若き日の真の父が、「蕩減は満ちる」と気づいた瞬間とは
篠崎先生の「喜びと幸せの生活伝道」
今回は、『蕩減条件』です。
☆
神様の復帰摂理は再創造の道です。
再創造ですから、創造原理と同じように、
人間が責任分担を果たしてこそ、
その目的を実現することができます。
神様のもとに人を復帰し再創造していく伝道も、
責任分担として蕩減(とうげん)条件を立てる生活を
することによって勝利する道が開かれるのです。
条件がなければ、神様も、
私たちを所有することはできません。
真のお父様が指導してくださった
「蕩減条件」について考えてみます。
☆
「蕩減」は美しい言葉
真のお父様は、「蕩減」は美しい言葉であると語られました。
皆さんは蕩減が美しいと感じますか?
「本当にそうなの?」と疑問に思う人も多いのではないでしょうか。
一方、そのみ言どおりだと感じる人は、
蕩減の深い意味を悟り、み旨の妙味を
味わったことがある人に違いありません。
☆
私が信仰の初期に、ある先輩から聞いた話です。
「真のお父様が若き日に朝霧の中で
精誠を込めて祈祷をされていた。
その霧は一枚の葉の表面をいっぱいに濡(ぬ)らし、
やがて一粒の滴(しずく)を結んだ。
その滴は葉からピタンと落ち、流れて一個の石にぶつかった。
滴はあたかも石に吸い込まれるかのように石の下を濡らした。
それが何度も繰り返され、水滴は
石の下いっぱいに湛(たた)えられた。
最後の一滴が葉から落ちて石にぶつかった瞬間、
石の下の水は表面張力を破ってタラッと流れた。
同時に、石もコロッと動いた。
真のお父様はこの瞬間をごらんになり、
霧が石をも動かすことを通して、
『蕩減には有限性がある』と悟られたのです」
☆
真のお父様は、第二次世界大戦後のキリスト教
および民主世界の失敗を蕩減復帰するため、
40年荒野路程を歩まれ、勝利して、
1985年8月16日に「一勝日」を宣布されました。
お父様はその路程を、
「過ぎてみればすべて愛であった」
と振り返られたといいます。
お父様が示してくださったように、
どんなに困難に見える蕩減復帰の道も、
私たちが精誠を投入し続け、
蕩減条件が満ちれば必ず開かれるのです。
☆
伝道も同じです。
まだ霊の子が立っていないという人は、
往々にして蕩減条件が満ちる瞬間を迎える前に
諦めてしまっているのです。
「忍苦の絶頂を越えて天に尽くす精誠は、
必ず祝福の実を結ぶ」と信じるのです。
決して諦めてはいけません。
勝利は最後の瞬間にもたらされます。
そこに、蕩減復帰の醍醐味(だいごみ)があるのです。
伝道において、正しい立場で迫害を受ければ
蕩減条件になりますが、
サタンの讒訴(ざんそ)条件が少しでも残っていると、
勝利したように見えても、後で必ずサタンが奪っていきます。
ですから、どんなに難しい立場にあっても、
真の愛を持って精誠を尽くし続けるのです。
【編集部注】
「霊の子(霊の親)」は「信仰の子女(信仰の親)」のこと
篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第五章 み言に学ぶ伝道の秘訣
七、蕩減条件
(blessed lifeより(56))
「霊の子(霊の親)」は「信仰の子女(信仰の親)」のこと
篠崎 幸郎・著(光言社・刊
『氏族伝道講座 喜びと幸せの生活伝道 み言の原点に立ち返る』より)
第五章 み言に学ぶ伝道の秘訣
七、蕩減条件
(blessed lifeより(56))
☆
雨乞いの祈りは、必ず聞かれる、といいます。
雨が降るまで祈るからです。
蕩減条件も、天は必ず聞かれています。
私たちも勝利するまで精誠を捧げる、
そんな思いをもっていきたいと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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