2023年10月25日

これぞ家庭連合のブランド「死生観」 大雨の聖和祝祭、しかし、どこか明るいのはなぜ?! 《田中会長記念説教》




231025-2023.1015.png


死んだらお葬式で終わりではありません。
死は新しいスタート──

普段宗教に疎遠な方々も
宗教的な儀式に立ち会うことがあるのが、
いわゆる冠婚葬祭といわれるもの。

家庭連合でも、特に、結婚と葬儀などに関しては
どこにも負けない、家庭連合ブランドの感動的な
儀式があります。

毎年、行われる「聖和祝祭」も、
仏式では法事に当たるものですが、
どこか明るい──それは死生観によるのかもしれません。

先日雨の中行われた、聖和祝祭の様子と
田中会長の記念説教(要旨)を紹介します。



第41回「神日本聖和祝祭」
2023年10月15日、尾瀬霊園

霊界と地上界が一つになって
新たに出発することを決意

10月15日、尾瀬霊園(群馬県利根郡片品村)で、第41回「神日本聖和祝祭」が行われました。雨が降る中でしたが、たくさんの聖和家庭が集まりました。式典のようすは全国の教会にも中継され、多くの教会員たちが参加しました。


■聖和家庭が「聖和は希望」と証す

 最初に映像を視聴した後、司会を務めた神日本家庭連合の竹内啓晃副会長が、「今朝、降りしきる雨を見て、さまざまなことが頭をよぎりました。これは天の父母様(神様)、真の父母様の涙だと感じます。この涙の意味を私たち一人一人が感じ、霊界と地上界が一つになって天に捧げる時間、私たちが手を取り合って勇気を持って出発する場となるように願います」と伝えて、開会を宣言しました。

 「天一国の歌」斉唱、敬礼、「家庭盟誓」唱和に続き、徳野英治・神日本天議苑苑長が代表報告祈祷を捧げました。

次に、柴沼邦彦・尾瀬聖和家庭会理事長(777双)が挨拶に立ちました。

 柴沼理事長は、「この地には日本と世界を愛した先輩や後輩たちがいて、訪れるたびにその声を感じる」とし、「日本の官憲から拷問を受けた真のお父様が『誰よりも日本を愛しに来た』とお話されるのを聞いたとき、衝撃を受けました。その言葉に、私たちはこの国を愛さなければならないし、この国が神の願われる国になるように歩んでいきたいと思いました。そのような決意を固めて出発する式典であると思うので、共に頑張っていきましょう」と語りました。

 昨年10月から今年9月までに聖和した2470人の名簿が供えられた中央祭壇に、神日本家庭連合の田中富広会長夫妻が代表で献花をしました。

 続いて、2014年9月に次女を霊界に送った36万双家庭が夫婦で登壇し、子女の聖和後9年間の歩みを証しました。夫妻は証しの中で、「この9年間で得た結論は、聖和は希望であるということです。当然、当初は大変な心情もたくさん通過しました。しかし私たち聖和家庭は、天の涙の一端を担わせていただき、天と霊界と共に新たに出発する大きな力と恩恵を頂いたと思っています。聖和の伝統と天寶苑を切り開いてくださった天の父母様と真の父母様に、心より感謝いたします」と述べました。

 献歌の後、司会がみ言(天一国経典『天聖経』7・1・3・3)を訓読し、主礼の田中会長が記念説教に立ちました。

 田中会長は最初に、その日降っていた雨について、「天の絶望の涙ではなく、感動と希望と決意の気持ちで、新しい出発を見詰めておられる涙だと思います。これからが私たちの力を発揮する場であると確信しながら、真のお母様と一つになって超えていくために、ぜひ、一丸となって頑張りましょう!」と力強く伝えたのち、家庭連合の死生観の素晴らしさや、地上生活の大切さについて語りました。(下に要旨)

 田中会長夫妻が祝祷を捧げた後、億万歳の時間となり、本山勝道・未来人材局局長が前に立ちました。本山局長は、「真の父母様の孝情を相続して、『私たちがおりますので安心してください』という言葉を胸に、天に届くように億万歳を唱和してまいりましょう」と力強く呼びかけ、全体で億万歳を四唱して、この日の行事は終了しました。



231025-2023.1015 (2).png

記念説教(要旨)


愛で永遠を生きるために
地上で天の願いを果たしましょう

家庭連合が誇るブランドの1つは、「死生観」です。
人の死をこれほど尊ぶ宗教がどこにあるでしょうか。

先ほど訓読したみ言にもありましたが、
死は第2の出発です。

聖和式で終わりではなく、天上と地上で
共に同志として、家族として、
天の願いに生きていることを確信します。

世に生まれたのは、私たちの意思ではありません。
そうであるなら、命を与えてくださった方の
思いと願いと心情に私たちの人生を費やすことが
最も価値ある地上生活だと、改めて思います。

真の父母様は、霊界では愛を中心として生きると、
何度も説いてくださいました。
地上は愛の感性を養い、霊界で
愛を呼吸して生きられるように準備する場所です。

 
以前、大山哲夫さん(1800双)のお話を聞いたとき、
私の人生観が変わりました。

長い間、海外で活動をしていた大山さんのもとに、
日本にいらっしゃる奥様の余命が半年であると
連絡が入ったそうです。

大山さんは急いで帰国し、
奥様の余生を自宅で共に過ごしたといいます。

いよいよ余命がわずかになると、奥様が、
「霊界に来たら、私を探してね」とおっしゃったそうです。

夫が妻から受ける愛の告白として、
こんなに素晴らしいものはありません。


永生を見詰めたときに、
「霊界に行けば何とかなる」ではなく、
本当に夫婦でずっと一緒にいたいという心情を
地上で育まなければならないと、心に強く刻みました。

私たちはこの素晴らしい死生観を持ち、
地上においてあらん限りの思いを投入しながら、
聖和された方に常に語りかけ、地上生活で
天の願いを果たしていけるように努力しましょう。

きょう、たくさんの霊人もこの場で
共に過ごしておられると思います。

心を一つにして、貴きこのひとときを祝い、
新たなる決意の1日となるよう、心から念願します。


https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=9929
第41回「神日本聖和祝祭」
2023年10月15日、尾瀬霊園
中和新聞より
再編集 文責:ten1ko2


この日は雨の降る尾瀬でした。
小雨でなく、大雨。

そこに参加していた食口たちは、
式典が始まったら止むだろう・・
そのように期待されていたそうですが。。

今までは6月に開催される梅雨の時期だったとしても、
必ずと言っていいほどに、式典の最中は
雨はやんでいた尾瀬でしたが、
今回は雨でした。

私も中継を見ながら、今の解散命令請求を受けて、
天も絶対善霊の皆さま方も
悲しんでおられるのだろう、と思いました。

でも、田中会長は、
「天の絶望の涙ではなく、感動と希望と決意の気持ちで、
新しい出発を見詰めておられる涙だと思います」
と言って下さっていましたね。

今回、御嶽山噴火で犠牲になられた
祝福二世のご両親の証しもとても素晴らしかったです。
娘さんは、霊界でとても活躍されているのだろう、
そのように思いました。

そして、田中会長のみ言の中に出てくる
大山哲夫さんの証しにも感動しました。

「霊界に来たら、私を探してね」
亡くなった奥さんの最後の言葉。
田中会長も涙ぐみながら話されていました。

田中会長の言われるように、
こんな愛の告白ほど感動的な言葉はありません。。。

こういう愛のある夫婦を目指しているのが、
私たち家庭連合です。
その愛を家庭に、そして地域に広げようとしております。

日本にとっても、家庭連合は
なくてはならない存在に、もっとならなければならない。。。

絶対に家庭連合を潰さないように、
霊界の皆さま、ぜひ協助をお願いいたします。
ともによい家庭、よい国、よい世界にしていきましょう。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 

posted by ten1ko2 at 09:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月24日

教会に来るのは、牧師の言葉ではなく、神のみ言を聞きに来る 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



231024-1972soraksan.jpg


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話しの続き、
「信仰の模範となるべき牧会者」です。

 
ここに集った皆さんは、(文鮮明)先生のみ言を聞き、
愛を受け、先生お一人のゆえに
信仰する決心をし、出発したと思います。

この前、先生が韓国におられるときは、
全国の教会の総責任者が先生であられますから
小まめに巡回されました。

事実、派遣された人に牧会者の資格がありませんから
心配されて回られるのですが、
私たちはそのことが分かりませんでした。

私は自分が牧会者だから、資格があるのだと思いました。


ところが、先生が回っていかれたあとが問題でした。

食口たちが私を慕わず、言うことを聞きませんから、
統率するのも難しくなり、
責任者としては顔色(がんしょく)がなくなってしまいました。

それで私が先生に、「私は十ワットの電球であり、
先生は千ワットの電球ですから、
先生が来られるならば、ぱっと明るくなって、
すっと去られるならば、私の電気の明るさをもっては
暗くて食口たちの心霊の前に光になることができません。

教会を統率するのが難しいです。
ですから、しょっちゅう来ないでください」
と、このように分別のないことを申し上げました。

なぜならば、李牧師に会えなければ耐え難いと、
早朝から訪ねてきていた人たちが、
先生が約三日ほど来て行かれてからは
私のところへ来ません。

それを回復させようとするならば非常に難しいのです。
回復させるために
さらに精誠を尽くすならばよいのですが、
精誠を尽くさずに不平だけを言っていました。

食口たちを見れば、責めたいのです。


事実、食口たちは私の言うことを
聞きにくるのではなく、先生のみ言を聞きにくるのです。

ですから、私が先生を一番に自慢し、
先生だけに尽くして奉るならば、
「李牧師は先生にあのように立派に侍るのだなあ。
実に私たちの牧師さんは信ずるに値する」
と、このようになったでしょう。

私が食口たちより先生をもっと信じようとする
努力を見せてこそ、食口たちも私を眺め、
私を仲保者として立てて先生に向かっていくのに、
先生に関係する話はせずに
自分の話だけをしようとしますから、
食口たちの心が後ろ向きになるのが当然なのです。

おそらく、皆さんも牧会生活をしながら
難しいことは、このようなことだ
ということを感じたはずです。

教会を訪れる人の心は、慕わしさの中心、
自分の相談の中心、み言の中心を探し求めるようになります。


子供たちが外から家に帰ってきて
母親がいなければ、家に入らずに
外でずっと遊ぶのです。

そうして母親が帰ってくれば一緒に入ってきます。
家に父母がいないならば、
子供たちは分散して孤児になり、
父母がいるならば子供たちが集まります。


教会も同じです。

教会の責任者が父母らしく信仰の中心になり、
真の父母らしく手本になる信仰の人物になるならば、
食口たちの心も教会長に似て
先生の前に正しい姿勢をもつようになります。

このような教会に行ってみるならば
何かしら温和であり、熱い風が吹くと言いましょうか、
春の園と言いましょうか、
そのような雰囲気を感じます。

ところがそのような心になっていないならば、
教会内で寂しい冷たい風が吹くのを感じるようになります。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰の模範となるべき牧会者
再編集 文責:ten1ko2


あのヨハネ先生ですら、
お父様が来られたあとの説教に
葛藤された、とは驚きです。

やはり、どんな人にも
「愛の減少感」というものは、
あるのだなぁ、と思わされます。

どんな牧会者が来られても、
侍る姿勢が重要だと思います。

私自身も、本当に侍るのが大変な、
牧会者に仕えたことがあります。

その人の背後に神様を見出す、
ということが至難の業でありました。

そういう方に仕えるのも意味のあることだ、
と捉えていきました。

ヨハネ先生のみ言を通して、
私の心の姿勢が重要であると改めて感じるのです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 

posted by ten1ko2 at 08:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年10月23日

弟を異端に取られた?! 取り戻そうとした私が、統一教会に入教した経緯 《梅本先生》



231022.jpg


牧師となりたいと願うほど、熱心な
クリスチャンとなった梅本先生が、
家庭連合に出会ったのは──


家庭連合に導かれた(出会った、伝道された)
ときのことを、お聞かせください。

憲二さん
クリスチャンとなった私は、牧師になる夢を持ちつつ、
はっきりとした神の召命の “声”を待つ日々を歩んでいまし た。

そういう中、当時(1963年頃)、
大阪で会社員として働いていた私は、
通勤途中の難波や梅田の駅頭で、
不思議なキリスト教の路傍伝道を見かけるようになりました。
それが統一教会の路傍伝道でした。

よく見ると、
「今は聖書で言う終末時代、仏教で言う末法時代」
と書かれたのぼりを立てています。

聖書と仏典を同じにするようでは大異端だと思って、
私は彼らをわざわざ避けて通勤していました。


ところが、私の影響でクリスチャンになったふたごの弟が、
街頭で彼らに伝道され、二十一日間の
特別修練会(第8期。以下、特修)に行ってしまったのです。

‷弟が異端に取られた≠ニ思った私は、
何とか取り戻そうと、弟の帰りを待ちました。

特修から帰ってきた弟は、開口一番、
「キリストが再臨した」と言うのです。
それは日々、再臨を待望していた私にとって、
驚く言葉でした。

「えーっ、それはどういうことだ」と問うてみると、
弟は、修練会で記録したノートを見せながら話を始めました。


「創造原理」を聞いて感じたのは、
聖書に書かれていないことが多いが、
全体的に理路整然としているということでした。

また、キリスト教にはない「地上天国」
という考え方に興味を引かれました。

私の心が揺らぎ始めたのは、
「終末論」を聞いたときからです。

弟は、「聖書ではこの世は火で焼かれ
消滅することになっているが、
それらは全て比喩である。
火は、悪を焼き尽くす“み 言”を意味している。

その証拠にイエス様も
『わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ』
(ルカーニ・49)と言っている」 と説明してくれました。

また、「キリストは雲に乗って再臨する(ルカ二一・77)
ことになっているが、
エリヤは洗礼ヨハネとして再臨した。

そのように、キリストも
地上に生まれる形で再臨する」と言うのです。


聖書に基づいた弟の説明に
「おや、これは、尋常ではないぞ」と感じ始め、
それからは真面目に最後まで聞きました。

全てを聞き終えた私の結論は、
「ここまで言う以上は、これは正に神から来たものか、
そうでなければサタンだ。
中間はありえない」ということでした。

そこで真実を見極めるために、
私も「特修」に参加することになったのです。

慕わしきわが主、わが父母
真の父母様との思い出
「深い心情で愛してくださる方」(後編)
世界家庭8月号より
再編集 文責:ten1ko2


先生の証しを読みながら、
「噂は、噂でしかないんだな」と思いました。
梅本先生の素晴らしいところは、
疑問に思った時、自分で確かめたところです。

今のマスコミの報道は、
まさにサタン呼ばわりしている現状です。

そういう情報に踊らされることなく、
ご自身の目で確かめてほしいと思わされます。

余談ですが、ご自分で家庭連合を訪ね、統一原理を学ばれ、
YouTubeをアップされておられる方もいますね。
https://www.youtube.com/watch?v=5FvC9JfQIgQ&t=15s

梅本先生の証しはまだまだ続きます





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。