2023年07月28日

できる人だから迫害される?! イエスの場合 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



181212 gessemane.jpg


李ヨハネ先生のみ言。
今回は、「捨てられた群れを訪ねていかれたイエス様」です。


イエス様は、家庭から捨てられ、
教会からも捨てられ、選民であった
イスラエルの民からも捨てられました。
ベルゼブルだと追い詰められました。

選民に期待して来られたメシヤは、
仕事をすることができませんでした。

愛の実体であられるイエス様は、
かわいそうな人々や捨てられた人々を
探し求め始めました。

ご自身と同じく捨てられた者の世界へ訪ねていって、
そこで愛と哀れみを施し、
ご自身を必要とする人たちを相手にされました。

ユダヤ教は違うといいますが、
ユダヤ教の指導者たちができないことをなさる方でした。


世の中には、自分より出来の悪い者を
迫害する法がありません。

迫害は、実力のない側から実力のある側にするのです。


イエス様は、家庭と教団を失ってしまいましたが
大衆の中で基盤を確保し、教会をつくり、
その教会の中で家庭を成さなければならなかったのに、
弟子たちにまで不信されて立つ位置がありませんでした。

イエス様を中心とした天の権勢を
地上に引っ張り降ろさなければならない
弟子たちだったのに不信してしまいました。

イエス様が十字架にかけられたのは、
弟子たちにも原因がありました。

もちろん、マリヤがイエス様に神の息子として
仕えたならば、そしてマリヤの親戚たちが
イエス様に仕えたならば、マリヤを中心とし
てユダヤ教会で神霊に満ちたユダヤ教信者たちが信じて、
祭司長たちにまで連結される道があったのです。


ところがイエス様が三弟子を連れて
ゲッセマネの園で「十字架を免れるようにしてください」
と祈られたのを見るならば、
三弟子に未練をもって連れて行かれたことは明らかです。

イエス様が、この地上で信仰基台と
実体基台が成就されてこそ、
存在することのできる位置が準備されるようになっています。

このように信仰者は、信仰の子女を
導くことができないならば
心霊の成長に問題が生じるようになります。


恨を抱くならば火がつきます。
恨を抱き火をつけようとするとき、
地上でつかなければ霊界ででもつくようになっています。

信仰が生きた、死んだというのは、
その人の恨と嘆息の内容が何なのかで
知ることができます。

自分の事情による恨は、
内なる人(霊人体)が死ぬような
問題の種になりますが、
主の恨を抱くならば
内なる人が永生するようになるのです。

イエス様の弟子たちは、
奇跡を見てイエス様と共に迫害を受けながらも、
主の恨多い事情を知ることができませんでした。

恨は、どこから相続されるのかといえば、
迫害を受け口惜しい立場で相続されます。

一九七九年五月二十日 韓国本部教会
李耀翰

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢
U 復帰摂理の恨
恨の多い主
再編集 文責:ten1ko2


神様はイエス様の基台になる人物を準備していました。
特に、ザカリヤ家庭の人達がその中でも、
最も基台になる中心人物でした。

霊的な恩恵を受けているときには、
基台になっていましたが、
そのあと、信仰を継続できずに、
イエス様の基台になることはできませんでした。

私達もみ言を聞いた時には、本当に復興して、
復活してみ旨を歩んでいきましたが、
どれだけ継続しているかというと、
足りない自分しか見えないのです。

今は、天心苑祈禱の恩恵があります。
現実に飲まれることなく、
霊的に復活した土台で、み旨に取り組む
そういう時を迎えていることを思います。

お母様に感謝して、一つになることを意識しながら、
歩む時であると思うのです。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 09:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする