2024年01月20日

家庭連合一世信者は、神の愛の基準に立ちかえらなければならない?! 《蝶野部長6》

縦軸が大事! ただし、み旨中心ではなく、愛を中心として一つとなる?!


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(私は)世界や人類を愛する以上に、
神様を愛することに気が狂っている


文鮮明



蝶野部長の夫婦講座、続編です。

家庭連合の祝福結婚を受けている夫婦への
本来の基準と言いますか、
少し厳しいお話になっています。


(祝福家庭の)夫婦の価値というものに
我に帰らなければなりません。

ただこの世の幸せを求めてきた、
というのは普通の夫婦にすぎません。

一般の結婚より、不倫、離婚がないかな
という動機だと、普通の夫婦です。

自分に都合がよい、愛されたいという
動機が変わってないまま。。。
配偶者を普通の男女と見ているだけ、
ということになります。

だけど(祝福を)受けたから無原罪。
無原罪だけど、普通の夫婦と同じ、という家庭が量産されていく、
これは滅びの兆候があると思うのです。

祝福の価値にかえっていくのです。
自分の生い立ちのレベルで、配偶者を愛するのではありません。
心理学的レベルでは限界があります。

自分の相手はただの男、女じゃない、神様です。
祝福を受けたということはそうだということになります。
私の神様。

法廷論的には、血統に関してはサタンは讒訴できません。
無原罪だと言われれば無原罪です。

(ただし)本当の子どもなら親の心を通して全てを見る、
自発的な心があるはずなのにそうではない、
しかし戸籍には入ったという立場です。

本当の意味で心情を完成させなければ、
血統転換の最後を締めくくることにならない、
ということになるんだと思います。


神の価値で相手を見る、
ともにみ旨を歩んだ運動体同志ではなく。
お父様は行動や運動体を通して一つとなれと言っていない、
愛で一つとなるというのです。
(これは)レベルが高い。

(私たちの祝福は)蕩減祝福であるが、
創造(再創造)も入っているのです。
蕩減は再創造のためであり、
蕩減のためだけの祝福はありません。

(「掃除」を例にとると)掃除が目的ではなく、
部屋をきれいにするためです。
蕩減、穴埋めが好きというのはおかしいのです。
蕩減は自分が作られていくためのものです。

蕩減、穴埋め、清算が好きというのは異常なのであって、
真人間に成長して、神になるために摂理的には蕩減があるのです。 
自分がつくられていくための蕩減です。


(祝福家庭の)夫婦も、蕩減のためだけに
マッチングを信じてすべてを投げうちました。

2世は、(そのような)1世の信仰は凄いと言います。
しかし、「両親を見ていたら愛は見えない。
歩みはすごいけど、愛がない」(というのです。)

(逆に)2世を見れば、縦があれば鬼に金棒だが、縦が薄い、
縦的なものを入れていかないと、
ただ受けただけでは手放しで喜べません。

しかし1世の祝福は、こんなに夫婦が真反対でも
離婚の率は格段に少ないのです。
ということは縦がある(ということです)。

縦だけだと愛はない、縦を誇っても2世はしらけるだけなので、
あまり過去の歩みを誇るのはやめましょう。
メシヤを迎えるための武勇伝。。。


なぜ私たちが苦労の道を行って、
ここまで犠牲をして、最後霊界でお父様と会おう、
という群れになっているんでしょうか。

それは、お父様がブレなかった理由と同じですよ。

お父様の強靭な忍耐力と信仰はなぜあるのか、
「先生は君たちや世界を愛するためにやっているという以上に
神様のことで気が狂っているからだ」

とおっしゃいました。

つまり縦軸があるわけですよ。
神様のことで気が狂っているから、
どんなに反対されてもあまり動かないのです。
なぜ?横は気にならないのです。

横に関心が行ったとしたら、慰められようとしたら、
一発で世間体を気にするようになります。

お父様の心には、神様を慰めることしかなかったので、
興南に行く時も、真っ先に神様を慰めたというんですね。

2019年5月北千葉「夫婦講座」より
以前、教区にお呼びした時の講義です。
編集 文責:ten1ko2


自分の家族を置いて、献身してきた一世たち。。。
でも、本当は、氏族を伝道しなければならない、
そのようなみ言もありましたし、
親から反対されたとしても、
み言を伝えるべき期間でした。

お父様は、10日に一度、親に手紙を書け、
とおっしゃられました。
親を愛した条件を立て、
み言を伝えるためだったと思います。

ですから、一世である私たちも、
本来は氏族復帰をしながらみ旨を歩む、
そのような立場であったと思います。

ただし、お父様は、愛したくても愛せませんでした。
すべてを神様のため、そして私たち人類のために
尽くしくださり、現在の
愛すべきものを愛することができる
時代となったのです。

実際、当時は私たちにおいても、
厳しい現実がありました。。。

いくら親を愛していても、
この道に進むことを反対されたのなら、
神様に背を向けることはできない、というのが
私自身の本心の叫びでした。

このようにお父様が、何よりも神様を愛していかれた、
狂ったように神様を愛された、
その道が何よりも貴いし、
お父様が歩んでくださったので、
私たちもその心情を相続する(受け継ぐ)
ことができるのだと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 09:59 | Comment(2) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする