李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
イエス様が地上で基盤を築かれた方法
☆
それではイエス様は、霊界と相対性を結んで
歩みながらも、どのようにして地上に
ご自身の基盤を維持されたのでしょうか?
それが疑問に思われるのです。
一言で結論を言うならば、
イエス様は、他人の世話をたくさんしたのです。
先生のみ言のように、ために生き、
他人の世話をたくさんしたことが
イエス様の地上の基盤でした。
悲しい人たちのために、忘れようにも
忘れることのできない世話をされたのです。
父母たちも行ってみない癩病人の谷間に
訪ねていってくださり、触ってくださり、
貧しい人たちを愛してくださいました。
私たちも他人に世話になったことがあるのです。
今からは私たちが他人の世話をしなければなりません。
私よりましな人には世話をすることができません。
私より貧しい人を世話しなければなりません。
聖書に「宴会をするとき、豊かに生活する人を
連れてきてもてなしなさい」というみ言はありません。
皆さん、こじきを連れてきてもてなしてみなさい。
これは、お互いに一生の間、
忘れることができないものになります。
☆
こじきを世話するならば、天に登録されることは
事実ですけれども、審判を受けたこじきをもてなしては
同参罪を犯すようになるということも
知らなければなりません。
例えば、こじきに身を整えたスパイが
私の家で御飯をごちそうになり、
服を着替えて紳士になって出ていくようになれば、
私は金日成の前には忠臣になるけれども
大韓民国の前には逆賊です。
天の法度もそうです。
こじきであっても無念なるこじき、
天が見るときにもかわいそうに思うほどのこじきに
同情しなければならないのであって、
のろわれたこじきに御飯を食べさせたならば、
同じ取り扱いを受けるようになります。
ですから、人を見分けることができなければなりません。
神がどのようにごらんになられるのかを
見分けなければならないのであって、
何も分からずにもてなしをしては、
皆さんが同参罪を犯すようになる
ということを知らなければなりません。
☆
それでは、どのようにして人を識別しますか?
まずは、皆さん自ら復活して、聖霊の目を開けてください。
神聖なる目を開け、人を見分けることができなければなりません。
私が世話をして神にまで
達することのできる人を探し求めなければなりません。
同じように苦労する人であっても
冷遇しなければならない人がいるし、哀れに思う人がいます。
それを分別するためには、皆さん自身が
神霊の目を開けなければならないのです。
では、自分が神聖なる目をもったかどうかを
どのようにして知ることができますか。
それは、会って対話してみるならば分かるのです。
会って話してみるならば「ああ、この人はかわいそうだなあ」
という思いになる人がいます。
また、「もう少し苦労しなければならないなあ」
と思われる人もいるのです。
☆
こじきたちにふるまってみるならば、
あるこじきは「御飯を少し下さい」と言っても、
心の中では「ああ、次のあいさつは何と言おうか」と心配し、
照れくさくて出ていくのです。
そうかと思えば、あるこじきは、
暖かい部屋でたくさん食べて出ていきながらも、
主人を良くない目で見る人がいるのです。
そのような時は、よくなだめて早く送り出すほうが良いのです。
誤ってもてなしたと言いがかりをつけてくる場合もあります。
☆
今日、私たちが真のみ旨を生きながら、実に教会を心配し、
念慮するようになるならば教会に客が来るとき、
自分でも分からずに行くようになるのです。
にわかに教会に行きたくなって
行ってみると会うべき人が来ているという、
そのような経験をしたことがあったでしょう。
このようなことを見るとき、
今日、私の心にみ言に対した真情をもつならば、
天が常に後ろで私に協助して
くださっていることを知ることができます。
ですから、もう少し神霊に満ちて
心情的に生きるならば、この目も明るくなるし、
人も見分けることができるようになります。
そのようにして自分の内なる人
(霊人体)を育てていくのです。
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
イエス様が地上で基盤を築かれた方法
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
イエス様が地上で基盤を築かれた方法
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再編集 文責:ten1ko2
イエス様は、人のために尽くす歩みをされ、
それを原動力としてみ旨を進んでいかれたのですね。
自らの高い心霊基準に相対する人が現れない場合、
ために生きる実践をしていったのは、
義人・聖人たちも同じなのかな、と思います。
ヨハネ先生は、こじきの見分け方に言及されていました。
なんとも面白いですね。。。
悪事を行い、こじきになるしかなかった人もいるし、
善人でありながら、何かの事情で
こじきになった人もいるでしょう。。。
私たちは、霊性を高めれば、
人の心霊基準をも判断できるのですね。
ヨハネ先生の言われるように、
もっと内なる人(霊人体)を育てていきたいです。
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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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