2023年12月18日

イエスのように、悲しい人たちの友となり、貧しい人たちをもてなそう 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
イエス様が地上で基盤を築かれた方法

 
それではイエス様は、霊界と相対性を結んで
歩みながらも、どのようにして地上に
ご自身の基盤を維持されたのでしょうか? 
それが疑問に思われるのです。

一言で結論を言うならば、
イエス様は、他人の世話をたくさんしたのです。

先生のみ言のように、ために生き、
他人の世話をたくさんしたことが
イエス様の地上の基盤でした。

悲しい人たちのために、忘れようにも
忘れることのできない世話をされたのです。

父母たちも行ってみない癩病人の谷間に
訪ねていってくださり、触ってくださり、
貧しい人たちを愛してくださいました。

私たちも他人に世話になったことがあるのです。
今からは私たちが他人の世話をしなければなりません。

私よりましな人には世話をすることができません。
私より貧しい人を世話しなければなりません。

聖書に「宴会をするとき、豊かに生活する人を
連れてきてもてなしなさい」というみ言はありません。

皆さん、こじきを連れてきてもてなしてみなさい。
これは、お互いに一生の間、
忘れることができないものになります。

 
こじきを世話するならば、天に登録されることは
事実ですけれども、審判を受けたこじきをもてなしては
同参罪を犯すようになるということも
知らなければなりません。

例えば、こじきに身を整えたスパイが
私の家で御飯をごちそうになり、
服を着替えて紳士になって出ていくようになれば、
私は金日成の前には忠臣になるけれども
大韓民国の前には逆賊です。

天の法度もそうです。

こじきであっても無念なるこじき、
天が見るときにもかわいそうに思うほどのこじきに
同情しなければならないのであって、
のろわれたこじきに御飯を食べさせたならば、
同じ取り扱いを受けるようになります。

ですから、人を見分けることができなければなりません。

神がどのようにごらんになられるのかを
見分けなければならないのであって、
何も分からずにもてなしをしては、
皆さんが同参罪を犯すようになる
ということを知らなければなりません。

 
それでは、どのようにして人を識別しますか? 
まずは、皆さん自ら復活して、聖霊の目を開けてください。

神聖なる目を開け、人を見分けることができなければなりません。
私が世話をして神にまで
達することのできる人を探し求めなければなりません。

同じように苦労する人であっても
冷遇しなければならない人がいるし、哀れに思う人がいます。
それを分別するためには、皆さん自身が
神霊の目を開けなければならないのです。

では、自分が神聖なる目をもったかどうかを
どのようにして知ることができますか。

それは、会って対話してみるならば分かるのです。
会って話してみるならば「ああ、この人はかわいそうだなあ」
という思いになる人がいます。

また、「もう少し苦労しなければならないなあ」
と思われる人もいるのです。


こじきたちにふるまってみるならば、
あるこじきは「御飯を少し下さい」と言っても、
心の中では「ああ、次のあいさつは何と言おうか」と心配し、
照れくさくて出ていくのです。

そうかと思えば、あるこじきは、
暖かい部屋でたくさん食べて出ていきながらも、
主人を良くない目で見る人がいるのです。

そのような時は、よくなだめて早く送り出すほうが良いのです。
誤ってもてなしたと言いがかりをつけてくる場合もあります。

 
今日、私たちが真のみ旨を生きながら、実に教会を心配し、
念慮するようになるならば教会に客が来るとき、
自分でも分からずに行くようになるのです。

にわかに教会に行きたくなって
行ってみると会うべき人が来ているという、
そのような経験をしたことがあったでしょう。

このようなことを見るとき、
今日、私の心にみ言に対した真情をもつならば、
天が常に後ろで私に協助して
くださっていることを知ることができます。

ですから、もう少し神霊に満ちて
心情的に生きるならば、この目も明るくなるし、
人も見分けることができるようになります。

そのようにして自分の内なる人
(霊人体)を育てていくのです。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
イエス様が地上で基盤を築かれた方法

再編集 文責:ten1ko2


イエス様は、人のために尽くす歩みをされ、
それを原動力としてみ旨を進んでいかれたのですね。

自らの高い心霊基準に相対する人が現れない場合、
ために生きる実践をしていったのは、
義人・聖人たちも同じなのかな、と思います。

ヨハネ先生は、こじきの見分け方に言及されていました。
なんとも面白いですね。。。

悪事を行い、こじきになるしかなかった人もいるし、
善人でありながら、何かの事情で
こじきになった人もいるでしょう。。。

私たちは、霊性を高めれば、
人の心霊基準をも判断できるのですね。

ヨハネ先生の言われるように、
もっと内なる人(霊人体)を育てていきたいです。



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posted by ten1ko2 at 12:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする