2023年07月12日

厳しく言ってもいい場合、ダメな場合 ほっぺを叩いても感謝される叱り方 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言。
『何よりも神のものを愛す』から
今回は、「どのようにして叱るのか」です。

どのようにして叱るのか

あるメンバーに問題があった時に、まず、
その人の良くないところを見て、
「これをこう教えなければいけない」
という心をもつのが当然です。

ただ、その人を正しく導いてあげよう
ということを目的としなければなりません。

ところがその時に、自分の感情が介入すると大変です。
多くの場合は、そうなっています。
何回も教えてあげたにもかかわらず
守らないという時に、自分の感情は良くないのです。

そういう中でその人に、「こうしなさい」
と言うのはまずいのです。
それは正しく導くという美名に隠れて、
自分の感情を拡散しているのです。

動機が良くないがゆえに、叱りつけたりすると
心が不安になります。
叱られた人も気持ちが良くありません。

もし本当にその人のために叱ってやった時には、
叱られた人は喜びの心、感謝の心をもつものです。
そうでない時には、寂しい心が残ります。


厳しく話すのは悪くありません。

その前に相手から、どんなことを言っても
彼は私のために言ってくれる人であると
認められる期間をもたなければいけません。

彼は私のために食べないこともあるし、
私のために涙を流し、私のために
愛してくれる人だと認めたら、
ほっぺたを殴られても感謝するのです。
絶対に殴られたとは考えないのです。

ところが、そうでない時に打ったりするから、
恨みが残るのです。


もし、そういう気持ちがないのに、
ひどく叱ったとしましょう。
そういう準備なくして叱ったとします。

その時には、そうした後で慰めてやらなければいけません。
「私がこのようにしたのは実は
お前が善くなるようにと思ってしたのだから、
よく理解してほしい」と言って
慰めてあげなければいけないのです。

そしてその人が、「はい、分かりました。
心配しないでください」というところまでいって、
初めて終わるのです。


時には、どんどん話したら、
泣きながら出て行く人がいます。
それは忠告した目的が達成できなかった時です。

そういう時には訪ねて行って、
その人が、私に言われる前のように
気持ちの快い状態に返るようにしてあげなければいけません。
 
だから、人に「こうしてはいけない」
ということは、そんなにたやすいものではないのです。


人は、自分が誤っていることを
自分自身で分かっている場合があります。

その人に、「お前はこれが悪い」
と言ってあげたら、もっと感謝の心が
起こるようにならなければいけないのに、
気持ちが良くなくなることがあるのです。

人間は人に言われて完成するのではなく、
直接神に向かうようになっているからです。

ですから、そういう時には、
その人のために祈ってあげ、
その人のために尽くしてあげるのです。

 
ですから人を打つにも全部準備して打たないとだめですよ。
忠告するにしても、その人が誤解したらどうしようかと、
全部考えて話さなければいけません。

良くないことを厳しく言うのは、絶対に必要です。

厳しさにも、二つの種類があります。
冷たくする方法と温かくする方法です。

「悪い」と言われたら、もっと反抗心が出てくる人には、
温かさで接しなければいけません。

硬いものに硬いもので向かったら、全部砕けてしまいます。
硬いものには軟らかいもので、
軟らかいものには硬いもので向かうのです。

人によって違うのです。
静かに話してくれればいいという人と、
悪いのをあっさり悪いと言ってくれるのを好む人もいます。
人をよく見て話してやることです。


先生は(ごくまれには)殴ることもあります。
ただ、今まで私が三十数年の間でそれを見たのは、
二回しかありません。

その人は、心情的にあまりにも強い人でした。
その人は先生が自分のために犠牲になっている
ということをよく分かっていながら、
周りの人の言うことを聞かないで、
自分のやり方に固執していたのでした。

その人によって大勢の人が迷惑を受けたのです。
それでたくさんの人から讒訴(ざんそ:そしり訴える、悪口を言う)されていました。

そういう状態はその人に良くないので、
先生が代わりに打ってあげ、それで
讒訴していた人の心をすっきりさせたのです。

にもかかわらず、さらに讒訴する人がいるとすれば、
その人が引っかかります。
先生が打って許したからには、
その人を愛さなければいけないのです。

 
先生の場合とは反対に、私たちが叱りつけると、
もっと近く、もっと愛するようになるのではなく、
もっともっと遠ざかってしまうのです。

目的とは全然異なった方向に行ってしまうのです。
それは、その人を教え導くという美名のもとで、
自分の感情を拡散したからなのです。

先生に叱られると、叱られる前よりも
もっと近く感ずるし、もっと愛を感ずるようになるのです。
そういう心がない時には、慎まなければいけません。

それに、ただそういう心をもっているだけではいけません。
相手が本当に自分を愛してくれている人だ、
心配してくれているんだというふうに、
相手に認められて、話してやらなければなりません。

その時には厳しく言ってもいいのです。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「どのようにして叱るのか」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

再編集 文責:ten1ko2


文中に30数年と出てきていますが、
お父様(文先生)と金元弼先生は、
1946年に出会われています。
ですから、今から50年ほど年前に語られたものです。

その当時や、戦後間もなくであれば、
体罰も当たり前だったり、
「殴る」ということも、その当時では
まだ一般によくあったのかもしれません。
時代背景をご理解ください。

現代は暴力や体罰はなくなってきたとはいえ、
人を叱るというのは、簡単ではないと思います。

相手のために言っていたとしても、
相手がどのように受け止めるか、ということが問題です。
また、正論が時として、人を傷つけることにもなります。

言葉というのは、簡単に武器にもなってしまいます。
今、「切り抜き」と言われるようなことが流行っていますが、
どのような思いで語られているのか、
切り抜いた人の思惑が絡んでしまうと、
間違えた捉え方になってしまいます。

人にあれこれ指摘するよりも、
まずは、私自身が正しい心情で
言葉を発する努力をしないといけないな、
そのように思います。




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posted by ten1ko2 at 10:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする