2023年12月15日

心と体が一致しない私たち、どうしたらよいのでしょうか 《金元弼先生のベストアンサー》 



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心は燃えど 弱きわが身
小暗き(おぐらき)道に 
幾度(いくたび)さまよう・・・
聖歌35番「心には願えど」より

心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、「完全な救い」の1回目
今回は、「完全の基準」です。


私たちは心と体が一致しません。

いつもみ言に触れながら、心は願うけれども、
体はなかなかついて来ないのです。

皆さんもよく御存じのとおり、
完全という基準は神を中心として
私がいかに一致するかということです。

見えない神と私がいかに一致するか
ということが問題なのです。

神は、この世の中に
完全な人としての基準を立ててくださいました。
その方がメシヤです。

私がいかに神と一致した完全な人間になろうとしても、
完全な基準がなければできません。
その基準が与えられたことは本当に幸せであると思います。


我々はメシヤのみ意となかなか一致できません。
完全な基準として立たれたメシヤと、
堕落している人間とはどのような違いがあるのでしょうか。

神と一致した人間は、神を主体として、
対象の立場に立って一つになる、
すなわち第二の主体となるのです。

堕落していない人間が、神を中心として
一つになったならば、その人は第二の神になるわけです。

人間は自分の中に神が宿ることを願い、
神は人間の中に宿ろうとされたのです。

ところが人間はその位置から離れて、
人を中心として神を一致させようとしました。
これが堕落です。


堕落性の一番本質的なものは、
人を中心として神を考えたことです。

メシヤは神を中心とした完成人間です。
神を中心とするということは、
神の愛を中心とするということです。

完成の基準がこの世に立てられたことによって、
初めて堕落人間が完成できるきっかけができたのです。

完成することの考えられない、堕落した
この世の中にあって、完成できる
出発点を私たちは発見したのです。

完成の基準に向かって出発した
私たちの立場であることを忘れてはならないのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「完全の基準」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


私たち人間には良心(本心)があります。
しかし、神様と関係が切れてしまったことが問題です。

だから本心は誰にもあるのだけれど、
神様から離れてしまったので、
良心が残ってしまい、神様を中心としたものではなくなりました。

問題は、真の神様とつながることです。
そのためには、真の父母が重要なのです。

そして、今は、清平天心苑祈禱会を通して、
良心を啓発させる努力をしています。

神様と通じる「私」になりたいですね。。。


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posted by ten1ko2 at 12:39 | Comment(2) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする