2023年11月06日

家庭連合、後藤さん事件はこうして始まった! 《奪われた12年5ヵ月、"拉致監禁"連鎖@》



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家庭連合の信者たちが拉致監禁され
脱会強要をされるという事件が、
4300件以上起こっていたという事実をご存じですか?

被害者の会の代表、後藤徹さんが
12年5ヵ月もの被害を受けた体験が
かつて「"拉致監禁"連鎖」として、
「世界日報」に連載されました。

最近アーカイブが再公開されています。
長いですので、2コマずつに
分け直してご紹介します。

今日は、「#1 『しまった』
気づいたときにはワゴン車に押し込まれた」よりどうぞ


本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載
「"拉致監禁"連鎖」50回を再編集したものである。

今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト
鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を
「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、
「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。

後藤氏は10月4日、東京地裁に
名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。

拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を
今もなお追い続け、闘いを続けている。

―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い
#1 『しまった』気づいたときにはワゴン車に押し込まれた

甘かった実家帰り 無理やりワゴン車に

夜の高速道路をひた走る車から外へ目をやると、
交通標識などから新潟方面に向かっていることだけは分かった。
一度も行ったことがない所だった。

まだ訪れたことのない土地に行けるとなると、
たいていの人は未知の情景を期待を込めて
思い描いたりして心が弾んだり、
多少なりとも興奮するものである。

それが自然の美しい場所なら、なおさらであろう。

だが、1995年(平成7年)9月11日の夜、
突如として無理やりワゴン車に押し込まれた
後藤徹さん(当時31歳)の胸の内には、
そんな期待はあろうはずもない。

これから起こるであろう「監禁」という非情な仕打ちに、
後藤さんは憤りと不安と恐怖が入り交じる気持ちの中で、
とにかく逃げ出せるスキをうかがうことで精いっぱいだった。


北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(当時13歳)は、
工作員に乗せられた船の中で「お母さん、お母さん」
と叫びながら、壁を引っかいたために
爪が剥がれそうになり血だらけとなった。

そう北朝鮮の元工作員の安明進氏が著書
「北朝鮮拉致工作員」(徳間書店)の中で記している。


後藤さんの場合は、
本来助けを求めたい両親が同じ車内にいた。

家族が、この時姿を見せていない
“黒幕”の指導を受けて拉致を実行したのだ。

大声を出したら何をされるか分からない。
182aと長身で体格もいい後藤さんだったが、
父と兄に両腕をつかまれては、
抵抗できない状態をひたすら耐えるしかなかった。


この日、後藤さんは東京・保谷市
(現在の西東京市)の実家に帰っていた。

すでに一度は拉致監禁されたことのある後藤さんだったが、
その時はスキを見て逃げ出していた。

それから8年もたっていた。
家族も再び同じことはしないだろうと信頼していた。

だが、それは甘かった。

両親や兄、妹、兄嫁との食事が終わると、
急に引き締まった表情に変わった父親から
「徹、話がある」と切り出された。

「しまった。また拉致監禁か」と思った時は、
すでに遅かった。
父と兄に引きずられるようにワゴン車に押し込められた。


車に乗せられる際、統一教会側から「職業的脱会屋」と呼ばれ
要警戒人物とされる宮村峻・会社社長の下で働く
従業員が庭に潜んでいるのが見えた。

後藤さんの逃走を防ぐために動員されていた。
綿密に計画され、家族以外の人間もかかわって
組織的に行われた拉致だった。

後藤さんを乗せた車が東京から
新潟市内のマンションに着いたのはその日の深夜だった。

この時は知る由もなかったが、この日から実に
12年余に及ぶことになった統一教会棄教を迫るための
拉致監禁の初日となった。

そして2年前のきょう(2008年2月10日)が、
解放された日である。

後藤徹さんの証言によって、
“12年余の空白”を埋めるべく、その被害体験を綴っていく。

奪われた12年余 改造されていた部屋

マンションの玄関に横付けした車から降ろされ、
両腕をつかまれたままエレベーターに乗せられた。
6階の監禁現場となる一室に押し込まれるまでに、
ものの数分とかからなかった。

その日から監禁場所が東京・荻窪に移される
1997(平成9)年6月22日まで約1年9カ月の間、
新潟にいたことになる。その間、

後藤さんはずっと部屋に閉じ込められ、
一歩も外に出られない“捕らわれ”の日々を過ごしたのである。


後藤さんは、63(昭和38)年、名君・上杉鷹山で知られる
山形県米沢市で次男として生まれた。

日大理工学部に通っていた86(昭和61)年に、
四つ年上の兄から紹介されて統一教会の教えと出合った。
やがて、その教えに感銘し「ここに真理がある」と確信し入教した。

しかしそれから程なく、皮肉なことに
兄と妹が後藤さんが味わったような拉致監禁下での
「説得」を受けた末に教会を脱会。

その兄と妹が職業的脱会屋らの指導を受けて、
後藤さんの拉致監禁を実行するという不幸で悲しい連鎖がある。


新潟のマンションに監禁された後藤さんは、
その後監禁場所を2度も移された。

家族や職業的脱会屋から受ける「説得」と称する
統一教会批判や罵倒、暴力に耐えながら屈しなかった。

結果、ついには12年5カ月もの
日本では例を見ない超長期監禁の被害者となった。

家族やキリスト教牧師らがとったこれらの行動は、
法治主義国家である日本では
信教や言論の自由などの基本的人権を侵す
犯罪としか言いようのないものだ。

後藤さんの人生においては、まさに
「奪われた12年余」
「空白の12年余」となったのである。


監禁中、兄は後藤さんに
「この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、
この環境もこのままだ」
「どんな犠牲を払っても決着を付ける。
覚悟しておけ」などと言い放った。

統一教会を紹介したのが兄だけに、弟への気持ちは
複雑で、攻撃が先鋭化するのも避けられまい。

後藤さんを棄教させるためには、
どんな手段も辞さないことを強調して迫ったのだ。


後藤さんが押し込められた新潟のマンションは
2DKタイプだった。

玄関を入ると左側にトイレと浴室があり、
その奥が台所・居間。
居間の隣(浴室から廊下を隔てた正面に当たる)には和室があり、
その奥にも部屋があった。

ただ、この奥の部屋だけはなぜか鍵が掛けられ、
後藤さんはおろか家族も入ることがなかった。

ほとんど和室に閉じ込められていた後藤さんは、
トイレに立つのにも常に監視の目が光っていた。
部屋と居間にはそれぞれ窓があったが、
すべてストッパーで固定され、開けられない仕掛けになっていた。

また、玄関には通常の鍵とは異なる鍵が付けられ、
家族が持っているキーがなければ外に出られなかった。
その上、ドア付近に近寄ることもできなかったのだ。

(世界日報アーカイブス 
―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い より)
#1 「しまった」気づいたときにはワゴン車に押し込まれた 
【後藤さんの闘い・新潟@】
https://www.worldtimes.co.jp/japan/20231011-175120/
再編集 文責:ten1ko2


拉致監禁を経験した人は4300人に上ると言います。
その手口は本当に悲惨極まりないものです。

親も子供が教会から救出できるならば、
お金払っても、どんな方法でも構わない、
そんな切実な思いで拉致監禁をします。

拉致監禁に携わる人たちは、
「保護・説得」と表現しますが、
保護なんて言葉は使ってほしくないですね。

私が拉致されたころは、
一日一件くらい全国で事件がありました。

世界日報のアーカイブスですが、
後藤さんの体験談を紹介しながら、
こういう被害に遭っている人たちが、全国にもたくさんいる、
ということを知ってもらえたらありがたいです。


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