2023年11月20日

天に接ぎ木しなければ、私たちは死にます! *好かれる姑とは《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生のお話しの続き、
「信仰によって生きる生活」です。


私たちがもったこのみ言の権威、信じて従うこと、
価値、み言による私の思考方式を
持続させるためには、一般の常識で判断してはいけません。
信仰でもってしなければなりません。

なぜこのようにしたのか、あのようにしたのかと、
しきりに常識で問いつめるようになるならば
み言が逃げていきます。

事実、信仰だけでは生きることが難しいので、
大概は、常識で問いつめるようになるのです。

 
この前、テレビに、このごろの娘たちが
姑に侍るとか侍らないとかいう話が出てきました。

同じ大学を出た女性ですが、一人は姑を好きだといいます。
その理由を聞いてみると、自分の姑は、
自分が茶碗を割ったり失敗しても、
「だれそれさん、かまいませんよ。
それもみな経験です。そうしながら学ぶのですよ」
と言いながらいつも自分の肩をもってくれるというのです。

夫が何か言っても姑が横で
「みな、そうしながら成長するのだよ」と言いながら、
いつも自分のほうを上げてくれるから
心がしっかりしていて良いというのです。

 
ところがもう一方の姑は、茶碗でも割るようなことがあれば、
待っていたとばかりに
「お前は学校だけ通ったのであって
御飯を炊くことも分からないんだね。
台所に入ってみたこともなかったのか。

もっぱら、カチンと音がすれば割るんだね。
家の道具が残らないから、入ってきたお金も逃げていくんだね」
と言いながら、失敗するのを見さえすれば、
常識で問いつめて責めますから、
台所に入るのが恐ろしくなるそうです。

ですから年老いた親とは住めないというのです。

 
今日、私たちの教会でも年の高い諸職者は若い人たちを好みます。
なぜかと言えば、若い人たちがうらやましいからです。

ところが若者たちは、年の高い諸職者たちが、
「おい、あなたたちは私より幸福だね。
あなたたちは蕩減の時代が終わったこの貴い時に入ってきて、
もっぱら従順にし、喜びさえすればよいのだから
いかばかり良いことか。

あなたたちは、断食もしないし、泣く必要もないし、
実に良い時に入ってきた。

私たちなど、早く入ってきたけれども、
天がその時より今のあなたたちを前にして望みますから、
あなたたちがうらやましいね」と、
このように言うならばいい気になります。

しかし、少しでも干渉すれば嫌がるのです。
ですから、信仰的に対するというのは難しいことです。

 
話が少し横に流れましたが、今日、私たちは三数、
すなわち、み言を中心とした生活、
み言を中心とした姿勢、
み言を中心とした生活観をもって、
み言を中心とした私なのか、み言を離れた私なのか
ということを分立することができなければなりません。

私の思考方式は、いつもみ言を経て出ていき、
み言を経て話し、いつもみ旨を中心として
話すようになるならば、私の個体は漸次、
信仰的な姿勢が整えられるようになります。

そうしながら教会では、み旨を中心とした
君と私という関係を結び、み旨を中心とした
対象関係を結んで三数が形成されるのです。

 
慕わしさの主体が教会にいるし、
私を慕う対象がいるようになるならば、
私は教会で落ち着いた人です。

慕わしさの主体であるアベルがいて、
その次に私が慕わしさの対象になるならば、
私はその教会に霊的な登録がなされる本性をもったのです。


外的に入会願書を出したからといっても
教会員ではありません。

復活も同じです。
統一教会に入ってきたとしても、
全員が復活するわけではありません。

霊的な基盤という、実に天が私を通じて
活動することのできる足場が生じてこそ
初めて復活の基台が確保されるし、
情の接ぎ木がなされたと見ることができるのです。

「接ぎ木された」という言葉の意味は、
私の情を引っ張る中心が生じたし、
他人の情を引っ張ってくるようになったということです。

私を天に接ぎ木することができないと
するならば、私たちは死にます。
神がお越しになりませんから死ぬのです。

神が来たくても来ることができないとするならば、
私はもう既に神の法則に違背したということです。
死とは別のことではありません。

神の前に主管を受けられないのが死ぬことなのです。
肉体的に息ができなくて死ぬのではありません。


私たちの心霊の呼吸は、情です。
愛です。

慕わしさの中心をもち、慕わしさの主体になるならば、
私は呼吸することのできる人だというのです。
そうすれば繁殖力をもつようになります。

皆さんは、呼吸していますか? 
健康ですか? 
心霊が健康な人ですか? 

慕わしさの中心をもち、慕わしさの対象をもった、
そのような霊人体が健康な人です。


ところが、教会に長く通った人たちの中にも
死んだ人が多いのです。

「だれが慕わしくて訪ねてきますか?」と言えば、
「統一教会を信じたから訪ねてくるのであって、
だれかが慕わしいというのではありません」と言います。

「私を慕わしいという人もいないし、
私自身も慕わしい人がいません。
慕わしい人は、先生お一人だけなのです」
と、こう思う人は、住む所のない人です。


皆さん、各自が自分の心の位置を手探りしてごらんなさい。
自分の生活圏の外を眺めてはいけません。

自分の生活圏、すなわち、皆さんが住んでいる家、
皆さんが身を置いている教会との関係がなくては、放浪者です。

流れて動き回る人としか見ることができません。
ところが、イエス様は、それがないのです。
それでイエス様の話が出てくるのです。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
信仰によって生きる生活

再編集 文責:ten1ko2


私たちの信仰の原点は
神様であり、真の父母様です。

神様が愛の根であり、
私たちのために全生涯をかけて
み旨を歩んでいる
真の父母様がおられるがゆえに、
それを力として信仰の道を歩んでいます。

そして、その愛と力、
そして霊的な恩恵を受ける最先端の場が、
天心苑祈祷室であるというのです。

天心苑で毎日開催されている
天心苑徹夜祈祷精誠を通して、
私たちもそこに意識を向けて、
霊的恩恵を受けていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする