心は燃えど 弱きわが身
小暗き(おぐらき)道に
幾度(いくたび)さまよう・・・
小暗き(おぐらき)道に
幾度(いくたび)さまよう・・・
聖歌35番「心には願えど」より
☆
心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。
金元弼(ウォンピル)先生のみ言、「完全な救い」の1回目
今回は、「完全の基準」です。
☆
私たちは心と体が一致しません。
いつもみ言に触れながら、心は願うけれども、
体はなかなかついて来ないのです。
皆さんもよく御存じのとおり、
完全という基準は神を中心として
私がいかに一致するかということです。
見えない神と私がいかに一致するか
ということが問題なのです。
神は、この世の中に
完全な人としての基準を立ててくださいました。
その方がメシヤです。
私がいかに神と一致した完全な人間になろうとしても、
完全な基準がなければできません。
その基準が与えられたことは本当に幸せであると思います。
☆
我々はメシヤのみ意となかなか一致できません。
完全な基準として立たれたメシヤと、
堕落している人間とはどのような違いがあるのでしょうか。
神と一致した人間は、神を主体として、
対象の立場に立って一つになる、
すなわち第二の主体となるのです。
堕落していない人間が、神を中心として
一つになったならば、その人は第二の神になるわけです。
人間は自分の中に神が宿ることを願い、
神は人間の中に宿ろうとされたのです。
ところが人間はその位置から離れて、
人を中心として神を一致させようとしました。
これが堕落です。
☆
堕落性の一番本質的なものは、
人を中心として神を考えたことです。
メシヤは神を中心とした完成人間です。
神を中心とするということは、
神の愛を中心とするということです。
完成の基準がこの世に立てられたことによって、
初めて堕落人間が完成できるきっかけができたのです。
完成することの考えられない、堕落した
この世の中にあって、完成できる
出発点を私たちは発見したのです。
完成の基準に向かって出発した
私たちの立場であることを忘れてはならないのです。
U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「完全の基準」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第十二章 完全な救い
「完全の基準」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
再編集 文責:ten1ko2
私たち人間には良心(本心)があります。
しかし、神様と関係が切れてしまったことが問題です。
だから本心は誰にもあるのだけれど、
神様から離れてしまったので、
良心が残ってしまい、神様を中心としたものではなくなりました。
問題は、真の神様とつながることです。
そのためには、真の父母が重要なのです。
そして、今は、清平天心苑祈禱会を通して、
良心を啓発させる努力をしています。
神様と通じる「私」になりたいですね。。。
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なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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