2023年08月19日

良心が教えてくれた──鍵が開かなかったのは 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラムの初々しい体験談、
「鍵が開かなかった理由」です。

(女性 30代)

同じ青年寮に住んでいる姉妹と一緒に伝道活動に向かう時のことです。
 何げない会話をしているときは良かったのですが、関心を持ってあれこれと相手に質問を始めると、なんだか反応が薄いのです。

 私としては「こうすれば喜ぶかな」「喜ばせたいな」と思いながら話すのですが、思ったような反応がないので、「喜んでいないのかな。いや、むしろ嫌がっているのかな」と考え始めて、気持ちが落ち込んでしまいました。



 相手の反応が悪いと自分を責め始めるというのは私の癖です。
 伝道活動を終えて一人で帰る道すがら、「こうだったのかな、ああだったのかな」と、自分では答えの出ない考えをぐるぐるさせて、暗い気持ちにはまり込んでしまいました。

 そんな気持ちを抱えながら寮に着いたのですが、今度は鍵がなかなか開きません。番号を合わせるダイヤルがうまく回らず、5分挑戦しても駄目でした。
 「私がこんな気持ちだから鍵も嫌がって開かないんだ。でも、開いてくれたっていいのに…」と、鍵のことまで責めてしまいました。

 すると、先に帰って中にいたその姉妹が気付いてくれ、中から親切にコツを教えてくれました。
 そして、思いがけないことに、「きょうはいろいろ聞いてくださって、固くなっていた心が解けてきたんですよ」と言ってくれたのです。

 姉妹の親切さ、そして意外な答えで心が解放されました。私は、相手の表情だけで一喜一憂して、一人で悩んでいただけだったのです。

 後でこの件を良心に尋ねると、「あなたに分かってほしくて、鍵を固くしたんだよ」という答えを感じました。
 鍵を責めてしまって申し訳なかったな、きょうは全部このままで良かったんだ、何も問題はなかったんだ、全部神様の愛だったのだと、納得した出来事でした。

私の心の中にいる神様 186
鍵が開かなかった理由
再編集 文責:ten1ko2


こういうことって、よくありますよね。
自分の思い違い、というのか、
変に心配ごとを背負ってしまうようなこと。。。

こちらが深刻に思うことも、
相手は意外とそうでなかったりとか。
相手の心の奥底まではなかなか読めないものです。

自己牧会プログラムを通して、心のワークをすると、
本当に良心が解放してくれるんですね。

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posted by ten1ko2 at 09:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月18日

真の父母のご馳走のみ言を、おいしく頂くためには?! 《金元弼先生・み言の消化1》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「理想的な出会い」を紹介します。


  
み言の消化について

きょう皆さんは、このベルベディアの聖日礼拝に、
「きょうはどういうお話を聞けるだろう」
という期待をもって来られたことと思います。

先生がこの場でみ言を
語ってくださっていた時には、私も常に、
「先生はどういうお話を
私たちに聞かせてくださるのだろう」
という期待をもって、
このベルベディアに来ていました。

そのように、常に私たちは
「次はどういうお話だろう」
というふうに考えて来るのです。

それ以上に私自身が先生のみ言を
承る立場に立っている時に常に考えたことは、
先生の語ってくださったみ言と自分は、
どのように一致化しているだろうかということでした。

それが成されていないと、
それ以上のみ言を理解するのが、
なかなか難しいのです。


例えていいますと、み言と一致化できていない
自分の状態というものは、
食事をしたけれども、自分の体の調子が
食べたものを消化できる状態になっていないので、
消化不良を起こしてしまうようなものです。

そういう状態の中で自分に必要なみ言は、
消化できるみ言であって、
いかに消化できるかということが問題なのです。

消化できない状態で、おいしいものを
また食べるというのは、かえって消化を
難しくすることではないか、と私はそう考えたのです。

それはつまり、自分自身が本当にみ言を
消化できていないということが分かるということです。

ですから次に受けるみ言は、
今まで消化できていなかった自分を
消化させることのできるものとして
取り替えていくのです。
これが非常に重要であるわけです。


ところで私たちは、おいしい食事
──それは先生からいただく霊的な食事のことですが──
それを先生からいただいているのですけれども、
まだ消化できていないんですね。

そういう状態で、またおいしい食事を与えられます。
そうするとおいしいのでまた食べてしまうのです。

ところが消化できていないところに、
おいしい食事をまた食べるのですから、
また消化できません。

そしてまたおいしい先生のみ言を賜わると、
おいしくておいしくてたまらないので、
また食べたくてしょうがないのです。
それでまた食べます。

するとおいしいものをいつも食べていながらも、
消化できないので、家に帰ると非常に悩む、
ということが続くようになるわけです。
皆さんは、そういう体験をしませんか。


そこで次第に、先生のおいしい食事に招待されても、
食事に出ていくのが、非常に怖くなってくるのです。

なぜなら、消化できなくて痛いのに
また食べたら、もっと痛くなるだろう
ということを考えるからです。

それを考えると招待されても行くのが怖いのです。
先生の聖日礼拝に参加してみ言を受けるのが怖いのです。
何か裁かれるように感じるのです。

そういうことを非常に感じるということは
何を意味するのかというと、消化できないところに
おいしい食事をまた食べなければならないので、
負担を感じるということなのです。
そうではないですか。

先生のみ言を最初は「非常に素晴らしい」と言いながらも、
何度かみ言を承るために出て行っていると、
いつも裁かれるように感じるようになるのです。
そうではないでしょうか。

私がこういう話をしているのは、
私自身がそういうふうであった、
ということを話しているのです。

そこで、先生のみ言と自分を
いかに一致化させるかということが、
常に私の課題になっているのです。


私たちは次から次に聞くみ言が消化できないと、
み言を聞くのが非常に苦しくなります。
だからといって「行かない」というわけにはいきません。

そこで、私たちは先生のみ言を聞くに当たって、
常に、自分が消化できていない原因を
み言の中からどんどん見付け出し、
消化させていく方向に
切り替えていくようにしなければなりません。
これが非常に大事になってくるのです。

つまり、み言に自分を引き付けていくのではなく、
自分にみ言を引き付けて、自分を消化させて
いくようにしなければならないということです。

消化できないながらも、どんどん食べるのです。
み言をたくさん受けていきながら、
それを自分に引き付けて消化させる努力をしなければなりません。

もし、苦しいからといって食べなくなってしまったら、
それは今まで盲目の人が
常に鈴の音を聞いて歩いていたようなものだったのに、
その鈴の音が全く消えてしまったということになります。

いったん鈴の音が消えてしまうと、
どこへ行ったらよいのか、
行くべき方向を消失してしまうのです。

そういうことを考えながら、
出会いについて少し考えてみたいと思います。

(「理想的な出会い」1981年9月27日ベルベディア)
再編集 文責:ten1ko2


金元弼先生は、
み言を受けることを、食事をすることに例えて、
わかりやすく説明してくださいました。

父母様が言われる内容を、受けても
そのままにしておいては、消化できないというのです。

み言の消化は、「み言との一致化」ということは、
いかにみ言と一つになるかということですね。

つまり、み言で言われたとおりに
実行し、実践し、実績を残すことでしょうか。
そのごとく勝利することではないかと思います。

み言を受けることも当然重要です。
しかし、実践しなければ、
消化不良を起こしてしまう、というのです。

消化不良だけではなく、
頭で物事を考えていたら、
いつの間にか、方向性がずれてしまう場合もあります。
み言を知的にのみ理解しようとすると、
恐ろしい方向に行きかねません。

元弼先生は、み言をさらに聞くことを通して、
『自分が消化できていない原因を
み言の中からどんどん見付け出し、
消化させていく方向に切り替えていく』
ことができると言われています。

み言通りに勝利するためには、
さらにみ言を求め続け、実践し続ける、
できなければさらにみ言を聞く。。。

その善なる実践の究極は、
神氏族メシヤ活動であると思います。
そして、み言を通して、
お母様が願われる方向に合わせていく。

昨年の事件以降、表立った活動は、できませんが、
自己伝道、そして内部伝道を通して、
み言の実践を意識していく時だと思うのです。





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2023年08月17日

つい、自分を責めていませんか 《橘先生*一番大切な人と・・》



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Blessed Lifeより、橘幸世先生の書籍
『いちばん大切な人と仲良くなれました』から、
「つい自分を責めがちになりませんか?」を紹介します。
 
第1章 自分のベストフレンドになる
― 自分を嫌っていませんか?

つい自分を責めがちになりませんか?

不登校を扱ったテレビ番組で、
ある父娘(おやこ)のケースが紹介されていました。

父親は娘をとても愛していましたが、
立派に育てなければと厳しく接し、
娘は父の期待に応えようと勉強を頑張ります。

学校でいじめに遭いますが、そんな自分は
父の期待像から外れているので、黙っていました。

しかし、やがて彼女は限界に達し、
「学校には行きたくない。こんな私で
(お父さんの願うような娘でなくて)ごめんなさい」
と父親に打ち明けます。

娘のただならぬ様子に、父は
「分かった。行かなくていいよ」と全面的に受け止め、
父娘関係は新しい次元へと移ります。

期待の枠から解き放たれた娘は、
フリースクールに通うようになり、
笑顔が戻ります。

そして、「以前は、お父さんの顔が
怪物のように怖く見えた。
今は、お父さんが愛してくれていることが分かる」
と語るのでした。

(「怪物のように怖く」とは、
親の立場にいる者にとってはなかなか衝撃的です)


この言葉を聞いて、「ああ、父親は
ずっと娘を愛していたんだけれど、
それが伝わらなかったんだ。
“かくあるべき”“期待”という壁にブロックされて、
彼女には父親の愛が見えなかったんだ」と思いました。

神様が神霊と真理で私たち人間を導かれるように、
親も愛と規範をもって子を育てます。

愛と規範、どちらが欠けても、
どちらに偏りすぎても支障が出ます。

愛していながらも、「きちんと育てなければ」
という思いが前面に出ると、
この父娘のように、愛が伝わりづらく
なってしまうのかもしれません。


一般的に、信仰者の家庭に生まれた子供は、
ややもすると自己肯定感が低くなりがちと言われます。

何か悪い事が起こると、
自分のせいではないかと不安になるのです。

厳格な戒律が強調される信仰ほど、
その傾向は強いかもしれません。


素朴な生活を今なお堅持するキリスト教の一派、
アーミッシュの少女を主人公とした物語の中で、
偶然彼女と言葉を交わした精神科医が、
「あの共同体の子に共通して見られるように、
彼女も自己肯定感が低い」と言っていたのが印象的でした。

また、アルジェリア出身の友人が
「イスラム教の戒律のもとで育った自分は、
(かつて)道に何か落ちているのを見ても、
自分が悪いことをしたのではないかと
不安になった」と話してくれたことがあります。


神様も親も、愛してくれている、
許してくれる、と頭では分かっていても、
自分に非があるのではと考える癖がついていると、
誰が責めなくても、勝手に自分が責めます。

天の前にきちんと清算したにもかかわらず、
過去の負債をずっと引きずっている人もいます。

愛と許しを受け取りきれないと、
心に重しがのっているようではないでしょうか?

復帰途上、成長途上の私たちは
不足な点があって当然です。

子供の成長を見守る親は、子供が
(できない事で心配する以上に)
できるようになった事を見て喜ぶものです。

自分を責めがちな人は、
そんな親(神様)の愛情をもっと信じ、
受け止めて、良い意味で楽になりましょう。

橘幸世・著(光言社・刊
『いちばん大切な人と仲良くなれました』より)

https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=15477
スマホで立ち読み Vol.16
『いちばん大切な人と仲良くなれました』2
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


やはり、愛というものは、
相手にしっかり届いているか、
それが大事なのだと思います。

比較的長かった今年の夏休みも
昨日で終わりました。

この期間、子供たちと一対一の授受をしようと思い、
妻と私それぞれが、4人の子供たちと話すのは、
時間とお金の負担があるので(笑)、
私と妻2人で、4人の子供たち順番に、
4回授受する時間を作りました。

子供たちはどう感じたのかわかりませんが、
家に一緒にいながらもあまり深い授受をしないので、
こういった場を設定することが貴重だな、と思いました。
ちゃんと愛が届いているのかは、本人たちに確認していませんが。。。


また、私自身も親なる神様に対して、
自分の足りなさばかりを感じて、
負債に思うことばかりです。

自分の弱い部分、足りない部分のみを見るのでなく、
「それでも愛されているのだ」
そんな感謝の心情を土台にして、
日々の歩みをしていきたいと思うのです。

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posted by ten1ko2 at 07:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする