもいいのです。
U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「どのようにして叱るのか」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第七章 何よりも神のものを愛す
「どのようにして叱るのか」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
再編集 文責:ten1ko2
文中に30数年と出てきていますが、
お父様(文先生)と金元弼先生は、
1946年に出会われています。
ですから、今から50年ほど年前に語られたものです。
その当時や、戦後間もなくであれば、
体罰も当たり前だったり、
「殴る」ということも、その当時では
まだ一般によくあったのかもしれません。
時代背景をご理解ください。
現代は暴力や体罰はなくなってきたとはいえ、
人を叱るというのは、簡単ではないと思います。
相手のために言っていたとしても、
相手がどのように受け止めるか、ということが問題です。
また、正論が時として、人を傷つけることにもなります。
言葉というのは、簡単に武器にもなってしまいます。
今、「切り抜き」と言われるようなことが流行っていますが、
どのような思いで語られているのか、
切り抜いた人の思惑が絡んでしまうと、
間違えた捉え方になってしまいます。
人にあれこれ指摘するよりも、
まずは、私自身が正しい心情で
言葉を発する努力をしないといけないな、
そのように思います。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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