2024年01月19日

アボジとツーショット写真を撮りたい! 祈祷でその欲望に打ち勝つと・・・ 《神明先生》



210524-1997.0725.jpg
証しをする神明先生の紹介をする
真のお父様 (1997.7.25 アルゼンチン)


神明先生のエッセイ、
今回は、「お父様は絶対にメシアだ!」です。

先回の10日間の南米ツアーの時の
エピソード続編です。


今、統一運動はさまざまな課題を抱えているようです。
このようなときに私たちは
信仰の試練を受けやすいと思います。

「原理」は本当だったのだろうか、
真の父母様は本当にメシアであられたのだろうか、
などという疑問が襲ってきて、
私たちを悩ますこともあるかもしれません。

私自身も弱い一人間として、最も難しい試練を
受けるようになれば、信仰が
どうなってしまうかも分からないのだと思います。

しかし私は、真の父母様が絶対にメシアであられる、
と強く証しをしたいです。
それは、『原理講論』を熟読しても分かるし、
真の父母様の生涯路程を学んでも分かるでしょう。

ここでは私の小さな個人的体験から、
それを証ししてみたいと思います。


1997年8月3日、私は、サンパウロにある
ブラジルの本部教会の建物の、ある部屋で祈っていました。

真のお父様はぶ厚い大理石の壁で隔てられた
隣の部屋におられました。

その日は、お父様との10日間の南米旅行の
最終日でした (お母様は韓国にご滞在)。
いよいよ夕方には米国に飛行機で帰るというときでした。

最終日に記念として、お父様と私の二人だけ
写真を撮らせていただきたいという欲望が出てきたので、
その欲望を消すために必死になって祈っていたのです。

どうせそのような写真を撮ったとしても、
あとで皆に誇らしげに見せるだけであって、
霊的には害になるだけだから、それよりもまず、
この悲惨で哀れな堕落世界を復帰して、
それをお父様にお捧げして喜んでいただくまでは、
そのような欲望は持つまい、と祈りで誓っていたのです。

しかし、堕落世界を復帰してお父様にお捧げする日は、
だいぶ後のことになるだろうから、
もはやお父様はこの地上界にはいらっしゃるまい。

そうすればお父様と二人だけの写真を撮る機会は、
このときを見逃せば永遠に失われる≠ニ思ったとき、
とても悩みましたが、それでもいいのだ≠ニ
祈りの中で自分に言い聞かせました。

そして霊界に行ってからでも、
お父様にはめぐり会えるのだ≠ニ思いました。


そのとき、不思議なことに霊眼が少しばかり開け、
この堕落世界の一切の真っ黒な悪人や悪霊たちが
私の目の前に現れて、私の前で一礼をするのを見たのです。

一礼をしたのは、多分、私が
お父様とのツーショットの写真のことなどを忘れて、
哀れな彼らの事情を優先しようしたので、
彼らがありがたく思ったからだと思います。

彼らが切なく救いを求めていることを目の当たりにしたとき、
私は彼らに対する真のお父様の愛を強く感じ、号泣しました。

お父様とは写真を撮るまいと決意したのに、
逆にお父様をすごく近く感じることになってしまいました。


祈りが終った直後に昼食の時間が来たので、
昼食のためにお父様のいらっしゃる隣の部屋に
行かねばなりませんでした。

タオルで涙を拭き、顔を洗い、何事もなかったかのごとく、
お父様の部屋の扉を開けて中に入ろうとしたとたん、
お父様は待ってましたとばかりにこちらをごらんになって、
「神明、どうしたんだ!」と強く叫ばれました。

お父様は全てをお見通しだったのです。
写真のことは一切言わず、
「お父様の愛を実感しました」と簡単にお答えしたら、
お父様は大きくうなずかれました。

そのあと、食前の代表祈祷をお父様から指名され、
涙、涙の祈祷となりました。


かわいそうなこの堕落世界をいつも愛を持って
救おうとされる、そのようなお父様が
メシアでなくて、一体何なのでしょうか!
絶対にメシアです!

