Blessed Lifeより、橘幸世先生の書籍
『いちばん大切な人と仲良くなれました』から、
「つい自分を責めがちになりませんか?」を紹介します。
☆
第1章 自分のベストフレンドになる
― 自分を嫌っていませんか?
つい自分を責めがちになりませんか?
― 自分を嫌っていませんか?
つい自分を責めがちになりませんか?
不登校を扱ったテレビ番組で、
ある父娘(おやこ)のケースが紹介されていました。
父親は娘をとても愛していましたが、
立派に育てなければと厳しく接し、
娘は父の期待に応えようと勉強を頑張ります。
学校でいじめに遭いますが、そんな自分は
父の期待像から外れているので、黙っていました。
しかし、やがて彼女は限界に達し、
「学校には行きたくない。こんな私で
(お父さんの願うような娘でなくて)ごめんなさい」
と父親に打ち明けます。
娘のただならぬ様子に、父は
「分かった。行かなくていいよ」と全面的に受け止め、
父娘関係は新しい次元へと移ります。
期待の枠から解き放たれた娘は、
フリースクールに通うようになり、
笑顔が戻ります。
そして、「以前は、お父さんの顔が
怪物のように怖く見えた。
今は、お父さんが愛してくれていることが分かる」
と語るのでした。
(「怪物のように怖く」とは、
親の立場にいる者にとってはなかなか衝撃的です)
☆
この言葉を聞いて、「ああ、父親は
ずっと娘を愛していたんだけれど、
それが伝わらなかったんだ。
“かくあるべき”“期待”という壁にブロックされて、
彼女には父親の愛が見えなかったんだ」と思いました。
神様が神霊と真理で私たち人間を導かれるように、
親も愛と規範をもって子を育てます。
愛と規範、どちらが欠けても、
どちらに偏りすぎても支障が出ます。
愛していながらも、「きちんと育てなければ」
という思いが前面に出ると、
この父娘のように、愛が伝わりづらく
なってしまうのかもしれません。
☆
一般的に、信仰者の家庭に生まれた子供は、
ややもすると自己肯定感が低くなりがちと言われます。
何か悪い事が起こると、
自分のせいではないかと不安になるのです。
厳格な戒律が強調される信仰ほど、
その傾向は強いかもしれません。
☆
素朴な生活を今なお堅持するキリスト教の一派、
アーミッシュの少女を主人公とした物語の中で、
偶然彼女と言葉を交わした精神科医が、
「あの共同体の子に共通して見られるように、
彼女も自己肯定感が低い」と言っていたのが印象的でした。
また、アルジェリア出身の友人が
「イスラム教の戒律のもとで育った自分は、
(かつて)道に何か落ちているのを見ても、
自分が悪いことをしたのではないかと
不安になった」と話してくれたことがあります。
☆
神様も親も、愛してくれている、
許してくれる、と頭では分かっていても、
自分に非があるのではと考える癖がついていると、
誰が責めなくても、勝手に自分が責めます。
天の前にきちんと清算したにもかかわらず、
過去の負債をずっと引きずっている人もいます。
愛と許しを受け取りきれないと、
心に重しがのっているようではないでしょうか?
復帰途上、成長途上の私たちは
不足な点があって当然です。
子供の成長を見守る親は、子供が
(できない事で心配する以上に)
できるようになった事を見て喜ぶものです。
自分を責めがちな人は、
そんな親(神様)の愛情をもっと信じ、
受け止めて、良い意味で楽になりましょう。
橘幸世・著(光言社・刊
『いちばん大切な人と仲良くなれました』より)
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=15477
スマホで立ち読み Vol.16
『いちばん大切な人と仲良くなれました』2
(Blessed Lifeより)
『いちばん大切な人と仲良くなれました』より)
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=15477
スマホで立ち読み Vol.16
『いちばん大切な人と仲良くなれました』2
(Blessed Lifeより)
☆
再編集 文責:ten1ko2
やはり、愛というものは、
相手にしっかり届いているか、
それが大事なのだと思います。
比較的長かった今年の夏休みも
昨日で終わりました。
この期間、子供たちと一対一の授受をしようと思い、
妻と私それぞれが、4人の子供たちと話すのは、
時間とお金の負担があるので(笑)、
私と妻2人で、4人の子供たち順番に、
4回授受する時間を作りました。
子供たちはどう感じたのかわかりませんが、
家に一緒にいながらもあまり深い授受をしないので、
こういった場を設定することが貴重だな、と思いました。
ちゃんと愛が届いているのかは、本人たちに確認していませんが。。。
☆
また、私自身も親なる神様に対して、
自分の足りなさばかりを感じて、
負債に思うことばかりです。
自分の弱い部分、足りない部分のみを見るのでなく、
「それでも愛されているのだ」
そんな感謝の心情を土台にして、
日々の歩みをしていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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