2024年01月31日

パラグアイ川での神体験、そして真の父母様が・・・ 《神明先生の信仰エッセイ》



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神明先生のエッセイ。今回は、
「オリンポ聖地巡礼での真のお父様との心情的出会い」です。


UTSの仕事で多忙だったのですが、
ブラジル・ジャルジンでの40日修練会
(「世界平和と理想家庭のための40日特別修練会」)の重要性を知っていたので、
1999年の夏、妻と長女と共にそれに参加させていただきました。

そのとき、一番印象に残ったのはオリンポ聖地巡礼での
真のお父様との強烈な心情的出会いでした。

それをここに記すのは、自分の体験を誇示するためはなく、
お父様のご聖和後の今でも真の父母様の心情圏を体験して
前進できる希望があるということを示したいためです。


オリンポ巡礼が行われた日は、8月3日でした。
数十人の私たち一行を乗せた船は、パラグアイ川を
上流に向かって8時間かけてゆっくりと進みました。

ジャルジン修練所スタッフの申明基先生から
真の父母様の遠大なるパンタナル構想を聴きながら、
パラグアイ川の流れる水や周りの景色を実際に眺めると、
それを通して世界と人類を愛される真の父母様の心情が
そのまま伝わってきて、私は何度も泣きました。

しかもそれは、迫害や反対から来る幾多の困難を乗り越えながら、
そこに未来の理想世界の出発の礎を築こうとされる
真の父母様の不変・不屈の愛の心情なのです。

さらに、真の父母様がその前年の1998年の5月15日に、
最大の怨讐とも言うべき朴マリアを赦して祝福を与えるための条件を、
パンタナル荒野での3日路程を通して立てられたことも聴きました。

朴マリアの反逆ゆえにすさまじい苦労に満ちた
40年荒野路程に追いやられたのに、愛をもって彼女を赦せるとは≠ニ、
胸が詰まり泣けてきて、周りの兄弟姉妹に見られないように、
船に揺られる中で始終両手で顔を覆っていました。


「今回のオリンポ巡礼ではお父様に現地でお会いできる保障はない」と、
初めから言われていました。

しかし、船がナビレキのホテル・アメリカーノ(支店)に到着する少し前に、
お父様が私たち一行に会うためにそこで待っていらっしゃる
というニュースが発表されたのです。

それで、皆は割れんばかりの拍手と非常に大きな歓声で喜びを表現しましたが、
私はすでにお父様の心情を深く感じてしまって、
お父様にお会いしてしまったと思ったので、驚くこともなく、
声も出さず、静かに、ただ軽く二、三度手をたたいて拍手しただけでした。

ついに船が到着して、船から降りるとき、私の体は
心情的な興奮のせいか引き締まらず、霊界を浮遊しているかのごとく、
ただゆらゆらと踊るような感じでした。

やっと両足が着地したとき、このホテル・アメリカーノの場所が
あまりにも貴い場所に感じられ、祈るような心で頭を下げました。


お父様が私たちに会ってくださる場所は
そこから30メートルくらい離れていましたが、
私は何かに誘導されるかのごとくスーッと引っ張られていきました。
自分の足で歩いているという感覚が全然ありませんでした。

いよいよお父様にお会いしたとき、私はお父様の目に入らないような片隅で
控えめにしてうつむいていましたが、
お父様は8時間の船旅で培われた私のお父様への心情を感じ取られたせいか、
即座に私に目を付けられて、「証しをし、感想を述べなさい」と言われました。

霊的な心情世界ではお父様とすでに通じていたと思っていたので、
このようになるのではないかという予感はあったのですが、
やはりそうなってしまいました。
お父様は霊能者であられたのです。


私の証しでは、まず、たとえ今回のオリンポ巡礼において
現地でお父様にお会いできなかったとしても、がっかりせずに、
神様と真の父母様のみ旨に対する自分の姿勢は絶対に変わらない、
という決意でここに来ましたと述べました。

英語での証しなので、「絶対に変わらない」 のところを
「ネヴァー・チェンジ」 と言いました。
そしたら、お父様もそれに呼応して大声で 「ネヴァー・チェンジ」
と言って喜んでくださいました。

それから、私も、怨讐・朴マリアを愛し、赦して祝福された
お父様のようになりたい、お父様のように大海よりも大きな愛の懐で
全てを包めるようになりたい、と決意表明をしながら号泣してしまいました。


その証しの後は、皆に対するお父様のみ言になりましたが、
私がそのまま自然の成り行きでお父様の通訳となってしまいました。
それはそれは、もう天国が来たような感じでした。

途中で、お父様の日本語によるみ言が自然に
韓国語になってしまったときがありました。
大体分かっても細かいところまで通訳できなかったので、通訳が滞りました。

そのとき、そこにいたある韓国人リーダーが代わりに流暢に通訳しましたが、
お父様は意外にも「やめろ」と叱りつけられました。
通訳はあくまでもこの私にさせるという意気込みでした。
それで、再び日本語で話し始められました。

このような不足な日本人でも、その場では
心情的相対として用いてくださったことに感謝すると同時に、
申し訳ないという気持ちにもなりました。

ジャルジンの修練所に戻った後の修練会の最中にも、
お父様が怨讐を愛することの重要性を語りながら、
何度も私の名前を呼んでくださいました。

そして、真の父母様との入籍写真撮影で私たちの番が来たとき、
お母様が笑顔で「神明ファミリー」と呼ばれて、
お父様も大きなうなずきと笑顔で反応してくださいました。


実を言いますと、そのころのUTSは大きな財政的問題を抱えていて、
どのように解決しようかと頭を悩ませていたのですが、
真の父母様の愛と赦しの心情世界に触れることによって、
その悩みも吹き飛んでしまうほどでした。

再び言いますが、私は、お父様が聖和された後の今も、
真の父母様が残された愛と赦しの世界はいつでも体験できると思います。
真の父母様の伝統は生きています。
なので、どんなことがあっても頑張っていきましょう。

UTS時代の神体験
:ドクター神明の信仰エッセー
「オリンポ聖地巡礼での真のお父様との心情的出会い」
神明忠昭
(世界家庭にて連載)


神明先生は、お父様と何度も直接会われて、
心情的な体験をされています。

もちろん素晴らしいことであり、
すでに霊界に行かれたお父様とは、
直接お会いすることのできない私たちからすると
羨ましい限りです。

しかし、神明先生は、
そのことが重要なのではない、と語られるのです。

いずれ私たちは霊界に行きます。
そこで待っておられるのが、お父様です。

お父様とどのような出会いができるのか、
そのための今の信仰生活であり、
み旨である、と思うのです。


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posted by ten1ko2 at 09:36 | Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月30日

最強の神スキル♡「授受作用」 家庭連合が絶対に滅ばない理由 《神様コーチング》



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阿部先生の
『天一国主人に育む「神様コーチング」』

統一原理で紹介されている「授受作用」
コミュニケーションのスキルとしても
正しく使えば、最強ですが、
悪い「授受作用」もあるようです・・・

「授受作用」を正しく深く理解する

物事の発展の原理として「授受作用」があります。

人間関係のコミュニケーションにおいても
円滑な関係性を築くための原理です。

では、私たちは日々の生活で
原理的な授受作用を行っているでしょうか。

今回は、原理的な授受作用について考えてみたいと思います。
 

『原理講論』では、「授受作用」が次のように定義されています。

「あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、
 万有原力により、相対基準を造成して、
 良く授け良く受ければ、ここにおいて、
 その存在のためのすべての力、すなわち、
 生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。
 このような過程を通して、力を発生せしめる
 作用のことを授受作用という」
(50ページ)

 
ポイントが三つあります。

第一のポイントは、「主体と対象」です。

主体と対象の関係とは、
男性と女性のような「陽性と陰性」、
もしくは心と体のような「性相と形状」の関係です。

『原理講論』では、
「二性性相の相対的関係を結ぶことによって
存在する」と表現されています。

「相対的な関係を結ぶこと」とは、
「関わり合いながら存在する」
「セットで存在する」
「主体と対象はそれぞれが単独では存在しない」
ということです。

授受作用をするために絶対的に必要なのが
相対(相手)です。

これは、全ての存在様相の絶対的な要件です。
主体と対象という関係からのみ
授受作用が可能となり、そこから力が生じます。

ですから、相手を尊重し、
常に相手に対して感謝する心が大切です。

 
第二のポイントは、「万有原力による相対基準」です。

万有原力とは「被造物が存在するための
全ての力を発生せしめる力の根本」です。

具体的には、主体と対象に対して
「相対関係を築こうとする力」を与えることで、
「相対基準」を結ぶようになります。

「万有原力」が「関係を持たせる力」であれば、
「授受作用の力」は「関係性から生じる力」であるといえます。

自然界には、存在物の乱雑さは必ず増大するという
「エントロピー(乱雑さ)増大の法則」があります。

存在物に何らかの目的性を指向する力が働かなければ、
それを維持、管理、発展させるためには
必ず何らかの「力」が必要となるのです。

主体と対象の授受関係の背後に、
共同の動因と目的性を付与する
高次元の縦的秩序が先に存在しているといえます。

まさに、創造目的を完成させて喜ばせたいという
神様の愛の力が存在していることを知ること、
神様の心情を中心とした授受作用を心がけることが大切です。

「悪く授け悪く受ける」授受作用をしていませんか?

第三のポイントは、「良く授け良く受ける」です。

「良く授け良く受ける」ということは、
「悪く授け悪く受ける」こともあり得るということです。

ただ単に「頻繁に授け受け」すれば
良いということではありません。

動機や目的性、方向性、姿勢などを正し、
原理的に神様のみ意(こころ)にかなった授受作用であることが大切です。

授けることは「与えること・愛すること」であり、
受けることは「もらうこと・愛されること」と捉えがちです。

しかし、「真の愛は与えて忘れること」
「真の愛は無償の愛である」というみ言があるように、
真の愛は受けることではなく
「与える力・投入する力」です。

授受作用とは、まず主体が対象に授け、
それを受けた対象が主体に授け、
それを主体が受けることで、
共に授け合う作用です。

主体だけが一方的に対象に与え、
対象は一方的に受けることをいっているのではありません。

 
それでは、「授けること」が
「愛すること・為(ため)に生きること」ならば、
「受けること」はどのように捉えたらよいのでしょうか。

それは、「全てを喜んで受け入れること」
「感謝すること」と捉えることが大切です。

愛する主体は、「相手が喜ぶ姿を見たい」
という衝動を持つものです。

対象が喜んで受け入れる姿、
感謝する姿を見ると、主体はさらに
「愛したい」という衝動を持つことでしょう。

神様も人間を愛した時に、人間が感謝する姿を見ると
さらに愛したいという衝動を持たれるかたです。

恵みの愛を受ける時は感謝することが容易にできます。
しかし試練や訓練の愛は、不運な出来事、
不幸の姿で現れることが多くあります。

損得勘定で一喜一憂するのではなく、
常に感謝の心で受け入れる姿勢を持つならば、
全ての環境に神様の愛を感じることができることでしょう。

天一国主人に育む「神様コーチング」2
「授受作用」から見たコミュニケーション
ナビゲーター:阿部 美樹
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22789
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


もし「授受作用」を本当に実践していたら、
真の愛による為に生きる実践を成していたら、
今のような問題はなかったと思います。

今年の年頭標語は
10年間同じものです。
「創造主天の父母様に似た、
真の愛を実践する
天一国主人となろう」

以前お伝えしたのかも知れませんが、
10年間同じ、ということは、
まだそのようになっていない、ということです。

本当に悔い改めと反省から
出発する者にならなければなりません。

そのような実践をするなら、
天は絶対に滅ぼさないのではないでしょうか。


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2024年01月29日

神や人のためではなく、自分のためにしていませんか? 心と体が一致しない4《金元弼先生のベストアンサー》



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心と体が一致しない私たち、
見えない神様と一つとなるためには、
どのようにしたらいいのでしょうか。
まず、メシヤと一つとならなければなりませんが──

金元弼(ウォンピル)先生のみ言、
「完全な救い」の続き
「我々を導くメシヤ」です。

 
メシヤは私たちをどのように導いていくのでしょうか。

それは、神のために私たちを
最高の基準にまで進めていかれるのです。
私たちもそういうように導いていくならばメシヤです。

メシヤは、これを通じて何を成そうとされるのですか。
神の目的のためです。

メシヤが国家のために活動する時、
私たちがメシヤと一つになって動けば、
私自身も国家のために活動したことになります。

メシヤは私たちを個人的、
家庭的な次元にとどめたくないのです。
結局は、天宙的なもの、神と
一致した者として完成させたいのです。

完成させるためには、その方向に
私たちを動かしていかなければならないのです。


そこで問題になることは、私たちがメシヤと
一つになって国家のためにやっているから、
国家的完成をなした者かということです。

私個人としては、兄弟のために心の奥底から
本当に喜ぶことができないというような、
個人的な完成もしていない者です。

それにもかかわらず、国家的完成を
なした者だといえるのだろうか、という問題です。

それはいつも私という個人に帰るわけです。
私たちの生活は、良い心が入れば良い行いをするし、
悪い心が入れば悪い行いをします。
肉体は、心のままに働くのです。


人間が見る完成というものと神が見る完成というものとは、
その基準が違っているということを
はっきり知っておかなければなりません。

私たちの位置はどういう世界に立っているかといえば、
完成した善なる世界と、悪の世界の
二つの中間の立場に立っているのです。

昔は、善なる世界も、悪なる世界も
分からない混沌とした世界でした。
しかし、知ってみるとそれは、明らかに
善と悪の二つの世界に分かれているのです。

私たちは善と悪の二つの影響を受けながら
生活しているのですから、これを
分別していかなくてはならない立場に立っています。

神の世界を中心として、堕落した世界を
神の世界に一致させていかなければならない
メシヤのような立場に立っているのが私たちです。


個人的には、心と体が一致せず、
体に傾いた生活をするので、個人的に
人格者ではない、気持ちが悪いという人がいます。

ところが、国家ということになった時、
その心は国家のために傾いていって、
神の願う国家のためにと、体を捨てて、
自分から率先して前に立って戦うのですから、
個人的によくない感情などがあったとしても、
国家のために先頭で戦っているその人の姿を見る時、
個人的な感情はなくなってしまうのです。

消え絶えてしまうというのではなく、
そのことによって薄められるということです。


反対に、個人的には非常に良かったけれども、
国家という問題に対しては、自分の
個人的な安定を保つために、動かなかったとします。

これを神はどのように見られるのだろうかという問題です。
個人的には誤りがあり良くなかったけれども、
国家のためになるという場合、全部許されるのです。

今、私たち個人個人としては、神から見れば
とても救うことができないというのです。
堕落性でいっぱいだというのです。

だから、国家のために、神のためにと尽くすことによって、
個人個人は足りないけれども、そういうことを通じて、
神は、私たちの堕落性を脱がせようとされるのです。
許そうとされる愛もあるのです。

神のゆえに、完成の基準が上のとき、
それより下のことは全部許されるのです。


蕩減の期間が過ぎればどうにかなるというような
甘えた考えは間違いだと思います。

イスラエル民族は、約束の四〇〇年期間の
奴隷生活では、出エジプトができませんでした。
蕩減はごまかしがないのです。

神がイスラエル民族に四〇〇年の期間を与えたというのは、
その期間を過ぎればよいというのではなく、
その期間は猶予として与えたのです。

だから、与えられたその期間中
神の愛を求めなさいという、神の内情があったのです。

ところが四〇〇年過ぎても、神の愛を求めなかったから、
出エジプトが成らずに延長の路程があったのです。

神は苦労されて、メシヤをして私たちを
国家の勝利者にさせようとするのです。
そういう目的があって、この仕事をしなさいといわれるのです。
ただこの期間が過ぎ去ればなんとかなる
というような考え方をしてはいけません。


メシヤは、この人を通じてある仕事をしたら、
この条件も、あの条件をもと…大きな願いがあるのです。

一つのことをすることによって、
六〇〇〇年の成しえなかった蕩減の条件を、
この時代に全部完成させようとするのです。

六〇〇〇年、成そうとして成せなかった蕩減の条件を、
メシヤは深刻な一瞬一瞬によって
全部成し遂げなければならないのです。

 
神の願いがあります。
人には人の願いがあります。

神の願いを受け入れないのではなく、
神の願いを中心に、いかに
人の願いを一致化させるかということです。

神の願いに耳を傾けたら、人はついて来ません。
人を喜ばせるべきか、神を喜ばせるべきか。

メシヤは神の喜びと願いの道をたどらなければなりません。
神の願いを、人を通じて成さなければなりません。
人の願いを無視しては成就できないがゆえに、
メシヤは汗と涙と血を流してこられたのです。

メシヤの願いと目的を成さなければならない皆さんです。
メシヤの願いを中心にして、兄弟の願いを
一致させていかなくてはならない皆さんの立場です。

だから、皆さんの汗と涙と血がなくてはならないのです。

 
ある期間を設けて一生懸命にやるのです。
これを成したら何か得られるだろうと考えてやるのです。

しかし何も変わったものがないとします。
そしてもし、無限にやらなくてはならないとしたら、
皆さんはあきらめてしまうでしょう。
しかし、何年何月までという期間があったらそれを期限として、
それが終わったならば何か変わるだろうと思って力が出ます。

しかし、何も変わったものがなく、
自分自身が願った基準にかなわない時、
非常にむなしくなるのです。

そういう時は心霊復興が必要となって、また次に備えるのです。

今度こそ熱心に頑張ったら与えられるだろうと
やるのですけれども、そんな時、
何かだまされるのではないかと思うこともあるのです。

だまされると思うのは、自分を中心とする時起こる心です。

最初は自分のためにではなく、国のために、
人のためにということで出発したのです。

自分のためにではなく、人のため、
国のためにやったのですが、実績がでなかった場合、
再度行かなければならないのに、
そういう場合にすぐ自分に帰ってくるのです。
私のためにという心に帰ってくるのです。
だから、むなしくなるのです。

「私はためになったのですか」と神に聞きもせず、
メシヤに聞きもせず、自分で考えて
自分に帰ってきてむなしくなるのです。

人のためにと思って出発したのですから、
結果も人のために…としなくてはならないのです。
しかし、出発は人のために、結果は自分のためにとなるのです。

出発が自分のためでしたら、
結果も自分のためになるのです。

U 先生の道は我々の伝統
第十二章 完全な救い
「我々を導くメシヤ」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
再編集 文責:ten1ko2


私は、み旨を歩んでいるから、
個人のことは棚に上げてもらえる・・・
その発想は違うのだと思います。

個人としても、しっかりと
証しを立てていくべきだ、
そういう時を迎えております。

そして、お母様が今の時をどのように見つめているか、
同じ方向を見つめていく時であります。

お母様と一つになるべく、
天心苑での徹夜精誠を基準に
しっかりと歩んでいきたいと思うのです。

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