李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話しの続き、
「信仰によって生きる生活」です。
☆
私たちがもったこのみ言の権威、信じて従うこと、
価値、み言による私の思考方式を
持続させるためには、一般の常識で判断してはいけません。
信仰でもってしなければなりません。
なぜこのようにしたのか、あのようにしたのかと、
しきりに常識で問いつめるようになるならば
み言が逃げていきます。
事実、信仰だけでは生きることが難しいので、
大概は、常識で問いつめるようになるのです。
☆
この前、テレビに、このごろの娘たちが
姑に侍るとか侍らないとかいう話が出てきました。
同じ大学を出た女性ですが、一人は姑を好きだといいます。
その理由を聞いてみると、自分の姑は、
自分が茶碗を割ったり失敗しても、
「だれそれさん、かまいませんよ。
それもみな経験です。そうしながら学ぶのですよ」
と言いながらいつも自分の肩をもってくれるというのです。
夫が何か言っても姑が横で
「みな、そうしながら成長するのだよ」と言いながら、
いつも自分のほうを上げてくれるから
心がしっかりしていて良いというのです。
☆
ところがもう一方の姑は、茶碗でも割るようなことがあれば、
待っていたとばかりに
「お前は学校だけ通ったのであって
御飯を炊くことも分からないんだね。
台所に入ってみたこともなかったのか。
もっぱら、カチンと音がすれば割るんだね。
家の道具が残らないから、入ってきたお金も逃げていくんだね」
と言いながら、失敗するのを見さえすれば、
常識で問いつめて責めますから、
台所に入るのが恐ろしくなるそうです。
ですから年老いた親とは住めないというのです。
☆
今日、私たちの教会でも年の高い諸職者は若い人たちを好みます。
なぜかと言えば、若い人たちがうらやましいからです。
ところが若者たちは、年の高い諸職者たちが、
「おい、あなたたちは私より幸福だね。
あなたたちは蕩減の時代が終わったこの貴い時に入ってきて、
もっぱら従順にし、喜びさえすればよいのだから
いかばかり良いことか。
あなたたちは、断食もしないし、泣く必要もないし、
実に良い時に入ってきた。
私たちなど、早く入ってきたけれども、
天がその時より今のあなたたちを前にして望みますから、
あなたたちがうらやましいね」と、
このように言うならばいい気になります。
しかし、少しでも干渉すれば嫌がるのです。
ですから、信仰的に対するというのは難しいことです。
☆
話が少し横に流れましたが、今日、私たちは三数、
すなわち、み言を中心とした生活、
み言を中心とした姿勢、
み言を中心とした生活観をもって、
み言を中心とした私なのか、み言を離れた私なのか
ということを分立することができなければなりません。
私の思考方式は、いつもみ言を経て出ていき、
み言を経て話し、いつもみ旨を中心として
話すようになるならば、私の個体は漸次、
信仰的な姿勢が整えられるようになります。
そうしながら教会では、み旨を中心とした
君と私という関係を結び、み旨を中心とした
対象関係を結んで三数が形成されるのです。
☆
慕わしさの主体が教会にいるし、
私を慕う対象がいるようになるならば、
私は教会で落ち着いた人です。
慕わしさの主体であるアベルがいて、
その次に私が慕わしさの対象になるならば、
私はその教会に霊的な登録がなされる本性をもったのです。
☆
外的に入会願書を出したからといっても
教会員ではありません。
復活も同じです。
統一教会に入ってきたとしても、
全員が復活するわけではありません。
霊的な基盤という、実に天が私を通じて
活動することのできる足場が生じてこそ
初めて復活の基台が確保されるし、
情の接ぎ木がなされたと見ることができるのです。
「接ぎ木された」という言葉の意味は、
私の情を引っ張る中心が生じたし、
他人の情を引っ張ってくるようになったということです。
私を天に接ぎ木することができないと
するならば、私たちは死にます。
神がお越しになりませんから死ぬのです。
神が来たくても来ることができないとするならば、
私はもう既に神の法則に違背したということです。
死とは別のことではありません。
神の前に主管を受けられないのが死ぬことなのです。
肉体的に息ができなくて死ぬのではありません。
☆
私たちの心霊の呼吸は、情です。
愛です。
慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、
私は呼吸することのできる人だというのです。
そうすれば繁殖力をもつようになります。
皆さんは、呼吸していますか?
健康ですか?
心霊が健康な人ですか?
慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、
そのような霊人体が健康な人です。
☆
ところが、教会に長く通った人たちの中にも
死んだ人が多いのです。
「だれが慕わしくて訪ねてきますか?」と言えば、
「統一教会を信じたから訪ねてくるのであって、
だれかが慕わしいというのではありません」と言います。
「私を慕わしいという人もいないし、
私自身も慕わしい人がいません。
慕わしい人は、先生お一人だけなのです」
と、こう思う人は、住む所のない人です。
☆
皆さん、各自が自分の心の位置を手探りしてごらんなさい。
自分の生活圏の外を眺めてはいけません。
自分の生活圏、すなわち、皆さんが住んでいる家、
皆さんが身を置いている教会との関係がなくては、放浪者です。
流れて動き回る人としか見ることができません。
ところが、イエス様は、それがないのです。
それでイエス様の話が出てくるのです。
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰によって生きる生活
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰によって生きる生活
☆
再編集 文責:ten1ko2
私たちの信仰の原点は
神様であり、真の父母様です。
神様が愛の根であり、
私たちのために全生涯をかけて
み旨を歩んでいる
真の父母様がおられるがゆえに、
それを力として信仰の道を歩んでいます。
そして、その愛と力、
そして霊的な恩恵を受ける最先端の場が、
天心苑祈祷室であるというのです。
天心苑で毎日開催されている
天心苑徹夜祈祷精誠を通して、
私たちもそこに意識を向けて、
霊的恩恵を受けていきたいと思うのです。
※ 当ブログ記事の転載、拡散について
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。
なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名とURLを記載して頂くようにお願いいたします。
なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。