2023年10月22日

全ての人を愛したい神、私がなぜ先に選ばれたのか 神の想定内 《喜びと幸せの生活伝道》



210529-Gustave Dore - Cain and Abel offering their sacrifices.jpg


篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『なぜ私を先に選ばれたのか』です。


先に挙げた『原理講論』の
予定論の最後の記述を注意して見ると、
「その個体を先に選ばれるのである」とあります。

「先に」とは、後があるということです。
神様は私たちを召命するに当たって、
後に来る人を想定しているというのです。

私たちがその人々を復帰できると確信を持っているからこそ、
神様は私たちを先に召命しているのです。


聖書の中のアダム家庭における献祭について、
「主(しゅ)はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」
(創世記四章4〜5節)
とあります。

憤るカインに対して、神様は、
「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。

正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。

もし正しい事をしていないのでしたら、
罪が門口に待ち伏せています。

それはあなたを慕い求めますが、
あなたはそれを治めなければなりません」
(創世記四章6〜7節)
と語り掛けています。

神様はアベルの供え物を取りながらも、
カインの心に関心を持たれていたのです。


神氏族メシヤとして立てられた
私たちにとって、後の人とは誰でしょうか?

それは夫、妻、両親、子供といった
家族をはじめとするアベル圏の氏族、
そして友人・知人をはじめとした
地域社会のカイン圏の氏族です。

神様はこのような氏族圏の復帰を
どれほど心待ちにしていらっしゃることでしょう。


それでは神様は、私をなぜ先に
アベルとして選ぶことができたのでしょうか。

サタンはこの世で社会的基盤を持った
実力者であるカインを手放したくありません。

だからといって、私たちが能力のない愚か者ということではありません。
神様の心情に通じる孝行心を持った善なる群れなのです。

神様はそれぞれの氏族、家系を復帰するために
「私」を召命されたのです。

篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第二章 主と出会った者の行くべき道
一、召命と責任
なぜ私を先に選ばれたのか

(blessed lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


真の父母様は、
全人類の三分の一をかき抱こうと、
必死の歩みをしておられます。

安穏と生活している自らの歩みが
本当にいたたまれない思いに
苛まれてしまうことがあります。

真の父母様だけを見つめ、
侍る生活をしていきたい・・・
そんな思いにさせられることもあります。

先駆けて導かれたことに感謝して、
私が今、ここにいること自体が
天に愛されているのだ、ということを自覚し、
一歩踏み出せる者になっていきたいと思うのです。





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2023年10月21日

自分自身の過去・現在・未来、全てに光を送ってみたら 《自己牧会プログラム》



231021.jpg


自己牧会プログラム。
今回は、「母もつらかったんだ」です。

(祝福二世 女性 20代)

私は大学生時代から信仰生活を本格的に始めました。

教会職員として歩み出そうかという時に、
自己牧会プログラムに出合いました。

その頃の私は内的な壁にぶつかり、
祈ることもままならないという時期でした。

そんな自分の思いを、スタッフのお姉さんや
年長の婦人に少しずつ相談する中でアドバイスを受けて、
「光を投げ放つ」ワークを始めました。

自分自身の過去・現在・未来、全てに
光を送ってみたのです。


1カ月ほど続けた頃、母に対して
恨みを抱えていることが分かるようになりました。

母は海外宣教に行き、日本に帰ってきても
み旨で忙しく過ごしていました。

相談したい気持ちはありながらも、
いざ母を目の前にすると、心配させてはいけないと、
われ知らず「元気な私」をつくってしまっていました。

私の内面を母に打ち明けたことはほとんどありません。
これは教会内での人間関係でも同様のことでした。

ある婦人にこのことを話したところ、
「そうなの、じゃあお母さんは忙しくて、
娘を愛したくても愛せなかったでしょうね!」
と言われました。

不思議と涙があふれました。
母の言うに言えない事情やつらい心情というものが、
この時少し伝わってきたのです。


今まで母との連絡は事務的なことに
とどまっていましたが、先日、姉妹たちとの
食事の場面を写真に撮って送ってみました。

「いつもより豪華な物が出たよ」
とコメントを添えて…。

そうしたら母から、「きょうは私もちょっと奮発したの!」と、
やはり食事の写真が送られてきたのです。

この何げないやりとりに深い幸福を感じました。
親子の関係が変わってきたのを感じます。

それに伴い、み旨を歩む気持ちが変化してきました。
いつもは「ここまでやればいいか」という感じでしたが、
もっと頑張りたいという気持ちが湧いてくるようになったのです。

疲れがなく、心は穏やかです。
神様の愛による平安を感じさせていただき、
感謝しています。

私の心の中にいる神様 195
母もつらかったんだ
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=21508
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


このお母さんは、
「海外宣教に行き、日本に帰ってきても
み旨で忙しく過ごし」とありますので、
相当教会活動を頑張られている方だと思われます。

ただ、証しを書かれている方は、20代とのことなので、
宣教活動をされたのは、
この方が生まれる前なのかもしれません。

先輩たちの中では、子供を日本において、
海外宣教を歩まれた方も多くおられます。

親として、子供を日本に残さざるを得ない心情は
本当に計り知れないものがあったでしょう。。。

しかし、それが神様の願いであると思い、
み旨の道を貫いていかれたのです。

子供たちの中には、愛されなかった思いを抱き、
すでに大人になっていたとしても、
複雑な思いを抱えている人たちもいるでしょう。

神様、こういう家庭を、こういう子供たちを
どうぞお守りくださり、祝福してください。
そのように思わずにはいられません。。。





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2023年10月20日

解散に価するのか?! 人のため、国、世界のために生きる家庭連合信徒 《田中会長》



230202.jpg


田中会長のメッセージ
今回は、『「神霊と真理」の結実体を目指して』です。


「神は、堕落によって無知に陥った人間を、
神霊と真理とにより、心霊と知能とを
共に開発せしめることによって、
創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである」
(『原理講論』169ページ)

真のお父様が聖和されて以降、真のお母様は
事あるごとに、神霊と真理に満ちた
草創期の教会に立ち返ることを強調してこられました。

私たちは、真の父母様が強調される
「神霊と真理」という言葉をどのように理解し、
どのように向き合ってきたのでしょうか。

草創期の教会にはあって、今の教会には
失われてきているものとは、何なのでしょうか?

神霊との共鳴

『原理講論』には、「神霊は無形世界に関する事実が、
霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、
これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識される」
(168ページ)とあります。

これは、本来、人間は霊人体と肉身の相互作用を通して、
霊界の事実を生理的に認識できるということです。

そのためには、まず霊的五官の感性が
磨かれなければならないということになります。

永生の世界である霊界の核心価値は
「真の愛」であることを、私たちは学び続けてきました。

霊界は愛を呼吸して生きる所です。

すなわち、霊的五官の成長とは、愛を生命とし、
愛に共鳴し、愛の喜びを感受できる力の成長です。

真のお父様のみ言に、
「神霊とは何ですか。
 一時的、配分的な霊力や霊的作用のことを
 いうのではありません。
 真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、
 共鳴することができる神様の愛の力です」

(天一国経典『天聖経』792ページ)とあります。

霊界と人間世界、霊人体と肉身とを共鳴させる
最も大きな力が神霊、つまり
神様の愛の力であるということです。

その神様の愛に共鳴できる心霊と知能の成長が、
私たちの地上生活の大きな目的の一つです。

生心が求める「ために生きる」生活

一方、『原理講論』に、
「真理は、有形世界から、直接、
人間の生理的な感覚器官を通して認識される」

(168ページ)とあり、

「生心の要求するものが何であるかを
 教えてくれるのが真理である

(86ページ)ともあります。

また、「生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分」
(同)であるとされています。

私たち人間は肉身生活において、自身の霊人体の
中心部分であり、本来、神様が臨在される
生心が要求する生活を通してこそ、
真理の実体に至ることができるということになります。


生心の要求する生活、それがすなわち
真の父母様が生涯を通して教えてくださった
「ために生きる」生活です。

他者のため、国のため、世界のために生きる生活は、
正に真理に至る道であり、自分自身の生心が納得し、
自分自身が真理の実体に至る道のりでもあります。

イエス様は、み言自体を真理とは言わず、
ご自身がすなわち道であり、真理であり、
命であると言われました(ヨハネ一四・6)


真理は、単なる言葉ではなく、
実体として結実しなければなりません。

神霊と真理は、私たちが「ために生きる」
実践生活を通して愛の感性を育み、
神様の愛の力と共鳴して初めて、
自分自身の中に着地すると言えます。

私たち自身が神霊と真理の実体と
ならなければならないということです。
堕落した人間にとって、それは簡単なことではありません。


だからこそ、救援摂理の中で、神様は
人間の心霊と知能の成長に応じて、
内外の無知を克服し、神霊と真理を
追い求めるよう促してこられました。

すでに私たちは、神霊と真理の実体であられる
真の父母様をお迎えしています。

そして真のお父様は霊界から、
真のお母様は地上で実体聖霊として、
私たちを導いてくださるという奇跡の時代を生きています。

「み言の目的は実体であり、
 実体の目的は心情である」

(『御旨の道』282ページ)とあるように、

神霊と真理が私自身に着地するその核心部分は、
心情以外にありません。

真理に基づいた地上生活を通して四大心情、
四大愛の体恤を目指し、その成長過程において、
神霊を感知できる共鳴圏を築いていくことができるのです。


今、真のお母様は天心苑祈祷を強調されます。

祈祷は、捧げることそれ自体ではなく、
天の父母様(神様)の心情、真の父母様の心情を、
幼子のようになって必死に求め、
天心との共鳴圏を築くところに意味があります。

そのようにして啓発された心情が、
私たちの信仰生活を、神霊と真理の実体に
ふさわしい生活へと導いてくれるのです。

神霊と真理は観念の言葉ではありません。
「私」の生活の中で体感し、結実させるものなのです。

https://familyforum.jp/2023101148856
世界家庭 2023年8月(天暦6月)号
再編集 文責:ten1ko2


今こそ、天心苑祈禱を中心として、
私自身の心霊を高める時なのだと思います。

神霊を高める最も重要な場所が
天心苑祈禱室であるといえるでしょう。

実際に、清平での天心苑祈禱会を
行っている方たちにおいては、
啓示というか、霊界からのメッセージを
もらっている方もいます。

危機的状況の中ではありますが、
神霊に満ちた私たちとなるべく、
今こそ、天心苑祈禱を最重要視していく時であると思います。

継続して投稿していきますので、
今後ともよろしくお願いいたします。






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posted by ten1ko2 at 09:53 | Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする