2023年11月21日

差別されたとしても一体化していきます! 《神明先生のUTS時代の神体験》



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神明(しんみょう)先生の信仰エッセー、
「悩める黒人学生を和動してあげたとき、
聖霊の働きがありました」を紹介します。


私のUTSの教授時代は、悩みある多くの学生たちの
カウンセリングをしましたが、あるとき、黒人学生を面倒見ました。

彼の悩みは、統一運動がいくら真の愛を説き、
人間は皆、貴重で平等だと教えても、
実際は人種差別があるようなので、
自分がいくら頑張っても統一運動の中ではうだつが上がらず、
出世することもできない、というものでした。

彼は一見、温和そうで、人格のある人のように見えたのですが、
そのような悩みを内側に秘めていたのです。

それで私は、たとえ黒人であるがゆえに差別されて、
理解されず、出世できなかったとしても、
神様は全てをごぞんじなのだから、目立たない所ででも、
黒人でない人たちが頑張るより以上に誠を尽くして、
一体化して頑張ることはできるのだ、と言ってあげました。

そして、そこにこそ神様の愛が最も顕現して、
そこから教会の心情革命が始まるかもしれないので、
その黒人食口こそ誰よりも尊い食口になれる道があるのだ、
と励ましてあげました。

それを聞いた彼は、目に涙を浮かべた後、その目を閉じながら、
静かに首を縦に振ってうなずいてくれました。
すでにその場には神様の愛が聖霊と共に訪れてきたように、
彼と私は感じました。


それに付け加えて、北アフリカのクレネ出身のシモンという黒人が
イエス様の代わりに重い十字架を背負ってあげたという福音書の話(マタイ27・32、マルコ15・21、ルカ23・26)
真のお父様がとても評価しておられることを話してあげました。

さらには、異邦人カナンの女が「子犬」のように侮蔑的に扱われても
失望せず、「パンくず」でも頂きたいと言って、
真実にイエス様を信じたがゆえに、
娘の悪霊の問題が解決できる恵みを受けたのみならず、
その信仰がイエス様からも褒められたという
福音書のもう一つの話(マタイ15・21-28)をしてあげました。

それを聞いて、その黒人学生が
元気を取り戻したことは言うまでもありません。


実は私も、黒人ではなくとも、日本人であるがゆえに、
いくら頑張っても選民の国の韓国人の前ではだめなのだと
強く感じたことが、少なくとも一度ありました。

それは、1981年の夏、UTS卒業生の中から
博士課程に進むように選ばれた
30名ほどのグループのために開かれた修練会中、
36家庭のある先生が講話の中で次のように話されたときでした。

「真のご子女様も祝福適齢期に入られたが、
ご子女様と祝福を受ける資格のある者は原則として
36家庭と72家庭の子女だけであり、
それ以外は排除され、特に非韓国人の家庭の子女は排除される」

これは確かに、真のお父様が当時、おっしゃったことに違いないであろうし、
また私たち非韓国人は韓国人と比べたら
血統的にも心情的にも劣っているであろうことは知っていたのですが、
その36家庭の先生の言い方に
私たち修練生は心の中で葛藤していたようでした。

私も例外ではなく、自分の中に、いわゆるカインのように、
「愛の減少感」 からの堕落性が出てきているのが分かりました。
それで、その講話を聞き、もがきながら、
必死になって次のように祈ったのです。

「神様、たとえこのようにカインとして
差別されたとしても、やはり一体化していきますから」と。


そしたら、しばらくして突然、全霊界が渦巻きのように
動いているのが見えたかと思うと、
聖霊がものすごい力で私の中に入ってきて、
私の体を激しく振動させ、その愛の力で慰めてくださったのです。

涙が滝のように目から流れました。

それが神様からの応えであったと確信し、
感謝の思いで頭を下げると、聖霊の力はさらにもっと強くなりました。

そして、「そのような覚悟ならば、
必ず最終的にはアベルに与えられる恵みと
同じ恵みを与えるから安心するように」
という啓示を受けました。


理想的には、アベルとカインがお互いを気遣い、
愛し合うところに本当の聖霊降臨があるのでしょうが、
たとえアベルがその大変な摂理的責任の重さゆえに
カインを愛してくれる余裕がなかったとしても、
カインが率先して、神様のみ旨を愛するがゆえに
最大限にアベルを愛していけば、
聖霊降臨の体験が可能であることを知ったような気がしました。

私が黒人学生に言いたかったのは、
愛なる神様はどんな所でも訪ねてくださるので、
今の自分の与えられた立場がたとえ悲惨でも、
それを感謝して受け入れて頑張れば、
他の人たち以上に頑張れるし、神様の愛を感じれるし、
そこから皆に対する希望が始まるかもしれないので、
心配は要らないということでした。

そのように励ましたかったのです。


今、アメリカでは、黒人のストーリングス大司教をはじめ
多数の黒人の牧師たちが真の父母様のために立ち上がって頑張っています。

これも、今まで多くの黒人の食口たちが
目立たない所で忍耐して頑張ってきた結果なのかもしれません。

また、今では真の父母様のお孫様方の相対者として、
日本人の父親や母親を持つ祝福子女が選ばれるようになりましたが、
これも、今まで、多くの日本食口たちが
陰で名状し難い苦労の精誠を尽くしてきた結果なのだと思います。

ここに神様の大いなる愛が現れているような気がします。


ドクター神明の信仰エッセー:UTS時代の神体験
神明忠昭
(*「世界家庭」より)


人種差別の問題、というのは、
人類の和合、世界平和、という観点からすると、
決して避けて通ることができない問題です。

黒人も迫害の歴史をたどってきました。
しかし、神明先生の言われる通り、
ダンベリー以降、お父様に侍ってきた
キリスト教の牧師たちは、黒人が多かったと思います。

さらに、ここ最近でも、皆様ご存じのように、
アフリカの国々で、国家単位における
祝福式が行われていく奇跡が起こりました。

まさに「後の者が先になり、
先の者が後になる」時代を迎えています。

私たちにおいても、
愛の減少感に陥るようなことがあると思います。

神明先生が乗り越えられたように、
「差別されたとしても、一体化していきます」
と感謝して祈りを捧げながら、
聖霊体験をしていく歩みを成していきたいと思うのです。



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2023年11月20日

天に接ぎ木しなければ、私たちは死にます! *好かれる姑とは《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話しの続き、
「信仰によって生きる生活」です。


私たちがもったこのみ言の権威、信じて従うこと、
価値、み言による私の思考方式を
持続させるためには、一般の常識で判断してはいけません。
信仰でもってしなければなりません。

なぜこのようにしたのか、あのようにしたのかと、
しきりに常識で問いつめるようになるならば
み言が逃げていきます。

事実、信仰だけでは生きることが難しいので、
大概は、常識で問いつめるようになるのです。

 
この前、テレビに、このごろの娘たちが
姑に侍るとか侍らないとかいう話が出てきました。

同じ大学を出た女性ですが、一人は姑を好きだといいます。
その理由を聞いてみると、自分の姑は、
自分が茶碗を割ったり失敗しても、
「だれそれさん、かまいませんよ。
それもみな経験です。そうしながら学ぶのですよ」
と言いながらいつも自分の肩をもってくれるというのです。

夫が何か言っても姑が横で
「みな、そうしながら成長するのだよ」と言いながら、
いつも自分のほうを上げてくれるから
心がしっかりしていて良いというのです。

 
ところがもう一方の姑は、茶碗でも割るようなことがあれば、
待っていたとばかりに
「お前は学校だけ通ったのであって
御飯を炊くことも分からないんだね。
台所に入ってみたこともなかったのか。

もっぱら、カチンと音がすれば割るんだね。
家の道具が残らないから、入ってきたお金も逃げていくんだね」
と言いながら、失敗するのを見さえすれば、
常識で問いつめて責めますから、
台所に入るのが恐ろしくなるそうです。

ですから年老いた親とは住めないというのです。

 
今日、私たちの教会でも年の高い諸職者は若い人たちを好みます。
なぜかと言えば、若い人たちがうらやましいからです。

ところが若者たちは、年の高い諸職者たちが、
「おい、あなたたちは私より幸福だね。
あなたたちは蕩減の時代が終わったこの貴い時に入ってきて、
もっぱら従順にし、喜びさえすればよいのだから
いかばかり良いことか。

あなたたちは、断食もしないし、泣く必要もないし、
実に良い時に入ってきた。

私たちなど、早く入ってきたけれども、
天がその時より今のあなたたちを前にして望みますから、
あなたたちがうらやましいね」と、
このように言うならばいい気になります。

しかし、少しでも干渉すれば嫌がるのです。
ですから、信仰的に対するというのは難しいことです。

 
話が少し横に流れましたが、今日、私たちは三数、
すなわち、み言を中心とした生活、
み言を中心とした姿勢、
み言を中心とした生活観をもって、
み言を中心とした私なのか、み言を離れた私なのか
ということを分立することができなければなりません。

私の思考方式は、いつもみ言を経て出ていき、
み言を経て話し、いつもみ旨を中心として
話すようになるならば、私の個体は漸次、
信仰的な姿勢が整えられるようになります。

そうしながら教会では、み旨を中心とした
君と私という関係を結び、み旨を中心とした
対象関係を結んで三数が形成されるのです。

 
慕わしさの主体が教会にいるし、
私を慕う対象がいるようになるならば、
私は教会で落ち着いた人です。

慕わしさの主体であるアベルがいて、
その次に私が慕わしさの対象になるならば、
私はその教会に霊的な登録がなされる本性をもったのです。


外的に入会願書を出したからといっても
教会員ではありません。

復活も同じです。
統一教会に入ってきたとしても、
全員が復活するわけではありません。

霊的な基盤という、実に天が私を通じて
活動することのできる足場が生じてこそ
初めて復活の基台が確保されるし、
情の接ぎ木がなされたと見ることができるのです。

「接ぎ木された」という言葉の意味は、
私の情を引っ張る中心が生じたし、
他人の情を引っ張ってくるようになったということです。

私を天に接ぎ木することができないと
するならば、私たちは死にます。
神がお越しになりませんから死ぬのです。

神が来たくても来ることができないとするならば、
私はもう既に神の法則に違背したということです。
死とは別のことではありません。

神の前に主管を受けられないのが死ぬことなのです。
肉体的に息ができなくて死ぬのではありません。


私たちの心霊の呼吸は、情です。
愛です。

慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、
私は呼吸することのできる人だというのです。
そうすれば繁殖力をもつようになります。

皆さんは、呼吸していますか? 
健康ですか? 
心霊が健康な人ですか? 

慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、
そのような霊人体が健康な人です。


ところが、教会に長く通った人たちの中にも
死んだ人が多いのです。

「だれが慕わしくて訪ねてきますか?」と言えば、
「統一教会を信じたから訪ねてくるのであって、
だれかが慕わしいというのではありません」と言います。

「私を慕わしいという人もいないし、
私自身も慕わしい人がいません。
慕わしい人は、先生お一人だけなのです」
と、こう思う人は、住む所のない人です。


皆さん、各自が自分の心の位置を手探りしてごらんなさい。
自分の生活圏の外を眺めてはいけません。

自分の生活圏、すなわち、皆さんが住んでいる家、
皆さんが身を置いている教会との関係がなくては、放浪者です。

流れて動き回る人としか見ることができません。
ところが、イエス様は、それがないのです。
それでイエス様の話が出てくるのです。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰によって生きる生活

再編集 文責:ten1ko2


私たちの信仰の原点は
神様であり、真の父母様です。

神様が愛の根であり、
私たちのために全生涯をかけて
み旨を歩んでいる
真の父母様がおられるがゆえに、
それを力として信仰の道を歩んでいます。

そして、その愛と力、
そして霊的な恩恵を受ける最先端の場が、
天心苑祈祷室であるというのです。

天心苑で毎日開催されている
天心苑徹夜祈祷精誠を通して、
私たちもそこに意識を向けて、
霊的恩恵を受けていきたいと思うのです。




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2023年11月19日

フェリーと専用列車で祝福会場へ メシヤと卓球した思い出などなど・・ 《梅本夫妻》



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1970年10月


梅本夫妻の証し、今回は
1970年10月、777双の祝福の時の
証しの前半です。


777双の祝福を受けられたときのことを、
お聞かせください。


勝子さん 1970年9月20日に東京で、
「WACL世界大会」が行われるということで、
全国から兄弟姉妹が集められ、
私は福岡から上京しました。

大会が終わって間もなく、
777双の祝福が行われるという知らせが入りました。

私はそのまま東京に残り、
本部教会の総務部所属となり、
777双の祝福準備のスタッフとなったのです。

祝福を受ける条件として、
3年以上み旨の道を歩み、
3人の信仰の子女がいて、
25歳以上と言われていました。

私は祝福の条件を一応満たしていましたが、
自分はまだ信仰的に幼いので祝福を受ける
基準ではないと思っていました。

そんな気持ちで韓国に向かったのです。


憲二さん 私は、宝塚研修センター(兵庫県)で
講師をしていたとき祝福の知らせを受けました。

そして10月4日、全国から祝福候補者(約500人)が
下関に集まり、そこから関釜フェリーに乗って、
韓国の釜山に向かったわけです。


勝子さん 関釜フェリーが釜山港に着くと、
釜山駅から夜行列車に乗ってソウルに向かいました。

その列車は、祝福に向かう日本食口専用の特別列車で、
途中、駅に停車するたびに、真夜中にもかかわらず、
韓国の食口たちが待っていて、
お弁当やりんごなどを差し入れしてくれたのです。

希望と不安が入り交じる私たちの心を
励ましてくれた韓国食口の温かい心情は、
今でも忘れられません。

こうして私たちの乗った列車は早朝、
ソウル駅に到着しました。

すると、思いもかけず真の父母様が子女様を抱いて、
出迎えてくださったのです。

その光景に私は、喜びと希望にあふれ、
父母のいる故郷に帰ってきたような気持ちになりました。 


憲二さん 水澤里の修練所に向かいました。
着いてから合同結婚式まで、十数日ありました。

この期間は、真のお父様から祝福に関する
貴重なみ言を学ぶとともに、
真の父母様と深い親子の心情の絆を結ぶ
貴重な機会ともなったのです。

ある日には、みんなで近くの野原に出かけ、
真の父母様を中心に、み言をお聞きしたり、
共に歌を歌ったりと、楽しいひとときを過ごしました。

昼の休み時間などには、修練所の庭で
卓球をして過ごしていたのですが、
そこに真のお父様が来られ、
我々と一緒に卓球をしてくださいました。

メシヤと卓球するなど、日本にいるときには
考えもできないことでした。

このようなことを通して、真の父母様と
我々の心は急速に近くなってゆきました。
 
慕わしきわが主、わが父母
真の父母様との思い出
「深い心情で愛してくださる方」(後編)
世界家庭8月号より
再編集 文責:ten1ko2


父母様と一緒に卓球をされたなんて。。。
本当に羨ましい限りです。。。

お父様は、親の心情をもって、
思い出を作ろうと、必死だったのでしょう。

祝福結婚というのは、
神様、そして真の父母様と
貴重な因縁を結ぶ貴い式です。

その重要性を改めて
感じさせていただきました。



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