だから今でも、この地上でお母様と共に
私たちがこの世界を愛して復帰しようとすれば、
聖和されて霊界にいらっしゃるお父様に
100パーセント、必ず通じると思います。

UTS時代の神体験
:ドクター神明の信仰エッセー
お父様は絶対にメシアだ!
神明忠昭
(世界家庭に連載)


お父様の霊的感性の鋭さは、
本当に凄いものだと再確認しました。

お父様と実体で交流された
神明先生を羨ましく思いつつも、
今、お父様が霊界におられる時だからこそ、
父母様のために歩む心情と動機が強く持てば、
父母様はともにおられるのだ、
そんな思いにもさせられました。

神明先生、とても貴重な証しをありがとうございました。

(ちなみに上の写真は、同じ南米ツアーの時のものです。
一緒に写真撮影はされなくても、
すでにしっかりツーショットの写真が撮られていたようですね。)




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2024年01月18日

イエスは、十字架が怖かったのではない! ゲッセマネの祈りは、最終手段だった 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



200806-gessemane.jpg


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生

ゲッセマネの三次の祈祷の意味

もう一度考えてみなさい。
「苦杯を免れさせてください…」。

その次はどのようにしてくれというのですか。
とにかく十字架が恐ろしいから……。
これは話になりません。

それでは、どのようにしようというのですか? 

ペテロとヨハネとヤコブが
あのように居眠りしていますが、
彼らは肉身が疲れているから居眠りするのであって、
心に力を得る日には私と共に死ぬ人だから、
少しだけ延期してほしいという頼みなのです。

ところが再び来てみるとこっくりこっくり
と居眠りしていますから、実に切ないことなのです。

それで再び来られては
「目覚めていなさい。
目覚めていなさい。
お前たちだけでも私と共に
試験され得ない人になるならば、
十字架が私から過ぎ去ることができる」

と思いながら目覚めさせておき、
再び神に「神様、できることならば
十字架を免れるようにしてください」
という祈祷をささげ、
再び来てみるならば、再び居眠りしています。

結局、イエス様は、最後にこの闘いをなさったのです。


この三弟子がマグダラのマリヤほどに
心情的に連結されたならば良かったのに……。

皆さん、マグダラのマリヤをご存じですね? 
過越の祭の前夜にイエス様の前に
痛哭していたマリヤ。

私は、その女性をみ言の実体だと呼びたいのです。
本当にイエス様の人、
イエス様の前に記念すべき女性だと考えます。


イエス様がゲッセマネの園に行かれる前夜
ベタニヤのラザロの家に寄ったとき、
彼の妹のマルタとマリヤが
イエス様に夕食をもてなすと語ったことがありました。

そのとき、マルタは台所に行って
早く準備したのですが、
マリヤは自分が持っていた
最も貴重な香油をイエス様の足に注ぎました。

イスラエルの娘にとって香油はとても貴いものです。
婚姻する娘がつけなければならない
最も貴いものだということです。

横にいる人たちが一言言いますから、
イエス様が「私の葬儀をする日のために
そうしているのだから、
そのままにしておきなさい」と語りました。

これを見るならば、マリヤは、
イエス様が一人で心を痛めておられ、
心配なさっていたその胸の内を知り、
自分ができる最善のことをしたわけです。


皆さん、「夫」や「新郎」という
名前を得ることが易しいと思いますか? 

主体である男性がどれだけ出来が良くても、
対象なしには資格を得ることができません。

女性もまたそうなのです。
自分がどれだけ出来が良くても
一人では、新婦という言葉を聞き、
母になる可能性がありません。

結局、対象のゆえに祝福を受けるということなのです。


イエス様もご自身がどれだけ出来が良かったとしても、
イエス様を「私の主よ! 私の新郎様よ!」
と迎える人がいなければならないというのです。

それではイエス様を迎える人はだれですか。

出来が良かろうが悪かろうが罪の中にある人たち、
すなわち、この世の中の人たちが主を迎えてこそ、
イエス様が救世主になれるのです。

相対性を帯びているということなのです。

ですから、私たちの主は、アベル側に属する主にも、
カイン側に属する主にもなるというのです。

これが原理の始まりでもあります。
アベル側だけが迎えてはいけません。

もちろん、アベルが私の仲保者になったりもしますけれども、
対象がいなければ私が立つ位置がありません。

 
イエス様の切なる願いは、この地上で
「私であり君である」ということのできる人を
探し求めることでした。

イエス様は、ゲッセマネの園で三弟子を前にして、
原理的に切実に神の前に祈ったのです。

ところが、三弟子はこっくりこっくり
居眠りしていますから、
いかばかりはがゆかったでしょうか。
ですから、しきりに目覚めさせたのです。

「起きろ、目を覚ませ。
試練に陥るな。
目覚めていて祈祷しよう」。
そして、神の前に再び祈祷しました。

ペテロであり、ヨハネであり、ヤコブであり、私である
という関係、すなわち、「君であり私である」
といえるならば、父のみ旨が地上に
成されるのではないのかと考えられたのです。


イエス様は、ご自身が死ぬことは問題ではないけれども、
父の願いが地上に成されなければならない
とお考えになられたのです。

それで「できることでしたらどうか、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください」
と祈祷なさいました。

このようにすること三回、それでも駄目ですから
「もうだめだ、眠れ。ぐっすり眠れ」と語られました。

言うなれば、今ではお前たち人間が
行くべき道を探し求めたから、
お前たちの行くべき道へ行けというみ言なのです。

痛嘆する仕業です。
そのとき、ローマの兵士が捜しにきたのです。


諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
再編集 文責:ten1ko2


イエス様の本当の価値を知っていたのは、
何の地位も名誉もない、マグダラのマリアなど、
ほんのごくわずかな人たちでした。。。

イエス様にずっと侍っていた3弟子をはじめとした
多くの信徒たちは、結局イエス様が十字架についたあと、
イエス様の本当の姿に出会い、
同じ道のりをいったのでした。

私たちは、真のお母様が最前線で歩まれている今この時、
ともに歩んでいる者たちです。
まさにお母様が「黄金期」と言われています。

本当にありがたいことです。
心から感謝いたします。



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posted by ten1ko2 at 12:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月17日

幸せにしてもらうのではなく、私の責任で世界を天国に変えようというのが家庭連合 《神様コーチング》



240117.jpg


阿部先生の『天一国主人に育む「神様コーチング」』
紹介したいと思います。

阿部先生は以前からコーチングに対して、
研究、実践、講演活動、啓蒙などをされています。

第1回目は、『「天一国主人」を育む文化づくり』です。

家庭連合の会員が信条としている
「家庭盟誓」や「年頭標語」の説明とともに、
真のお母様の年頭のみ言も紹介されています。

天一国主人に育む「神様コーチング」1
「天一国主人」を育む文化づくり

人の間と書いて「人間」というように、
人間関係の在り方は、
幸せな人生を歩むために最も大切な要素です。

愛の関係を育むためには、愛の根源である
神様の通過体になること、神様の視点で見ること、
神様の心情で感じることが必要です。

その極意を、「神様コーチング」というコーナータイトルで、
今回から連載で紹介してまいります。

「天一国主人」とは何か?

タイトルの最初に「天一国主人」という言葉がありますが、
「天一国主人」とは何でしょうか。

「家庭盟誓」の全ての項目の冒頭は、
「天一国主人、私たち家庭は、
真の愛を中心として…」となっています。

私たちの生活指針である
「天の父母様に似た真の愛を実践する
天一国の真の主人になろう」の標語も、
一言で表現すれば、
「天一国の真の主人になろう」となります。

天一国主人とは、私たちが目指す「理想の姿」です。
私たちがなすべき「使命」であり、
本然の「アイデンティティー」といえます。


それでは、「天一国主人」という言葉が
出てきた摂理的な背景を確認してみましょう。

「家庭盟誓」は、1994年5月1日の
「世界平和統一家庭連合」への名称変更とともに、
私たちに与えられた家庭の誓いです。

「世界基督教統一神霊協会」が創立された
1954年から40年間は、個人的な次元における
「私の誓い」でしたが、「家庭盟誓」は
真の家庭を目指して家庭単位で共に唱え、
実践するための誓いです。

この「家庭盟誓」は、天国の門を開く鍵であり、
祈りの中で最高の祈りなのです。

 
1960年の真の父母様の聖婚式は、
サタン圏内でアダム家庭を代表する基準で行われたものでした。

2001年1月13日の神様王権即位式を背景に、
2003年2月(真のお母様が満60歳)には、
神様の祖国である天一国という土台の中で聖婚式が行われました。

このような摂理の進展によって、
サタン中心の世界が神様中心の世界に転換されました。

その結果、「家庭盟誓」においても
祝福家庭に「天一国主人」という立場が与えられたのです。

神様を中心とする時代であるということは、
神様に侍って暮らす生活をすることを意味しています。

祝福家庭は、夫婦・家族が共に侍る生活をしてこそ、
天一国主人になったといえるのです。


「『天一国主人』というとき、
責任者と主人は違います。
責任者はその時々によって離れていけますが、
主人は永遠なのです。

この地の家庭を中心として主人になるためには、
一人ではなく、夫婦で主人にならなければなりません。

夫婦だけではありません。
四位基台を完成し、
三代が主人にならなければなりません。
三代が主人になれなければならないのです。

祖父、祖母、父、母、その次に
自分たち夫婦、そしてその息子、娘まで、
代数としては三代ですが、
段階としては四段階になります。
それが天一国主人です」
(天一国経典『天聖経』、第12篇 天一国、
第3章 天一国国民の道と「家庭盟誓」、
第5節 天一国主人の生活と「家庭盟誓」、14)
本然のコミュニケーション文化とは?

それでは、「天の父母様に似た
真の愛を実践する天一国の真の主人になろう」

の標語に関する真のお母様のみ言を紹介します。

「2014年は、毎日、そのみ言(標語)を
記憶しながら、一つ一つ問題点を
解決していかなければなりません。

先ほど示した標語のように
『創造主、天の父母様に似た、
真の愛を実践する
天一国の真の主人になろう』です。

『なるでしょう』ではなく『なろう』です。

これは必ず勝利しなければならない
という意味です。
『なるでしょう』ではなく『なろう』、
今すぐにです」


(2014年1月1日 天一国元年天暦12月1日 韓国・天正宮博物館)


「皆さんの能力を、
創意力を探してみてください。

皆さん自身が発見しなければなりません。
誰かがしてくれるのではありません。
分かりましたか?

それでは新しく変身する
天一国の民になるよう、お願いします。
ただ行ったり来たりする人になってはなりません。

全ての面で責任を持ち、主人意識を持って
責任ある行動をしなければなりません。

新しい一年を出発するに当たり、
これが祝福のみ言です」
(同上)


 
このように、真のお母様は「天一国の真の主人」の姿を、
「必ず勝利する」
「自身が発見する」
「主人意識を持って責任ある行動」
などと表現されました。

指示されたことを成すことも必要ですが、
自身で考えて発見する姿勢、
私が主人であるという意識、
私が責任を持つ行動、勝利して
実績を出す結果が問われる時代だといえるのです。

「救援摂理」は神様が主人となって
メシヤを送ってくださいましたが、
「再創造摂理」は神様が主人ではありません。

「私たち家庭」が「再創造の主人」
として立てられているのです。

今こそ、私たちが「天一国の主人」となる
意識や行動が必要であり、全ての人を
「天一国の主人」に育む文化が必要なのです。

そのためには、生存・繁殖・作用が
「授受作用」によってなされるので、
原理的な授受作用に根差した
本然のコミュニケーション文化が大切となるのです。

天一国主人に育む「神様コーチング」1
「天一国主人」を育む文化づくり
ナビゲーター:阿部 美樹
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


お母様のみ言が掲載されていますが、
今回、10年前に語られたみ言(年頭標語)
それを今年の年頭でも紹介されています。

すなわち、み言を成就していない、ということであり、
私たちは、いまだに主人になっていない、
と言われても認めざるを得ない立場です。

10年ひと昔といいますが、
統一原理では、10数は帰一数、
再出発の数字でもあります。

もう一度、10年を期して、
再出発をすることを天が願われている、
そのことを感じます。

過去を反省し、
足らない部分を改善する、
そのような者になっていきたいです。





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posted by ten1ko2 at 11:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする