2023年07月18日

自分のことが心配な私たち 神様の事情がわかりますか 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



200801-1885GustaveDore.jpg


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「主の事情が分からなかった弟子たち」

 
イエス様が、「あなたがたの中に私を裏切る者がいる」
と語られているのに、弟子たちは(イエス様の気持ちも知らず)、
「今からエルサレムへ上って行くならば、
私たちの中でだれが一番偉いのか」と言い争いました。

そこでイエス様は、
「異邦の王たちはその民の上に君臨し、
また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
しかし、あなたがたは、そうであってはならない。
かえって、あなたがたの中で一番偉い人は
一番若い者のように、指導する人は
仕える者のようになるべきである」(ルカ二二・二五、二六)と語られました。

イエス様は、去るための準備として
過越の祭の用意をされているのに、
弟子たちは一人も分からずにいました。

今日、私たち自身も、「果たして、
天の事情を中心として天の恨を抱いた私なのか?」
と自問してみる必要があります。

天のためにいると言う者は多いけれども、
果たして天の心情をもった私でしょうか? 

イエス様の前に輪を描いて座った弟子だけが
そうなのではなく、私たちはどのような
気掛かりと心配をもった「私」ですか? 

天の恨を抱き、天の願いのために生きようとする
「私」なのか、どのような気掛かりと
心配をするようになる「私」なのか、反省しなければなりません。

世の中全体が大路を行くのに、世の中のすべてと
違う道を行かれ、同行しようとする群れを
探し求めることができなかった主は、
いかばかり恨が多かったでしょうか? 

ゲッセマネの園で三弟子までも居眠りしているのに、
できるならばこの杯を免れさせてくださいと祈祷なさった
イエス様は、今からでも三弟子が目覚めて
主と共に十字架を背負うことのできる決意を
もってくれることを願われ、祈祷なさったのです。

主の恨を相続すべき信仰者であるならば、
天のみ旨のゆえに祭物になっていく主の心情が、
自分の胸の中に相続されているかどうかを
問うてみなければなりません。

天は、私に合わない事件や逆境を与えて、
私が正しく悟れるようになさるのです。

急に口惜しいことにぶつかるとき、
み言の心情をもってその事件を
解決することができるかできないかによって、
自分自身が天の側なのかサタンの側なのかの
判決が出るようになります。

一九七九年五月二十日 韓国本部教会
李耀翰

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
再編集 文責:ten1ko2


主に出会って愛された喜びはあっても、
深い天の心情までは悟ることができなかった弟子たちでした。

「神様は天の父母様である」
基元節以降、このことを語られたのは、
真のお母様です。

しかし、実際には、それ以前に
真のお父様も神様は父母である、
と語られています。

時代の勝利圏が拡大されたので、
神様の本当の姿を示すことのできる
今この時を迎えているのだと思います。

父母なる神様に祈りを捧げることにより、
今までとは違う恩恵を受けることが出来る時だといいます。

その恩恵を最も受けることのできる場が、
まさに天心苑祈禱室です。

清平の地だけでなく、
日本の各教会にも連結されています。

神様・父母様の心情を求めつつ、
天心苑で深い精誠を捧げていきたいと思うのです。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


posted by ten1ko2 at 08:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする