2023年12月19日

続・なぜ、独生女の時代なのか 過去どんなに功績を立てたとしても、限界で裏切れば不孝 《梅本先生》



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私たち家庭連合(旧統一教会)の
最終的な意義とか目的は何でしょうか?

私たちの理論が勝ち、
正義が認められることでしょうか。

私たちだけが生き残る世界ではありません。 
神と人すべて、私たちみんながいる世界
でなければなりませんね。
 
梅本先生の「真のお母様と一つになって生きる」より、
最後の章を紹介します。

17 「天一国」は天地人真の父母様を
中心とした「心情一体世界」

「真のお母様と一つになって生きる」とは、
どのような生き様を言うのでしょうか。

それは結局、「真のお母様に
如何に侍るべきか」という問題であり、
すなわち「真の父母様に
如何に侍るべきか」という問題であって、
突き詰めればそれは結局「孝」、
「孝情」の問題となってきます。

では「孝」とは何でしょうか、
ここに一つのヒントともいえる
真のお父様のみ言があります。


「孝子になろうとすれば、父母の心の方向と
常に一致していなければなりません。

孝子の道を行く人は、父母と
かけ離れた行動をする人ではありません。

父母が東に行けば東に行かなければならず、
父母が西に行けば西に行かなければなりません。

行く目的を提示したのちに、
行く途中で回れ右をすれば、
一緒に回れ右しなければなりません。

そこに異議があってはなりません。
十度行き、十度回れ右をしたとしても、
また回れ右して従っていかなければなりません。

反抗すれば、孝子の道理を
最後まで守ることはできません」

(「選集」62−32、1972・9・10、『絶対価値』44-45頁)


ここには「孝」とは何か、
そのすべてが語られているわけではありませんが、
この短い説話的み言の中に、孝に対する一つの中心的で
本質的なメッセージが語られています。

もちろんそれは、「ただ盲目的に
親に従って行けばいいのだ」
というようなことではありません。

──否、むしろ反対です。
しっかり目を開けて従って行くべきです。

どこの親もわが子が、ただ盲目的、追随的に
親に従ってくれることを願ってはいません。
むしろ必要に応じて質問し、確認し、意見があれば
申し上げることも、子としての務めだと思います──。


ではここで何が語られ、教えられているのでしょうか。

すなわち、ここでは一つのぎりぎりの状況が
設定されているのであり、
そのような状況下に置かれた子が、
どのような態度を取るかが問われているのです。

何回も行ったり来たりした挙句、遂に十回目となって
もうこれでなんとか終わりにして欲しい
と思っているときに、
また回れ右すると言うのです。

その時、遂に頭にきて「いい加減にしてくれ、
もうこんな馬鹿馬鹿しいことを
やっておれるか」と尻をまくってその場を去るか、

それでもなお「お父さんがそういうなら…」
と言ってでもついて行くか、
そこがぎりぎりの孝子になれるか
否かの分かれ目になるというのです。

そのような状況下では、いくら論理的に、
現実的(合理的・実利的)に、
時に常識的に考えても答えは出てきません。
正にその場を決するのは、「情」の世界なのです。

すなわち、そのような限界状況にあっても、
なお子としての親に対する道理、
切っても切れない愛と信頼の情を残しているかどうか、
が問われているのだと思います。


真のお父様はよく、終わりの日(再臨時代)には
「み言」と「人格(実体)」と「心情」の
3つの審判がある
と仰られました。(天一国経典『天聖経』4−3−3−9)

また「終わりの日には、宗教は心情宗教、
哲学は心情哲学、主義は心情主義、
思想は心情思想で各々解明されねばならない」
(『御旨の道』282頁)
とも語っておられます。

まず、しっかりみ言を学ぶことは、
最も基本的で重要な事柄です。
そしてその上で、それに相応しい人格(実体・生活)
を形成することは必須の要件です。

しかし、実はそれで終わるのではありません。
その基盤の上に立って、本然的な「心情基準」を立てることが
最終的目標(課題)≠ニして、
信仰者一人ひとりに残されているのです。


そしてそれは、先ず縦的基準としての天の父母様と
真の父母様、すなわち天地人真の父母様への
「孝」の心情、「孝情」をしっかり
立てることから始められなければなりません

──この一点が少しでも狂えば
後のすべてが狂ってきます──。

なぜなら、親子の関係こそ、
宇宙の根本となる関係だからです(注1)

そこから横的に心情が展開され拡大されて、
天地人真の父母様(実体的三位一体)を中心とした
全人類一家族の心情一体世界
=「天宙平和統一国」=「天一国」が形成されるのです。

まさに、心情の因縁(ゆかり)で世界は生き、
一つに結ばるもと(本然)の縁(『聖歌』7番)なのであり、
「『孝情』の光」が世界を救うのです(『人類の涙をぬぐう平和の母』308頁参照)

み言をよく学び、しっかりとした
信仰生活をされてきた人たち(大先輩)の中でも、
この最後≠フ心情の審判、とりわけ
天地人真の父母様に対する「孝情」の審判、
試練を越えられず、道を踏み外してしまわれる方がおられることは、
極めて残念なことです。


今世界は、コロナパンデミックから始まり、
あらゆる次元で大混乱に陥っています。
この世界を最終的に如何にして救うか。
黙って見ているわけにはいきません。

互いに知恵を出し合い、時に口角泡を飛ばし
「正論」をぶつけ合うことも必要です。
否、それは必須ですらあります。

だがしかし、互いに真剣になればなるほど、そこに激しい論理的
また感情的対立が生じることも、また事実なのです。

すなわち、最終的に主義主張≠ェ優先されるところ、
そこには戦いの止むことがないのであって、
そこに民主主義世界=兄弟主義世界の
限界があるといえるでしょう。


では、もしそれを越え、人類が真に恒久的な平和を
享受しえる世界があるとするならば、
それは家庭的原理に基づく世界(心情主義、
家庭主義、父母主義、神主義、頭翼思想)
以外にはありません

──ここに今日「家庭連合」が存在する
理由があるのです──。

すなわち、その世界は、父母≠中心として、
最終的に@ヘでもなく、主義主張でもなく、
心情(真の愛)を中心として一つになれる世界なのです。

であるとするならば、まさしくわれわれが目指している
天の父母様と勝利された真の父母様(天地人真の父母様)を
中心とする全人類一家族の世界=「天一国」こそ、
その世界といえるでしょう。

そして、そこに至る最初の一歩は、
今尚、われわれと共にこの地上に居られ、
真の父母様を代表して歩まれる真のお母様と
一つになっていくところから始まるのです。



(2023年3月吉日)

 (注1)「この宇宙の究極的な真理の問題を前にして……神秘的な境地に入って、人間が探し求めるべき宇宙の最高の真理が何かということを打診したとき、その時に得た答えが、『父子関係』という言葉なのです」 (天一国経典『天聖経』4-1-1-17)

特別寄稿文 <信仰手記>
真のお母様の時代に生きる
――ユダヤ・キリスト教の伝統との対比の中で考える――
梅本憲二(777双)
https://trueparents.jp/?page_id=7277
(真の父母様を中心に一つになろう)真の父母様宣布サイト
失礼ながら「敬体」文に
変えさせて頂きました。
再編集 文責:ten1ko2


真の父母様は、
真のお父様とお母様、お二人のことです。
お二人が一つである、ということです。

最近、真のお母様は、
「真の母ではく、ワンオンマ」だと言われております。
ワンとは王のことですが、
ひとりの母、独り娘の意味も併せて
呼ばせているという気がします。

親は理由でなく、親なのです。
知的に理解する以上に、心情において、
親であることを実感するします。

今、家庭連合が試練に立たされていますが、
今まで以上に、食口が
一つになる時なのでしょう。

真のお父様が「お母様は独り娘である」
と語られた言説もあるのに、
それに反対する人には、
そういう文言が頭に入らないのでしょう。

結局は心情の乖離というか、
お母様に断固反対している人たちには、
ピントが合わないので、
そこに焦点が合わないのだと思います。

先日も、責任者の皆様が訪韓され、
独り娘に対する講座を受けた、と聞きました。

お母様と一つになること。
それが、最高の天運を受けることができる
唯一の方法だと思うのです。




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2023年12月18日

イエスのように、悲しい人たちの友となり、貧しい人たちをもてなそう 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
イエス様が地上で基盤を築かれた方法

 
それではイエス様は、霊界と相対性を結んで
歩みながらも、どのようにして地上に
ご自身の基盤を維持されたのでしょうか? 
それが疑問に思われるのです。

一言で結論を言うならば、
イエス様は、他人の世話をたくさんしたのです。

先生のみ言のように、ために生き、
他人の世話をたくさんしたことが
イエス様の地上の基盤でした。

悲しい人たちのために、忘れようにも
忘れることのできない世話をされたのです。

父母たちも行ってみない癩病人の谷間に
訪ねていってくださり、触ってくださり、
貧しい人たちを愛してくださいました。

私たちも他人に世話になったことがあるのです。
今からは私たちが他人の世話をしなければなりません。

私よりましな人には世話をすることができません。
私より貧しい人を世話しなければなりません。

聖書に「宴会をするとき、豊かに生活する人を
連れてきてもてなしなさい」というみ言はありません。

皆さん、こじきを連れてきてもてなしてみなさい。
これは、お互いに一生の間、
忘れることができないものになります。

 
こじきを世話するならば、天に登録されることは
事実ですけれども、審判を受けたこじきをもてなしては
同参罪を犯すようになるということも
知らなければなりません。

例えば、こじきに身を整えたスパイが
私の家で御飯をごちそうになり、
服を着替えて紳士になって出ていくようになれば、
私は金日成の前には忠臣になるけれども
大韓民国の前には逆賊です。

天の法度もそうです。

こじきであっても無念なるこじき、
天が見るときにもかわいそうに思うほどのこじきに
同情しなければならないのであって、
のろわれたこじきに御飯を食べさせたならば、
同じ取り扱いを受けるようになります。

ですから、人を見分けることができなければなりません。

神がどのようにごらんになられるのかを
見分けなければならないのであって、
何も分からずにもてなしをしては、
皆さんが同参罪を犯すようになる
ということを知らなければなりません。

 
それでは、どのようにして人を識別しますか? 
まずは、皆さん自ら復活して、聖霊の目を開けてください。

神聖なる目を開け、人を見分けることができなければなりません。
私が世話をして神にまで
達することのできる人を探し求めなければなりません。

同じように苦労する人であっても
冷遇しなければならない人がいるし、哀れに思う人がいます。
それを分別するためには、皆さん自身が
神霊の目を開けなければならないのです。

では、自分が神聖なる目をもったかどうかを
どのようにして知ることができますか。

それは、会って対話してみるならば分かるのです。
会って話してみるならば「ああ、この人はかわいそうだなあ」
という思いになる人がいます。

また、「もう少し苦労しなければならないなあ」
と思われる人もいるのです。


こじきたちにふるまってみるならば、
あるこじきは「御飯を少し下さい」と言っても、
心の中では「ああ、次のあいさつは何と言おうか」と心配し、
照れくさくて出ていくのです。

そうかと思えば、あるこじきは、
暖かい部屋でたくさん食べて出ていきながらも、
主人を良くない目で見る人がいるのです。

そのような時は、よくなだめて早く送り出すほうが良いのです。
誤ってもてなしたと言いがかりをつけてくる場合もあります。

 
今日、私たちが真のみ旨を生きながら、実に教会を心配し、
念慮するようになるならば教会に客が来るとき、
自分でも分からずに行くようになるのです。

にわかに教会に行きたくなって
行ってみると会うべき人が来ているという、
そのような経験をしたことがあったでしょう。

このようなことを見るとき、
今日、私の心にみ言に対した真情をもつならば、
天が常に後ろで私に協助して
くださっていることを知ることができます。

ですから、もう少し神霊に満ちて
心情的に生きるならば、この目も明るくなるし、
人も見分けることができるようになります。

そのようにして自分の内なる人
(霊人体)を育てていくのです。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
イエス様が地上で基盤を築かれた方法

再編集 文責:ten1ko2


イエス様は、人のために尽くす歩みをされ、
それを原動力としてみ旨を進んでいかれたのですね。

自らの高い心霊基準に相対する人が現れない場合、
ために生きる実践をしていったのは、
義人・聖人たちも同じなのかな、と思います。

ヨハネ先生は、こじきの見分け方に言及されていました。
なんとも面白いですね。。。

悪事を行い、こじきになるしかなかった人もいるし、
善人でありながら、何かの事情で
こじきになった人もいるでしょう。。。

私たちは、霊性を高めれば、
人の心霊基準をも判断できるのですね。

ヨハネ先生の言われるように、
もっと内なる人(霊人体)を育てていきたいです。



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2023年12月17日

なぜこの人が私の夫/妻なのか、家庭連合のカップルのあるある 《蝶野部長》2



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名講師、本部の蝶野(ちょうの)家庭教育部長の講座。
若い2世圏の人たちにもお勧めです。

祝福を受けても堕落性が多く、
「原理は、自分に適用したときにだけ、愛になる」
というのに、人に当てはめては
葛藤して、なかなか成長できない私たち。

どうしたら堕落性を脱げるのでしょうか。


堕落の血統を清算したんですが、痕跡がまだ残っています。
(祝福家庭の夫婦も)祝福2世も、
堕落性がまだ残っているが、でも無原罪。

その堕落性をどうするか。
実は、堕落性の根はないんですね。

祝福で堕落性は残っているものの、
根は清算されたというのですが、
しみ込んで残った癖があります。

祝福を通して血統転換したのであれば、
神の息子娘にふさわしくなっていかなければなりません。

(祝福までは、)
堕落性を脱ぐ条件としてメシヤを迎えていきましたが、
祝福を受けちゃった場合には、堕落性の根はありません。

根はないんだけれども、痕跡は残っています。

赤いインクの色水に植物を浸けたら色がつきますが、
でもこれが、祝福を受けたら真水に変わっている。
でも残っている色がある。
早く気化させて色を抜かなければならない。


これは(つまり)、人間の5%によってしか
(堕落性を)脱ぐことができないということです。

霊的役事で恩恵がある時代です。
しかし、自分で自分のことをやるというこの部分、
ハードルは(以前より)下がったのですが、
走るのは自分だということ、
自分の責任分担を忘れてはいけないのです。

ですから、霊的恩恵プラス、
自分が自分で堕落性を脱ぐというのが必要です。


ですけど、そうした時に、私たちは
祝福を受けても堕落性を完全には脱いでいない
状態で、原理を聞くものですから、
(原理を)相手に当てはめるようになる。

もっと悪い場合には伝道対象者に当てはめるんですね。
(伝道対象者は)まだ原理を聞いていないにも関わらず、
「こういう所がゲストにはあるんだ」と言うのですが、
それはあなたでしょう、ということです。

結局、相手に見えるもの
相手によって自分がぶつかるものは、
実は自分のものなんです。
これが原理原則です。

ですから夫婦で、配偶者にうーん?と思っているものは、
実は自分の中のものなんですね。

しかし自分の中の癖が分からないので、それを教えるために
天の配材で、自分の配偶者がいるんです。
これ、既成祝福もマッチングも(2世祝福も)同じですよ。


ですから、配偶者に対していろいろ思うところ、
躓くところ、カチンとくるところ、
えーっと思うところ、食べ方が気になる、清潔にしない。。。

男性の側からも、女性の側からも
いろいろあるかもしれません。

相手に見えるもの
例えば、子女のマッチングに向かうために
どんな相手を願うかという時に、
夫がえらい外的な要望ばかりする。

年収800万、1千万以上、背が高い人でないと等々
そのように夫が言っていると、それに奥さんが葛藤している。。。


宗教の門をくぐったということは、
なぜそのたたかうことをいう夫が
自分の配偶者なのかということを考えるのが、
信仰者の道なのに、こういう
天の配材(はいざい) は一切吹っ飛んでいます。

それは一般人の葛藤のし方です。
私たちは、神様を中心に出会った関係であり、
配偶者だというところに、
もう一回帰っていかなければなりません。

夫婦が一つになるというときに、こういう現実的な見方や、
意見、感性が合わないなどというところで
葛藤してしまうと(ひとつになれません)。

原理を、相手に適応してたたかう(葛藤する)人は、
だいたい自分には適応していない、という場合が多く、
「自分はどうなんだ」と言われて、玉砕するんですね。

そして、それを子供たちが見ながら、
『これなら一般の夫婦の方がいいんじゃないか』
と思われたとしたら、
それは原理を聞かない方がよかったということになります。


お父様の願いはどこにあったかということですね。

本来は、祝福を受けるまでに完全に堕落性を脱ぐ、
そのための条件(が信仰基台)だというんです。
ですから、血統転換後はサタン分立はいらない、
というのが本来なんですね。

ところが私たちは祝福を受けても堕落性をもち、
それを原理で裁いて(指摘して)いたら、どうなる。
大きくなる。

信仰基台を立てることによって私心、
自分がなくなるというのが条件です。

私はこういう信仰基台を立てたと自慢が始まる場合には、
サタン増幅になる。
サタン分立にならないのです。

(文責:ten1ko2)



み言を相手に適用すると裁きになってしまう、
原理は自分のため、愛は人のためにある、
そのことを肝に銘じていかないといけないと思います。

それとともに、今回は、
さらに踏み込んだことを話されています。

今回は夫婦講座ですので、
自分の配偶者に対して言っておられますが、
すべての人間関係に通じることでしょう。

たとえば配偶者に葛藤するところ、
それが本人の課題というのではなく
自分の課題である、
そのことを悟らなければならない、といいます。

相手に戦って(葛藤して)いる部分は、
自分自身の堕落性なのである、
夫は「頑固で頑固で・・」と言いますが、
頑固であったとしても、
そのことが問題なのではない、
頑固な夫に戦っている、
あなた自身が問題なのだ、
そのようにも話されています。

自分が正しいと思って
み言を振りかざしていくと
サタン分立路程をいっているつもりが、
「サタン増幅」になってしまう。。。

そうではなく、
相手に対して引っかかっているところを
自分の問題として悔い改めていく。
とても高度な捉え方ですし、
簡単でないかもしれませんが、
これがお父様に通じる道である、
信仰の基本となるものだと思うのです。

不定期に続きます。





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posted by ten1ko2 at 09:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする