最近、感じていることを書こうと思います。
先日、解散命令請求を文科省が決定した日は、
10月13日の金曜日でした。
皆様もご存じのように、13日の金曜日といえば、
イエス様が十字架に付けられた日、とされています。
この時、イエス様は、
「父よ、彼らをおゆるしください。
彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカによる福音書23章34節)
と執り成しの祈りを捧げておられます。
真のお父様(文鮮明先生)が、かつて
いわれなき罪を着せられ、
教会についても、恐ろしいデマで
覆いつくされていた頃のお祈りです。
☆
お父様を慰労する孝子とならせてください
お父様を慰労する孝子とならせてください
今日、私たちは悪なるものを見ても感覚がなく、
不義で未熟であり、
天倫のみ旨に対する苦痛に満ちた心情を抱いて
責任を感じることができないでおります。
怨讐を殲滅しようとする心と、
恨みに徹する哀切さがなかった私たち、
また闘いの実績を持てなかった私たち、
全能の神様を信じることができなかった
私たちでした。
天に対するイエス・キリストの忠誠を
知りませんでした。
イエス・キリストを立てて誇ろうとなさった
あなたのみ旨が使徒たちを通して、
歴史を経て、今日の私たちに連結され、
そのみ旨が私たちで結実されることを
望んでいるということを知らせてくださり、
生命をもらったという歓喜に加えて、
数千万の聖徒たちが歓迎することのできる
中心的な責任が、今日、私たちに
任されているということを、
知るよう許諾してください。
今、私たちが天と地と万物、
そしてイエス・キリストの恨みを解くための
祭物となるよう許諾してくださり、
誠心誠意を込める、孝心ある子女たちとなるよう
許諾してくださいますことを、
お父様、懇切にお願い申し上げます。
お父様!
きょう私たちの一個体と、私たちに
天の解怨のための責任が任されており、
天の恨みを解いてさしあげるための闘いが、
私たちによって終結されるべき事情がある
ということを分かるよう許諾してください。
このようなことを知りましたので、
だれよりも実践しようという心、
お父様に感謝することのできる心だけ持つよう
許諾してください。
十字架を担っても感謝であり、
億千万のサタンたちと闘うとしても、
お父様の前に卑屈な者たちとならないよう
許諾してください。
十字架を負い、困難な立場に立つとしても、
「お父様! 私がおりますので
心配しないでください」と言える
子女たちとなるようお導きください。
困難な立場に置かれている子女たちを見て
悲しまれるお父様を、慰労してさしあげられる
子女たちとなれるよう、許諾して
くださいますことを懇切にお願い申し上げながら、
すべてを主のみ名によってお祈り申し上げました。
アーメン。
(1956.5.16)
「父の祈り 文鮮明師の祈祷 6 孝心編」より
「父の祈り 文鮮明師の祈祷 6 孝心編」より
☆
「孝心」という、合唱曲があります。
この歌は、上のお父様(文先生)の祈りを原詩として、
作曲されたものです。
先日、6000名の日本の2世たちが
お母様(韓鶴子総裁)にお会いした際にも、
韓国の2世たちがハングルで大合唱していました。
(下は日本語、2番が韓国語の歌詞になっています)
その歌詞に、私は特に心が打たれます。
神様、イエス様、知らない私たちに
任された責任を知らせて下さり
天宙に供えて下さい
十字架を担っても(すべて感謝)
どんなに困難でも(感謝)
お父様、私がおりますので心配などしないで下さい
私たち、ご父母様を慰労する孝子とならせて下さい
み旨の道で、困難な時ほど、
神様に「心配しないでください」
と慰労の祈りを捧げられたお父様。。。
私たちは今この時ほど、
真実なる道を歩まなければならない、
そのように感じます。
原理講論・予定論には、
「復帰摂理の目的を完成させようとされる
み旨は絶対的である」とあります。
どんなことがあろうとも、
み旨は必ず成就する、
そのことを信じて歩んでいきたいです。
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教会本部の意向とは直接関係がありません。
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