2023年08月13日

夏の思い出*登山と川原でスイカ割り… 150人分のカレーライスのご褒美は 《日本を愛した足跡》



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城山の頂上でみ言を語られる文鮮明先生


文鮮明先生(真のお父様)が聖和されて
もうすぐ11周年を迎えます。

Blessed Life で、
「日本を愛した文先生の足跡」と題して、
再連載しています。

その中から、五日市特集をご紹介します。


  先頭に立って登山される文先生の足跡をたどって

1967年7月1日、文鮮明(ムン・ソンミョン)先生は
「原理大修練会(6月17〜30日)」を終えた修練生を伴って、
東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市五日市)へ行かれました。

午前7時半、総勢約150人は2台の大型バスで出発。
2時間ほどで、城山という小さな山のふもとに着きました。

文先生は先頭に立って一気に登られます。
続くメンバーは、狭い山道を踏みしめ、
急な岩道に足場を求めながら、
まさに文先生の歩まれた道を、文先生の足跡の上を、
こうして実体的に歩いているんだという感激に浸りました。

頂上では全員が文先生を半円形に囲んで座り、
声を張り上げて歌を歌いました。


下山すると、秋川(多摩川の支流)の川原に降り、
遅くなった昼食を食べました。

それは近くの菅沼志づさん宅で作られた
150人分のカレーライスでした。

数日前、菅沼さんの家には文先生ご一行
5人が行かれるかもしれないという連絡が、
教会から入っていました。

ところが実際は5人ではなく
150人を迎えることになったのです。

費用は教会と菅沼さんとで負担することになりました。
しかしその直後、菅沼さんは教会に電話をかけ、
経費はすべて自分が引き受けると伝えたのです。

 
  「最高の言葉をあげるよ」

菅沼さんは150人分のカレーライスや
スイカなどを準備するために奔走し、
手元に残ったお金は1500円でした。

この日、孝進(ヒョウヂン)様(当時4歳)が遊んで服を汚され、
着替えが必要になったとき、菅沼さんは
子供服を買いに行く婦人にその1500円を渡しました。
汚れた服と同じ物を
ちょうど1500円で買うことができたといいます。


文先生は菅沼さんに「最高の言葉をあげるよ」と言われ、
「精誠」と「忠孝之源 誠心誠意」という言葉を
色紙に書いてくださいました。

川原ではカレーライスを食べながら
スイカ割りが行われ、
その後、東京地区対その他の地区
という組み合わせで騎馬戦も行われました。


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秋川の川原で水遊びをされる文孝進様(当時4歳)

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文先生が書いてくださった色紙「精誠」「忠孝之源 誠心誠意」と文先生が色紙に書かれたときに使われた硯(すずり)と筆(菅沼志づさん所蔵)


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騎馬戦が行われた秋川の川原
昔、キリスト教の宣教師が洗礼を行ったことにちなんで「耶蘇淵(やそぶち)」と呼ばれている


(参考/『成約週報』第5号『ファミリー』1999年8月号)

(光言社『グラフ新天地』386号[2000年9月号]
「日本を愛される文先生の足跡」より)

【文鮮明総裁聖和節記念】
日本を愛した文先生の足跡 5
〜 五日市 〜

(blessed life)
再編集 文責:ten1ko2


五日市の菅沼家に訪問されたことは、
聞いたことがありますが、
とても詳細な感動的な証しを
紹介してくださり、感謝します。

すべてを捧げつくされ、
残った1500円も孝進様のシャツ代として、
使われたとのこと。。。

残った三文で、草鞋を買ってしまった、
「趙家の過ちを繰り返すな」という、
文家の家訓を思い出しました。

すべて捧げたことに対して、
お父様は、「最高の言葉をあげるよ」
と、揮毫を残してくださいました。

真のお父様と過ごした
忘れられない思い出と共に、
頂いた肉筆の揮毫は
本当に宝物ですね。

受けた愛以上をお返しされる
父母様であるなぁと思います。

私たちに対する、
生きた教訓を残してくださった
真のお父様と、菅沼さん
そこにおられた先輩食口の皆さん、
敬愛し、感謝申し上げます。




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2023年08月12日

文先生の説教が長い理由 受ける器をきれいに準備しよう 《金元弼先生》



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「何よりも神のものを愛す」最後のみ言となります。
今回は、「聖別してみ言を受ける」です。


神の復帰摂理は、ただメシヤ一人だけを
求めるとするならば時間はたくさんかからないでしょう。
一人だけを救うとするならば、救いの摂理は早く終わるでしょう。

先生のみ言も一人だけに恵みを与えるとするならば、
たくさんの時間はかからないでしょう。

すべての人に恵みを与えたいという心があるから、
先生がみ言を語られる時間は長くなるのだろうと考えます。

先生は非常に疲れていても、
長く話されるのはどうしてでしょうか。
それは私たちのためです。

それも何人かのためだけではなく、
来たすべての人が神の恵みを
たくさん受けるようにするためなのです。

たくさんの子供がいた場合、親が何人かの子供にだけ
物をあげて、ほかの子供にあげなかったならば、
その子供たちは寂しい思いをするでしょう。

ですから全部の子供に与えて、
喜んで帰るのを見たくなるのです。


私たちはその心が分からないから、
「ああ、もう話は早く終わってほしい。
もう寝たい」と言うかもしれません。

しかし先祖は、「もっともっと聞いてくれ」
と願っているということを忘れてはいけないと思います。

先生のみ言の価値が分かる霊は、
子孫がなぜ聞かないのかと焦るのです。
後孫がみ言を聞くように、目が覚めて早く聞くように願うのです。

 
皆さん、このように考えてみてください。
学校で勉強しているところへ、
親が授業参観に来たとしましょう。

先生が何人かの子供にだけしか発表させなかった
とすれば、親はどう考えるでしょうか。

自分の子供にもチャンスを与えて、
発表させてくれたらいいのにと考えるのです。

時間がオーバーしても私の子供に
チャンスを与えてくれるように願うものです。

 
そのように、先生は一人一人にまでも
恵みを与えてあげたいという心が常にあり、
話も長くなることがあるのです。

お医者さんが治療していて、手術の時間を
五時間と決めたけれども、五時間では治りそうもなくて、
もう一時間やれば治るという時に、
時間がきたといってやめるでしょうか。

一時間延長しても手術してあげるでしょうか。


私たちは、先生のみ言が長くなったら、
十時間も話してくださる先生がかわいそうだ、
だから先生は話を短くしたらいいのにと考えますか。

そうではなく、私の体がきついから先生のみ言が入らない、
短ければもっと分かるのに長いから疲れて頭に入らない、
それが私たちが指導している教会員の考えです。

それよりも、先生がこんなに長く話されるのは、
私たちが分からないからだろうと考えるのです。

私たちが早く分かったら、
先生は短く話すこともできるのです。
そしたら先生も楽になるだろうと
考えなければいけないと思います。


では、先生のみ言を短くして、先生がみ言をたくさん
語ることで苦労させないようにするためには
どうしたらいいのでしょうか。

どうしたら先生は楽になれるのでしょうか。
先生が楽になれば私たちも同時に楽になるのです。
そう考えなければいけないと思うのです。

それではどうしたら良いのでしょうか。
それには道があります。

それは、私たちがメンバーをよく教えて、
先生のみ言を聞く前に私たちのすべてを聖別して、
先生のみ言を聞くためにすべての心情を
備えるとするならば、先生のみ言は
早く終わるようになるでしょう。

 
また、器に神の恵みを入れるのだと考えてみます。
器の汚いものをきれいにするのは私たちの仕事です。

ところが私たちが責任分担を果たさないので、
先生御自身が私たちの責任分担も
全部やってくださるのです。

自分できれいにしておいたら
一時間で器にいっぱいになるのです。

そうではないから説教は三時間もかかるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第七章 何よりも神のものを愛す
「聖別してみ言を受ける」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


説教を語られる時間に関して、
真のお父様は、元弼先生が語られるように、
参加している食口一人一人のために
長い時間説教をされるのが、常でした。

ところが真のお母様は、
「30分以内に説教を終えて」
と指示されたこともあり、
み言も短いです。

この部分に絞ってみてのことですが、
意外にお父様の方が繊細なのかな、と思わされます。

いずれにしても、愛を動機として、
語られるみ言です。

すべてを把握することは難しいですが、
私のために必要なみ言が、必ず与えられるのだ、
そのように求めていきたいと思わされます。




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posted by ten1ko2 at 08:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月11日

良心が勧めてきたのは、自分が絶対したくないことだった 《自己牧会プログラム》



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「自己牧会プログラム」の体験談です。
連日の投稿になってしまいますが。。。
今日は、祝福2世の女性の証しです。

(女性、20代)

私は公職者(教会の職員)の両親のもと、
一人っ子として育ちました。

私が3歳の時のことです。
「安侍日(アンシイル)」の朝、あまりの眠さに
だだをこねて、母に当たり散らしてしまったことがありました。

するとそれを見た父がキレて、私を玄関まで
引きずっていき、「出て行け」と言ったのです。

以来、そのことが恨みになり、
父に対して完全に心を閉ざしてしまいました。

遊びに連れていってもらっても楽しくなかったし、
親子らしいけんかもしたことがありませんでした。


ところが、大学生になって21修に出た時、閉講式で、
「親の愛を父親からも母親からも感じられないと、
本当の意味で天の父母様の愛を感じることはできない」
という話を聞いたのです。

衝撃でした。
帰りの電車の中でも、そのことが忘れられず、
悶々(もんもん)としました。

私は必死で、「どうしたら
お父さんの愛を感じられるのだろう」と良心に尋ね求めました。


心の整理がつかないまま家に着き、
母に21修の報告をしていたところ、
「(単身赴任中の)お父さんにも電話したらいいよ」
という良心の声が聞こえてきたのです。
しかも、「テレビ電話がいいね」と。

それまで自分から父に話し掛けたことはなく、
ましてや電話をするなどもってのほかでした。

うろたえる私にお構いなく、良心は
「電話したらいいよ」と言い続けるのです。
激しく葛藤しましたが、ついに
「良心の声に従ってみよう」と心を決めました。


いざiPhoneの画面に父の顔が映ると、戸惑いましたが、
父の目をじっと見詰めた時に、
小さい頃の父との良い思い出がよみがえってきました。

公園で遊んでもらったこと、プールに連れていってもらったこと、
アイスを買ってもらって一緒に食べたことなどが、
走馬燈のように浮かんできたのです。

その瞬間、「ああ、私は愛されていたんだ」
という実感が心の底から湧き上がってきました。

そして自然に、
「今まで本当にありがとう。お父さん、愛しています」
という言葉が口を突いて出てきたのです。
自分でも不思議でした。


その時、私は初めて父の涙を見ました。
祖父の葬式でも泣かなかった父が、画面の向こうで泣いていたのです。

また、私と父の会話を
台所でキュウリを切りながら聞いていた母も、
泣いていました。
家族が愛で一つになった瞬間でした。

私の良心は、私が一番したくないことを
提示してきたけれど、その声に聞き従うことによって、
何倍もの喜びが返ってきました。

良心は、私が幸せになるように
明確に導いてくれる第二の神様です。

私の心の中にいる神様 4
私を幸せに導いてくれる良心
再編集 文責:ten1ko2


感動的な証しでしたね。。。

おそらく、お父さんは、娘さんに対して、
3歳の時のことを覚えていて、
ずっと負債に思っていたんでしょう。

お母さんも、お父さんと娘の関係をどうしたらいいか、
本当に悩んでいたでしょう。

しかし、娘さんの良心が
今までの穴、すべてを埋めてくれました。

良心は、第2の神様であり「私」の神様だといいます。
本当にそうだと思います。

娘さんは、21修に参加され、
自己牧会プログラムを受けるような、
とても信仰的な方でしたから、
より、良心が働きやすかったのかもしれません。

問題は、良心に従って、
実践するかどうかです。
娘さんも良心の声を聴いた時、
お父さんに電話をかけなければ、
感動的な証しは生まれなかったでしょう。

「私」に働く、良心の声を謙虚に聞いて、
実践できる強い意志を持ちたいと思います。

どんな人にも良心があります。
家族や周りの人たちの良心を働かせるような、
善なる授受をしていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 08:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする